42.魔術師
文字数 3,341文字
出立する前日の夜、エルンストの庭に魔術師エテレインが姿を現した。
エテレインは時間を取り戻すかのように慌ただしく、まだ完全な体調ではないのに寝る間を惜しんで働いている中、時間を割いてフライハイトに会いにきたのだった。
水を張った泉の淵に腰を掛けた魔術師は月の光が結晶となったような物静かな美しさをたたえていた。その顔や表情にかつて彼になされた暴虐の名残はどこにもない。ただ穏やかな相貌の中で瞳の深さだけが魔術師の心の軌跡を表しているようだった。その深淵はエテレインという人間の豊かさと同時に、恐ろしさも垣間見せていた。それは、ハイマからも感じたものと同質のようで、魔術師とは不思議な存在だとフライハイトは改めて思った。
エテレインがフライハイトに礼を言った。静かで、不思議な響きの声だった。
「私は何もしていませんよ」
フライハイトが言うと、エテレインはわずかに表情を和らげた。笑ったようだった。魔術師は首を横に振った。ヴァールが適当に切り刻んでしまった不揃いの髪は綺麗に切り揃えられ、彼の頭の動きに応じて揺れた。フライハイトはそれを不思議な気持ちで見つめた。彼はいつ目覚めたのだろう。それとも最初から全てわかっていたのだろうか。
あの時、ヴァールが彼の名を呼んだ、あの瞬間、エテレインは目覚めたのだろうか。王の血を持つ者の声が、魔術師の魂を甦らせたのだろうか。
ふいにヴァールのことが気になった。今どこで何をしているのか、何もしらない。が、彼のことを訊くのが躊躇われた。
「貴方はいつヴァールがファステン王子の子どもだと知ったのですか?」
つい遠回しにそんなことを訊いてみた。
「ファステン様から、ヴァール様のことはお聞きしていました。私がマクラーンに捕らわれていた最初の頃、あの方は私の元を訪れては色々な話をしていかれました。私を慰めようとしていたのかもれません。外が少しでも見えるようにと窓も作って下さいました」
エテレインは遠い目をした。その白い顔に哀しみの陰がよぎる。
しかし、彼を救い出して逃げることはしなかったのだ、とフライハイトは思った。捕らわれ、酷い仕打ちを受けているエテレインをただ見つめていただけなのだ。かすかな非難が彼の心に宿ったのを感じたのか、或いはその心を不思議な力で読み取ったのか、魔術師は哀しげに笑った。
「あの方にはどうすることも出来なかったのです。それに、私に成された仕打ちは、当然の報いだったのかもしれません」
「当然の……報い?」
驚いたようにフライハイトは訊いた。
「私が、あの方の運命を狂わせてしまったから」
魔術師が静かに言ったその言葉の意味がフライハイトにはわからなかった。ファステンを王位につけることができなかったことを、魔術師として悔悟しているのだろうか。しかし、その疑問に対する答えは、エテレインの深い苦悩から生まれる覆いの中に隠されて、問うことも躊躇 われた。伏せられた睫毛の陰でその宝石のような瞳の色は見えなかった。
月の光が降り注いで、美しい魔術師を淡く輝かせる。時が静かに、魔術師のかすかに波立った感情と共に流れていった。
「あなたは私を助けてくださいました」
しばらくして、エテレインは言った。彼の声の静けさは、周囲の空気までを静寂に包み込む。
「ここまでの道のりのこともそうですが、それよりもずっと昔に」
「ずっと……昔?」
エテレインがフライハイトに蒼い瞳を向けてうなずく。
「貴方がまだ小さな子どもだった時に」
魔術師はフライハイトがヴァールと一緒に、自分を見にきた時のことを知っていた。
「私はあの檻の中で、最初の頃はまだ意識がはっきりしていました。ですが、次第に心が体から離れることが多くなっていました。全ての感覚を捨ててしまいたい衝動が何度も起きました」
魔術師はかすかに眉をひそめて言った。
「全て、終わらせてしまおうかと、そう何度も思いました」
何故、そうしなかったのですか?とフライハイトは問いかけようとしたが、やめた。死ぬことはできなかったのだ。ファステンがいたのだから。王子が生きている限り、魔術師は彼を置いて自分だけ死ぬことはできなかったのだろう。そしてその息子がいる限り。そのために、彼は生き続けたのだ。
「私は疲れていました。もう、もたないと感じていました。私の周りには血と臓物しかなかったのです。それは私の体の中にも、心の中にも満ちていて、私は窒息しそうだった」
フライハイトは語る魔術師を見つめた。こうして座る姿に、マクラーンにいた彼が重なる。
「あの日、貴方が現れた。貴方の緑色の瞳を見た時に、私の心はその美しい色彩に慰められました」
魔術師はそう言って、遠くを見る瞳をフライハイトの瞳に向けた。
「貴方の草の色をしたその美しい瞳に、そして私を、私自身を見つめる瞳に、私がここに存在しているのだということを伝えてくる瞳に、もうしばらく生きる力を与えられたのです」
エテレインはそう言って微笑んだ。フライハイトは何と答えてよいのかわからなかった。自分の方こそが、マクラーンの魔物の瞳に魅入られたのだと、そう思いながら。
しばらくしてエルンストが現れたので、フライハイトは場を辞した。
将軍と魔術師はその夜、失われた時間を埋めるかのように、語り合っていた。結局ヴァールのことは訊けなかったが、これでいいのだという気がした。
翌日、出発する日になってもヴァールに会うことはできず、ヴァールの方から姿を現すこともなかった。
「冷たい男だ」
フューレンは呆れたように言っていたが、言葉ほど、ヴァールを非難してはいなかった。彼が寝食を忘れ、周囲が慌てふためく質量で公務をこなし、どれほど多忙を極めているか、彼女は直に知っていた。ただ、ヴァールの性格から、王としての仕事をそれほど熱心に務めるとは、思いもよらぬことと内心で訝 ってはいたが。とにかく、ヴァールはただならぬ根気で、鬼神のごとく、ありとあらゆるものを処理し続けている。
「父も見送りたいと言っていたのだけれど」
フューレンは肩を竦 めた。何でも朝早くに宮廷で何やら騒動が起こったとかで呼び出されたのだ。まだまだ混乱している状況では始終、大なり小なり騒動が起きているので、今朝のことも心配には及ばないだろうというのがフューレンの感想だった。
「まあ、お呼びがかかる度、父は文句を言いつつ、実は嬉しそうでな。最近、少し若返ったような気がする」
フューレンの言葉にフライハイトも笑う。
「ところで彼は大丈夫なのか?」
フライハイトは彼らから少し離れた所にぼんやり立っているエーベンのことを訊いた。エーベンは暗い顔で遠巻きに二人を見つめている。フューレンはちらりとその方を見つめて苦笑した。
「私に剣を向けたことがショックでいまだに立ち直れないのだ。地下迷宮よりも深い場所まで落ち込んでいる。意外に繊細な男でな」
そう言ってフューレンは笑った。エーベンに同情しつつ、フューレンのその笑顔があれば、やがて彼も元気を取り戻せるだろうと、フライハイトは思った。
「これから、どうすのだ?」
「取り敢えず、村に戻って片づけてくるつもりだ」
フライハイトの言葉にフューレンはうなずいた。ブロカーデの村はすでに焼き尽くされ、灰塵に帰してしまったが、村人たちのために弔らいが必要だった。辛い作業になることを思って、フューレンは無言のままフライハイトの大きな肩を叩いた。
「あんたには世話になったな。ありがとう」
フライハイトが改まった口調で言うとフューレンはびっくりしたような顔をした。
「それは、お互い様だ」
そう言って笑った。
「用事が済んだら戻ってきてくれ、必ず。と言うのが父からの伝言だ。あなたを息子にしたいらしい」
フューレンが言うとフライハイトは笑い、うなずくことで感謝を示した。
二人は別れの言葉なく、わかれた。
フライハイトの姿が遠ざかってからエーベンがとぼとぼとやって来て、言った。
「息子にしたいって、お前の婿にってことじゃないだろうな?」
エテレインは時間を取り戻すかのように慌ただしく、まだ完全な体調ではないのに寝る間を惜しんで働いている中、時間を割いてフライハイトに会いにきたのだった。
水を張った泉の淵に腰を掛けた魔術師は月の光が結晶となったような物静かな美しさをたたえていた。その顔や表情にかつて彼になされた暴虐の名残はどこにもない。ただ穏やかな相貌の中で瞳の深さだけが魔術師の心の軌跡を表しているようだった。その深淵はエテレインという人間の豊かさと同時に、恐ろしさも垣間見せていた。それは、ハイマからも感じたものと同質のようで、魔術師とは不思議な存在だとフライハイトは改めて思った。
エテレインがフライハイトに礼を言った。静かで、不思議な響きの声だった。
「私は何もしていませんよ」
フライハイトが言うと、エテレインはわずかに表情を和らげた。笑ったようだった。魔術師は首を横に振った。ヴァールが適当に切り刻んでしまった不揃いの髪は綺麗に切り揃えられ、彼の頭の動きに応じて揺れた。フライハイトはそれを不思議な気持ちで見つめた。彼はいつ目覚めたのだろう。それとも最初から全てわかっていたのだろうか。
あの時、ヴァールが彼の名を呼んだ、あの瞬間、エテレインは目覚めたのだろうか。王の血を持つ者の声が、魔術師の魂を甦らせたのだろうか。
ふいにヴァールのことが気になった。今どこで何をしているのか、何もしらない。が、彼のことを訊くのが躊躇われた。
「貴方はいつヴァールがファステン王子の子どもだと知ったのですか?」
つい遠回しにそんなことを訊いてみた。
「ファステン様から、ヴァール様のことはお聞きしていました。私がマクラーンに捕らわれていた最初の頃、あの方は私の元を訪れては色々な話をしていかれました。私を慰めようとしていたのかもれません。外が少しでも見えるようにと窓も作って下さいました」
エテレインは遠い目をした。その白い顔に哀しみの陰がよぎる。
しかし、彼を救い出して逃げることはしなかったのだ、とフライハイトは思った。捕らわれ、酷い仕打ちを受けているエテレインをただ見つめていただけなのだ。かすかな非難が彼の心に宿ったのを感じたのか、或いはその心を不思議な力で読み取ったのか、魔術師は哀しげに笑った。
「あの方にはどうすることも出来なかったのです。それに、私に成された仕打ちは、当然の報いだったのかもしれません」
「当然の……報い?」
驚いたようにフライハイトは訊いた。
「私が、あの方の運命を狂わせてしまったから」
魔術師が静かに言ったその言葉の意味がフライハイトにはわからなかった。ファステンを王位につけることができなかったことを、魔術師として悔悟しているのだろうか。しかし、その疑問に対する答えは、エテレインの深い苦悩から生まれる覆いの中に隠されて、問うことも
月の光が降り注いで、美しい魔術師を淡く輝かせる。時が静かに、魔術師のかすかに波立った感情と共に流れていった。
「あなたは私を助けてくださいました」
しばらくして、エテレインは言った。彼の声の静けさは、周囲の空気までを静寂に包み込む。
「ここまでの道のりのこともそうですが、それよりもずっと昔に」
「ずっと……昔?」
エテレインがフライハイトに蒼い瞳を向けてうなずく。
「貴方がまだ小さな子どもだった時に」
魔術師はフライハイトがヴァールと一緒に、自分を見にきた時のことを知っていた。
「私はあの檻の中で、最初の頃はまだ意識がはっきりしていました。ですが、次第に心が体から離れることが多くなっていました。全ての感覚を捨ててしまいたい衝動が何度も起きました」
魔術師はかすかに眉をひそめて言った。
「全て、終わらせてしまおうかと、そう何度も思いました」
何故、そうしなかったのですか?とフライハイトは問いかけようとしたが、やめた。死ぬことはできなかったのだ。ファステンがいたのだから。王子が生きている限り、魔術師は彼を置いて自分だけ死ぬことはできなかったのだろう。そしてその息子がいる限り。そのために、彼は生き続けたのだ。
「私は疲れていました。もう、もたないと感じていました。私の周りには血と臓物しかなかったのです。それは私の体の中にも、心の中にも満ちていて、私は窒息しそうだった」
フライハイトは語る魔術師を見つめた。こうして座る姿に、マクラーンにいた彼が重なる。
「あの日、貴方が現れた。貴方の緑色の瞳を見た時に、私の心はその美しい色彩に慰められました」
魔術師はそう言って、遠くを見る瞳をフライハイトの瞳に向けた。
「貴方の草の色をしたその美しい瞳に、そして私を、私自身を見つめる瞳に、私がここに存在しているのだということを伝えてくる瞳に、もうしばらく生きる力を与えられたのです」
エテレインはそう言って微笑んだ。フライハイトは何と答えてよいのかわからなかった。自分の方こそが、マクラーンの魔物の瞳に魅入られたのだと、そう思いながら。
しばらくしてエルンストが現れたので、フライハイトは場を辞した。
将軍と魔術師はその夜、失われた時間を埋めるかのように、語り合っていた。結局ヴァールのことは訊けなかったが、これでいいのだという気がした。
翌日、出発する日になってもヴァールに会うことはできず、ヴァールの方から姿を現すこともなかった。
「冷たい男だ」
フューレンは呆れたように言っていたが、言葉ほど、ヴァールを非難してはいなかった。彼が寝食を忘れ、周囲が慌てふためく質量で公務をこなし、どれほど多忙を極めているか、彼女は直に知っていた。ただ、ヴァールの性格から、王としての仕事をそれほど熱心に務めるとは、思いもよらぬことと内心で
「父も見送りたいと言っていたのだけれど」
フューレンは肩を
「まあ、お呼びがかかる度、父は文句を言いつつ、実は嬉しそうでな。最近、少し若返ったような気がする」
フューレンの言葉にフライハイトも笑う。
「ところで彼は大丈夫なのか?」
フライハイトは彼らから少し離れた所にぼんやり立っているエーベンのことを訊いた。エーベンは暗い顔で遠巻きに二人を見つめている。フューレンはちらりとその方を見つめて苦笑した。
「私に剣を向けたことがショックでいまだに立ち直れないのだ。地下迷宮よりも深い場所まで落ち込んでいる。意外に繊細な男でな」
そう言ってフューレンは笑った。エーベンに同情しつつ、フューレンのその笑顔があれば、やがて彼も元気を取り戻せるだろうと、フライハイトは思った。
「これから、どうすのだ?」
「取り敢えず、村に戻って片づけてくるつもりだ」
フライハイトの言葉にフューレンはうなずいた。ブロカーデの村はすでに焼き尽くされ、灰塵に帰してしまったが、村人たちのために弔らいが必要だった。辛い作業になることを思って、フューレンは無言のままフライハイトの大きな肩を叩いた。
「あんたには世話になったな。ありがとう」
フライハイトが改まった口調で言うとフューレンはびっくりしたような顔をした。
「それは、お互い様だ」
そう言って笑った。
「用事が済んだら戻ってきてくれ、必ず。と言うのが父からの伝言だ。あなたを息子にしたいらしい」
フューレンが言うとフライハイトは笑い、うなずくことで感謝を示した。
二人は別れの言葉なく、わかれた。
フライハイトの姿が遠ざかってからエーベンがとぼとぼとやって来て、言った。
「息子にしたいって、お前の婿にってことじゃないだろうな?」