33.魔女の影

文字数 9,473文字

村を出て三日が過ぎ、多少のトラブルはあったものの順調に行程は進み、一行は都へあと一日程の場所まで辿りついた。
 街道から離れた田舎道を通っていたが、さすがに都に近づくにつれ戴冠式の祭りを目当てに集ってくる人々も増え始め、それに応じて憲兵の姿も見かけるようになってきた。そうなると人通りの少ない道よりも、多い道の方が紛れやすい。彼らは途中で都へ真っ直ぐ繋がる街道へと入った。さらに途中で寄った村で馬車に替え、フライハイトと魔術師は夫婦を装うことにした。
 フライハイトは意思を持たぬ人形のような魔術師を妻にして、路上の人の賑わいに都への距離を意識しながら、馬車を進めることになった。残りの人間はヴァールとルックス、二人の手下の二組にわかれ、その前後をつかず離れずの距離を保ちながら進んだ。彼らを見失わない程度に遅れてヴェルフェルもついてきている筈だった。
 その夕方、フライハイトと魔術師を乗せた馬車の前方に初めて検問が現れた。検問所には数人の兵士がいた。おそらく見えない場所にさらに多くの兵士が待機しているはずだった。
 日暮れも近いというのに都に向かう人々が検問によって列を成していた。フライハイトは眠っているらしい魔術師を自分の体に寄り掛からせ、そっと肩を抱いたまま手綱を操り、ゆっくりと列の最後尾についた。数人の兵士が人々に声を掛けていく。数組先にいるレヒトとリンクは何事もなくやりすごし、検問を抜けていったのをフライハイトは見届けた。
 やがて二人一組の兵士がフライハイトたちに近づいてきた。若い兵士の顔には退屈が、やや年老いた方の顔には疲労が浮かび、彼らのこの数日を物語っていた。若い方の兵士から出自と目的を尋ねられたが、あらかじめルックスから吹き込まれていたもっともらしい返答をした。他の地域から臨時にこの地に派遣された兵士たちよりも、それは確固とした情報で、疑いを持たれる可能性はなく、また質問もおざなりなものに終始した。
 夕暮れ時ということもあって、ランプの光を向けられて首実験されたが、二人を男女のカップルだと彼らは思い込んだようだった。若い方の兵士が、手を振って通れと示したのを確認して、フライハイトは胸をなで下ろした。が、馬を進めようとした時、年老いた方の兵士が馬車から離れようとしないことに気づいた。
「奥さんは、病気なのかね?」
 ふいにそれまで黙っていたその兵士に訊かれ、フライハイトはどきりとした。兵士の視線は魔術師にあり、それにつられるようにしてフライハイトもその方を見た。ランプの黄色い光が魔術師の瞳に反射していた。たまたまなのか、周囲の慌ただしい気配のせいなのか、エテレインは目覚めていた。兵士は魔術師の穴のような虚ろな瞳を怪訝そうにしばらく凝視していた。彼と組んでいる若い兵士も、行き過ぎようとした足を止めてこちらを見ていた。
 フライハイトは思わず抱いていた魔術師の細い肩を、さらに自分の方へひき寄せた。意思を持たない魔術師の頭がかくんと揺れ、フライハイトの胸に倒れる。肩に置いた手で魔術師の頭をそっと支える。兵士の観察するような視線がフライハイトの顔へ移動する。フライハイトの顔にかすかな緊張が浮かんだ。逆に兵士は、それを病気の妻に対する苦悩と見てとったようだった。それ以上は何も訊かず、むしろどこか気の毒そうな表情を浮かべさえして、彼らを通した。そうした病人を祭りに連れてくる者も多かったので、兵士は不思議とは思わなかった。国を挙げての祭事では魔術師が多く都に集められるので、彼らの不思議な力によって、不治の病が治るという噂が民間に広がっていたのだ。
 検問のざわめきが遠ざかるにつれ、フライハイトはようやく安堵した。が、検問が見え初めてから、ヴァールとルックスの姿が消えていたことに、にわかに不安を覚えた。自分たちよりも、彼らの方こそ無事通過できるかどうか、問題ではないかと思えてきた。ヴァールは勿論、盗賊の頭目でもあるルックスも顔を知られているかもしれない。しかし、それは杞憂だったとみえ、ほどなくして彼らは馬車の背後に現れた。二人は最後に見た時とは別の馬に乗り換えていた。後で聞いたところによると、検問があるという情報を先に聞き、馬を降りて徒歩で別の道に入り、迂回してきたのだという。そうした道を捜し出すのはルックスの専門だった。
 夜、町外れの人けのない原野で野宿することになった。都に近いだけあって町中の警備は厳しく、どのみち戴冠式見物に都へ向かう人々でどこの宿も塞がり、あぶれた人々や貧しい多くの人々が、彼らのように野宿をするはめになった。遠くに月の朧な輝きのように都の灯が見え、平らな荒野には星のようにちらほらとそうした人々が囲む小さな弱い光が点在していた。その様子はさながら天壌が対になったかのように見えた。
 すでに季節は冬に入り、夜の冷え込みは厳しいものになっていた。一行は焚き火をおこし暖を取り、ささやかな夕餉をしたためた。
 フライハイトは魔術師を野辺に敷いた布の上に横たえ、その体の上を厚手の毛布で覆った。優しく慎重なその所作を、ルックスは黙って見ていた。まるで本当に病気の妻に対するように、甲斐甲斐しく魔術師の世話を焼いていたフライハイトが、その横に腰を落ちつけた所でルックスは問いかけた。
「ずっとこんな調子なのか?」
 魔術師はまるで命を持った人形のようだった。その美しい器の中はすっかり何もなくなっているように見えた。フライハイトはルックスの方へ視線を向けたが、その瞳にかすかな憂いを浮かべただけで何も答えなかった。ヴァールは相変わらず他人の存在などないかのように、一人黙して膝を抱えてうずくまっている。何を考えているのか、その瞳は何もない足元の草地に向けられたまま動かない。ルックスの問いは炎が闇に融けるように夜の中へ吸い込まれた。
 焚き火の紅色の炎が魔術師の死人のような顔を赤く斑に染める。ルックスはこの意思を持たない魔術師を戴冠式へ連れていくことに懸念を覚えた。この国において、王位継承に魔術師の存在は欠かせない。確かに、ファステン王子が存命していたなら、王位につくには魔術師が必要であり、ファステンの守護者たる魔術師は今この国の中にエテレインをおいて他にはない。ファステンを王と出来るのは、エテレインだけだった。しかしそのエテレインがこの状態ではどうにもなるまい。
 ルックスはヴァールを見た。この男は、ファステンを王位につけようなどと本気で考えてはいないのではないかという気がした。とすれば、何が目的なのだろうか。わからなかったが、戴冠式に何かが起こるという予感に、心が浮き立っている自分を自覚した。今の生活に不満があるわけではなく、ミーネのように仇討ちよろしく別世界を夢想するなど愚かなこととしか思えなかった。それでも、予感はルックスの心の奥底で眠っていたものを刺激した。それは母の呪詛の声だったかもしれず、或いはこの荒れた国の人々の嘆きだったかもしれない。
 冷たい風が吹いて、炎が揺らめいた。焚き火が小さく爆ぜて、火の粉が闇の中に舞う。
「あんたの体術は、どういうものなんだ?」
 ルックスが問う。小さなものから大きなものまで様々な争いや幾多の喧嘩を経験してきたが、一つの形として完成された体術に出会ったのは初めてだった。彼の二人の手下も興味深げな顔でフライハイトの答えを待っていた。
「さあ。実はどういうものか、私も知らない」
 フライハイトは少し困ったように答えた。
「私の村ブロカーデでは男たちは剣術や槍術ではなく、体術を身につける。それ以外のものはそもそも無かった。小さな村の中では必要のないものだったからかもしれないし、高度な鍛造技術がなかったせいかもしれない。体術も戦いのためというよりは、身心を鍛えるためのものと考えられていた」
 ブロカーデは閉鎖された村であり、それが逆に外からの侵略や危険から守られる結果となり、命を賭すような争いや戦闘は起こりえなかった。あるいは小さな社会であったからこそ、致命的な損傷を相手に負わせる剣術は禁忌となったのかもしれない。平和な日常で武術を身につける必要性は乏しく、体術ですら(すた)れつつあった程だ。
「だが、あんたの持つ技術は戦闘向きだ。鍛練のための体操なんかとは全く違うものだ」
 ルックスが納得できない顔付きで言った。それはフライハイト自身も気づいていた。村を出るまで、それを本気で人につかったことがなかったが、いざ実戦を行ってみると、明らかに他人を殺傷するための洗練された技術であったのだ。
 そもそもブロカーデの由来を考えると、村人が武器を持つことは許されなかっただろう。とすれば、使えるのは己の肉体だけということになる。大人たちは体術を唯一の戦いの手段として子どもたちに伝えようとしたのかもしれない、とフライハイトは思った。
「そういえば、前にヴェルフェルから聞いたことがあるんだが……」
 ルックスが言いかけた時、フライハイトは何か異質な気配を感じた。それが何か理解するよりも速く、体が反射的に緊張した。ルックス自身は気配よりも先にフライハイトの緊張を感じ取って、すばやく反応した。横に置いてあった剣をつかみ、柄に手を掛ける。彼の手下たちも頭目の動きに反応した。
 パチッと薪が()ぜる。火の粉が炎の作る風に巻かれて頭上に吹き上がり舞う。
 めらりと炎が膨張し、陽炎のようにゆらめいた。
 慌てて男たちは焚き火から身を引いた。フライハイトはヴァールを見、魔術師の傍らについた。
 炎はゆらゆらと揺れながら彼らの頭上高く伸び上がった。その中に煤のような黒い影が現れた。影は不定型に揺れながら、一つの形を作りはじめ、それはやがて女の姿になった。
「魔女だ」
 ルックスが呟いた。声がかすかに震えていた。緊張のためか恐れのためか、或いは興奮のせいかもしれない。
 黒い影は闇色の肉体へと変化し、炎をドレスのようにまとい、揺らめいている。炎の髪に縁取られた蠱惑(こわく)的な美貌を持った女の顔が浮かび上がった。切れ上がった夜行性の獣を思わせる瞳が開く。黄金色をした瞳が呆然としている男たちを睥睨する。禍々しいが、独特の美しさが人の心のどこかを掴んで荒々しく揺さぶる。
 炎の女は婉然(えんぜん)と微笑んだ。とろかすようなその微笑に誰もが動けないでいると、魔女と呼ばれる希代の女魔術師はゆるりとその右腕を上げ、ほっそりとした指を伸ばした。その優美な動きに沿って揺らめく炎は豪奢なドレスのようだ。
 フライハイトを指したかに見えたそのたおやかな仕種に、男たちは一瞬目を奪われていた。しかし、その指はフライハイトを指し示したのではなく、魔術師エテレインに向けられたのであり、その刹那、闇の色をした漆黒の指の先から邪悪な炎が吹き出した。  炎はエテレインと彼を庇おうとしているフライハイトに襲いかかった。フライハイトは咄嗟にエテレインを覆っていた毛布でその炎を遮り、それをハイマに投げつけた。焚き火の上に落ちた毛布は、一瞬その炎の勢いをかき消し、魔女の姿を散り散りに砕いた。が、毛布は炎に飲み込まれたかと思うと、まるで闇に吸い込まれるように勢いよく天空に跳ね上がり、炎の玉となって激しく燃えた。勢いをました焚き火の炎の中から再び魔女の姿が現れた。
 ヴァールと共にフライハイトはエテレインを抱き抱えて後退した。
 ルックスと手下たちが剣を抜き、炎を囲んだ。ハイマは陶然とした面持ちで彼らを見て笑った。その笑い声に応じるように炎も震えた。
 ルックスは死者に頬を撫でられたような悪寒を覚え、体を震わせた。女の声は耳からではなく直接体の中に入り込み、魂を引っかくような響きを持っていた。次の瞬間、彼は自分の剣をひどく重く感じた。信じがたい思いで剣を掴みなおしたが、重量はどんどん増し、あまりの重さにがくんと剣の先が地面に落ちた。持っている柄もまるで一人で棺桶を持ち上げようとしているかのようだった。ルックスは(うめ)いて、何とか剣の重みに負けまいとした。魔女の幻惑に違いないとわかっていたが、しかし腕と肩が外れそうなその重みは現実のものとして彼を苦しめた。
「ルックス!」
 フライハイトの緊迫した声にルックスははっと顔を上げ、閃光が自分を目掛けて飛ぶのを目の端に止めると、辛うじてそれを避けた。頬を熱い感覚が走り、空気の切れる音が間近に聴こえた。レヒトの剣だった。ルックスは驚愕してその剣を奮った自分の手下を見た。レヒトの方も何が起きているのかわからない混乱した顔でルックスを見た。その強張った顔には恐怖が張りつき、見開いた目がおびえた色をしていた。
 自分がフライハイトと対決した時と同じだとルックスは悟った。腕と剣を魔女に操られているのだ。
「うわぁぁぁ」
 レヒトが叫び声を上げた。再びルックスに襲いかかる。その心の中にあるものが何であれ、恐怖を浮かべた瞳が訴えてくるものが何であれ、今はその男そのものがルックスの命を奪おうとする魔女の武器となっている。
 ルックスは自分の剣を持ち上げようと力を振り絞ったが、それはやはり動かず、さらには柄を握った手もそのまま固まり、自由が利かなかった。腕を地面に捕らわれた態勢のまま何とかレヒトの剣をしのぐ。が、このままではいくらももたない。懸命に手を開こうとしたが、どうやっても柄を握った筋肉は動かない。次の攻撃に備えながら、ルックスは視線を走らせた。もう一人の手下リンクが、やはり剣を握りしめてフライハイトたちに対峙していた。
 炎がごおっと音を立てた。地面を這うように炎が広がる。夜の闇の中に紅蓮の炎が巻き上がる。ハイマのまとうドレスが妖しい美しさを湛えながら彼らを飲み込もうとしていた。
 次の太刀がルックスに襲いかかった。ルックスは体を不自然にひねりながら地面に転げ、そのままレヒトの胸元を蹴り上げた。フライハイトのような威力は望むべくもないが、レヒトはどおっと後ろへ尻餅を付いた。凶刃はルックスの命を奪いこそしなかったが、左の肩を掠めた。服を少し切り裂く程度でしかなかったが、しかし火に焼かれたような痛みを感じた。見ればレヒトの剣は灼熱を帯びたような赤黒い輝きを持っていた。その剣を持つレヒトの手は焼けて赤く腫れ、溶けた皮膚が垂れ下がっていた。
 ルックスの中で焦燥と共に激しい怒りが起きた。くぐもった呻き声が聴こえ、はっとしてその方を見ると、リンクがフライハイトの拳により地に崩れる所だった。男の性格なら、仲間の命を奪うことはしていないだろうとルックスは思った。しかし、再び立ち上がり、剣を構えたレヒトに目を戻し、こっちはそう巧くいきそうにないとルックスは思った。どちらかが死ぬまで、戦うしかないのだ。そして、相手を殺さぬ限り、自分が死ぬに違いないことを悟り、戦慄した。
 レヒトの剣が振り上げられた。赤黒いその色はまるで血を吸ったかのようだった。
 死の恐怖がルックスの血潮の中を走った時、ふいに握りしめたままの剣が軽くなった。筋肉が恐怖に促され、力を(みなぎ)らせた。ルックスの目が自分に向かってくる剣を捉えた。()らなければ殺られる。死への恐怖に駆り立てられるようにして強い殺人衝動が起きる。
 炎の中でハイマの黄金色をした目が妖しく光り、その顔に官能的な笑みが浮かんだ。
 ルックスは振り下ろされてきた剣を己の剣で受け止めた。そして―――。
 凶刃を跳ね返した後、自分の剣を投げ捨て、ルックスは獣のような咆哮を挙げてレヒトに突進した。そのままの勢いで男に飛び掛かり、反動で地面に転げた。レヒトは強か頭を打ち、そのまま昏倒してしまった。
 ルックスは男にまだ息があることを確認すると安堵のあまり脱力した。
 女魔術師が楽しみを奪われた子どもの顔で表情を歪めた。彼女の炎の髪からしたたり落ちた幾つもの小さな火のかたまりから奇怪な生き物が生まれた。その翼を持ったトカゲのような生き物は、ふわりと浮き上がったかと思うと、火山から降り注ぐ火の玉のように、彼らに向かって飛んだ。
 ルックスは咄嗟に上着を脱ぎ、それを振り回して怪物を振り払った。しかしそれは一端ばらばらに砕けても、すぐに一つの塊に戻り、再び襲いかかってきた。
 フライハイトは飛び掛かってきた火獣の中心に固めた拳をたたき込んだ。風を切る音がし、怪物は拳の勢いがつくり出した風に巻かれ霧散した。襲いかかってくる炎を次々に砕いていったが、火獣は後から後から湧き出してきて、防ぎきることができない。エテレインを庇うヴァールの周囲にも火の獣たちが群をなしていた。あたりの暗闇の中のいたる所に生きている炎が飛び回り、退路はどこにもなかった。
 ゆらゆらと揺れながら、ハイマが声を上げて笑った。群なす火獣が呼応するように、火の粉を散らしながらざわざわと羽ばたく。
 その時、何かが暗闇から飛び出してき、焚き火の上に覆いかぶさった。上がった凄まじい叫び声は、ハイマのものか、炎に突っ込んだもののものなのか、あるいは双方のものなのか、断末魔に似て聞くものの体を震わせ魂を凍らせた。
 彼らを取り囲んでいた炎の異形たちが燃え尽きる。
 炎が勢いを弱めた。その隙にフライハイトは焚き火に走り寄った。凝視すると、炎は渦を巻いていて、その中心に墨色をした(もや)のようなものが揺らめいているのが見えた。すかさずそこへ渾身の突きを入れた。
 炎がごおっと音を立て、四方へ広がったかと思うと、人の口から迸る悲鳴に似た音を上げながら尾を引いて上へと吹き上がり、やがて頭上高くへ伸びてすうっと闇に()けて消えた。
「ヴェルフェル!」
 焚き火のそばで老人の体が燃えていた。フライハイトは自分の皮膚が燃えるのも構わず、老人の体を引っ張り上げ、炎から引き剥がした。ルックスたちが走り寄ってきて、上着や毛布で老人の体を焼いている炎を叩いた。
 ヴェルフェルは全身に火傷を負い、剥き出しになっている皮膚は焼けただれて赤く膿み、顔も見分けがつかない惨状だった。
「じいさん」
 ルックスが呼びかけると、ヴェルフェルはひくひくと瞼を動かした。しかしそれは開かなかった。
「あ……の方は、ご無事……か?」
 水泡の出来た唇から空気の漏れるような音と共に掠れた弱い声がした。
「ああ、大丈夫だ」
 ルックスはエテレインを確認して言った。魔術師は何事も無かったかのように静かに草地に横たわっている。そこだけ時が止まり、死人のように見えなくもなかったが。
 ヴェルフェルは安堵の溜息を漏らし、少し笑ったようだった。焼けただれた腕が持ち上がる。思わずフライハイトはその腕を取った。閉じられていたヴェルフェルの瞼が再び痙攣したように震え、その瞳が半分ほど開かれた。どろりとした濁った液体が流れ出す。機能していない白い膜が張ったその瞳は、フライハイトを探しているようだった。
「トロ……イエ殿、どうか、あの方を、エテレイン様を、お……守り……下さい」
 命の消えかけている老人の意識は混乱しているようだった。フライハイトは自分を誰と間違えているのかわかなかったが、安心させるようにうなずいてやった。老人の頬が濡れた。涙かと思うと同時に天井から細かな雨が落ちてきた。
 銀の糸のような雨がヴェルフェルの焼け焦げた体を優しく冷ましていく。老人は小さく溜息のような息を漏らした。それが最後だった。そのままルックスの腕の中でヴェルフェルは息を引き取った。
 彼の身につけていた指輪だけを残し、老人の亡骸はその地に埋葬した。ルックスは自分と二人の手下、魔術師の髪を遠慮がちに少しだけ切りとった。そしてフライハイトたちにも同じようにすることを求めた。死者と共に埋葬するのが彼らの風習なのだという。死者が寂しくないように、生き残った者の厄災を持っていってくれるように。フライハイトは自分の髪を切り、当然ヴァールは知らん顔をしていたので強引に鋼色の髪を切り、墓穴に落とした。
 都でも村でもない荒野に作られた粗末な墓はいかにも寂しく、見る者の気持ちを塞いだ。ルックスは指輪をヴェルフェルが帰りたがっていた地へ持っていくことにした。老人は都を懐かしがっていた。それが盗賊として活動していた頃の記憶のためか、それとももっと遠い過去の記憶のためか、今となってはわからない。だから、都の墓地に正当な住人として、新たに墓を作ってやるつもりだとルックスは言った。
 レヒトとリンクの怪我は幸い深刻なものではなかった。二人とも両の掌に火傷をおい、薄皮を一枚溶かしていたがそれほど酷くはない。それよりも二人は自分の体が意思に反して外からの力によって動かされたことに衝撃を受け、さらにレヒトは不可抗力とはいえ、ルックスに剣を向けたことで精神的にかなりダメージを受けたようだった。こればかりはルックス自身が理解を示し、いくら宥めてもレヒトの気持ちは晴れなかった。
「やっぱりそうなんだな」
 それまで無言だったヴァールが呟いた。墓標代わりの石の前に佇んでいたフライハイトはその声に振り向いた。ヴァールは続けた。
「聞いたことがある。ハイマの力は道具に作用すると」
「道具?」
「俺も、ヴェルフェルから聞いたよ。道具、つまり武器のことだな」
 ルックスが言う。
「ハイマの魔力は武器を介して人を操るのだそうだ。というより武器を持つ人の心理を利用する」
 ルックスは、二度にわたって思いのまま操られた時の感覚を思い出し、顔を顰めた。理性を吹き飛ばす熱い感情が体に満ち、狂おしい衝動が正気を揺るがせた瞬間を。
「つまり、武器を扱う限り、魔術師に対抗することが難しいということだ。過去、体術の歴史は連綿と続いていて、その技術の継承者たちは政治の中でも一つの勢力といえるほどの影響力を持っていた。ところが三十年前の事変以降、いやそれよりも以前から徐々に衰退してしまったのは実権を握ったハイマがそう仕向けたせいだといわれている。何故なら武器を使わないその技術は彼女の力の影響を受けにくいからだ」
 ヴァールが言う。
「あんたは武器を持たない。あんたの体術は魔女にとっては厄介なものというわけだ」
 ルックスが後を引き取って言った。
「もっとも、ハイマのいる戴冠の間までたどりつけたらの話だけどな」
 リンクが震える声で言った。初めて触れた魔術師の力に、彼は本能的な恐怖を感じているようだった。しかし、さすがにルックスが選んで連れてきただけあって、恐怖に負けて逃げ出そうなどという素振りは無く、むしろ挑むような気概が感じられた。やられたらやり返す、失った自信も信頼も己の手で取り返す、それが彼らの信条なのだ。
「行けるさ。俺も手伝うし」
 ルックスがあっさりと言う。フライハイトは驚いた顔をしてみせた。
「そうしなくちゃ、いけないだろう?」
 ルックスは仲間に視線を向け、朗らかに笑った。リンクとレヒトがうなずく。それはフライハイトたちにというより、ヴェルフェルの墓に向かって言ったようだった。
 仄かに白く輝いているような雨が降り続き、新しい墓土を湿らせていった。
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