10.魔物(2)

文字数 6,047文字

 フライハイトは息を止め、その窓の向こうを覗いた。
 全ての音が消えた。
 丘を吹く風の音も、隣にいるヴァールの荒い息遣いも、頭が痛くなりそうなカラスの鳴き声と羽音の騒音も、瞬時にフライハイトの耳から遠のいた。
 その時初めて見たその光景は、フライハイトの記憶の中で、数年前にヴァールが受けたリンチの光景と並ぶほど強烈なものとして、心に刻み込まれた。
 彼は自分が見ているものが何か、すぐには理解できなかった。実際、それがどういう状態なのかわからなかったのだ。
 石で出来た建物の中は広い空間が一つあるだけだった。その床は臓物や血、死骸などの汚物が堆積し、毒ガスと臭気を吹き出しながら熱を発していた。発酵でもしているのか、クポクポと音を立て、泡が弾けている。全体が蠕動(ぜんどう)しているように見えるのは、無数のおぞましい虫たちに覆われているせいなのだろう。虫だけでなく、動物でもいるのか、濁った黒い色をした汚物の中を得体の知れないものが這いずり回っている。
 そして、悪夢のような部屋の中央に、それはいた。
 最初、フライハイトはそれが何かわからなかった。床にたまったものが集まって塔になっているように見えた。その丁度真上に、食事を流し入れるらしい革製の太い管が垂れ下がっていたので、その下に積み重なって山になっているのだろうと、フライハイトは思った。
 しかし、よく見ると、それは人の形のようだった。
 それに気づいた途端、心臓が一瞬大きく打ち、その勢いで送り込まれた血液が体のあちこちの末端でどくんと膨れた。
 その感覚をどう現せばいいのか。筋肉を熱く焦がしながら全身の血液が沸騰して蒸発し、そのあとに血に代わって氷のように冷たいものが流れ込んできた。体の全てが硬直して動かなくなる。心臓だけがばくばくと激しく鼓動し、冷たい血が熱を持った筋肉の間を流れていく。その二つの摩擦が体を壊していくような気がした。
 魔物は椅子に座っているようだった。全身が汚物に塗れ、新しいものや古いものがこびりついてその元の肉体の形を覆い隠してしまっているために、本当はどのような姿をしているのか、わからなかった。が、それは人が椅子に座り、前のめりに上体を傾げ、首をうなだれているように見えた。
 目に見えるものが何なのか、どういうことなのか、フライハイトにはわからなかった。わからなかったが、激しい混乱と恐怖の質量に、少年の心は耐えられなかった。
 フライハイトは自分が唸り声を上げているのにも気がつかなかった。
「フライハイト!」
 ヴァールが叫んで、フライハイトの腕をつかんだ。その刺激に、小さな体はまるで毬のようにひとりでに大きく跳ねた。そのままどこかへ飛んでいきそうな力の噴出を感じて、ヴァールはフライハイトを引き寄せ、がくがくと痙攣したように震え始めた体を自分の胸に抱き込んだ。
「大丈夫か? フライハイト」
 激しく呼吸を繰り返しながら、フライハイトはじんじんする耳でヴァールの声を聞いた。自分を抱きしめている体も自分と同じように酷く強張り、震えているのを感じる。ヴァールの恐怖が伝わってくる。
 フライハイトはがくがくと激しく頷いた。最初の衝撃からは立ち直っていたが、体には制御できない不確かな感覚があった。
 突然、耳をつんざくような轟音が頭上で轟いて、二人の少年は抱き合ったまま同時に叫び声を上げた。
 罰を受けるのだとフライハイトは思った。魔物の力なのか、それとも何か他の大いなる存在の裁きなのか、禁を犯した自分たちに罰が下るのだと思った。
 続いて天が引き裂かれるような音がし、その裂け目から瀑布のような猛烈な雨が怒濤の勢いで落ちてきた。衝撃が強すぎて、それが先刻見た黒い雲がもたらした驟雨(しゅうう)だと気づくまで、時間がかかった。それでもフライハイトは、これは天の怒りでないかという疑いを消すことができなかった。
 激しい雷鳴が轟き、いまだかつて経験したことのないような土砂降りが遮るもののない二人に叩きつけられる。痛い程の雨は、たちまち彼らの立っている地面を流れはじめ、まるで急流の川底に立っているような様相を呈してきた。
「見ろっ!」
 雨音と雷鳴でかき消されながら、ヴァールが叫んだ。フライハイトは両手で瞳に打ちつけてくる雨を遮りながら、ヴァールの視線を追って窓の中を見た。
 建物の床が動いていた。
 実際には自分たちが立っている地面と同じく、豪雨で溜まった水が小さな洪水となって、床を汚物ごと洗い流しているのだった。
 フライハイトはその時になって、建物には天井がないことに気づいた。中は戸外と同じ状況に晒されている。その理由は定かではないが、こうして雨がその床を洗わなければ、数百年もの間、注ぎ込まれてきたはずの汚物の状態はこの程度では済まなかっただろう。恐らくは建物の上まで、魔物を沈み込ませて溜まっていたに違いない。
 建物の壁の下に開けられた穴から、ねっとりとした大量の汚穢(おわい)が出てきて、二人の足元に絡まる。おぞましさを感じる間もなく、それらはあっという間に雨に洗われ、丘の反対側に流れていった。
 フライハイトは目を守るために両手で額にひさしを作り、建物の中を見つめた。視界が激しい雨のベールに遮られて、椅子に座る魔物がどうなっているのかは見えなかった。
 やがて始まったのと同じように、驟雨(しゅうう)は突然止んだ。息をすることもできない激しい雨はぴたりと止み、黒雲は風に流されていき、夜のように真っ黒だった空は輝くような青空に変わった。その劇的な変化に驚きながら、フライハイトはマクラーン自体も変化したことを感じた。空気が洗われ、悪臭がすっかり消えていた。避難したのか、カラスの大群も姿を消している。建物の外の汚泥も水に流され、土が剥き出しになっていた。
「フライハイト」
 ヴァールの震えを含んだ声にはっとして、フライハイトは建物の中に視線を戻した。中に溜まっていた汚物は部屋の四隅にわずかに残されているだけで、他は流されて消えていた。
 そして、その中央にはっきりと魔物がその姿を見せていた。
 フライハイトはもう一度心臓が止まるような感覚を覚えた。
 魔物は椅子に座っていた。その体に貼り付いている布はぼろぼろで、水では落とせない赤黒い汚れに染まっていた。肩から全身に太く頑丈そうな鎖が巻き付けられ、椅子ごと床に繋がれている。その体は鎖がいかにも重たげに見える程、痛々しいまでに細い。
 それまで、どこが頭なのかすら判別ができなかったが、雨で洗われて髪が露出していた。絡まりながら床にまで垂れ下がったそれは輝くような白銀の色をしていた。
 何よりフライハイトを愕然とさせたのは、頭上から差し込んでくる光が魔物に降り注ぎ、全身が静謐(せいひつ)な光をまとって、何か荘厳な気配さえ湛えていたことだった。その姿は魔というよりも、その反対の、何か美しい存在であるかのようだった。
 息を飲んで見いっていると、まるで絶望した人のように深くうなだれていた頭が揺れた。フライハイトはぎくりとし、隣に身をすりよせるようにしているヴァールも同じように緊張するのを感じた。
「生きてる」
 ヴァールが上擦った声でそう呟くのをフライハイトは聞いた。
 魔物は生きているのだ。ヴァールの声が聴こえたのか、それとも気配を感じたのか、ゆっくりとその頭が起き上がり、二人の方へ顔が向けられた。
 少年たちは半ば思考を麻痺させたまま、息をとめた。魔物は美しい顔をしていた。男とも女とも取れるまだ若い整った顔立ちは高貴だった。いかなる理由か、その口は開かされたまま何かを押し込められて(くつわ)をはめられていた。かすかに眉を寄せた顔は哀しげで、その痩せた顔と細い首筋と相まって、ひどく(はかな)く見えた。
 魔物が閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
 フライハイトは、魔物の瞼が動く気配に慌て、おびえ、見てはいけないと念じたが、視線をそらすことができなかった。そこに、見たこともない宝石のような美しい青い瞳が現れたのだ。これが魔物の邪眼だとすれば、その力の源は類稀(たぐいまれ)な美しさなのだろうか。確かにそのまま魂が吸い込まれてしまいそうだった。
 が、それは瞳として機能していないのか、少年たちの方へ向けられてはいたが、ぼんやりとして力がなく、何かを探すように少しの間揺れた。
 フライハイトは、ほんの一瞬その瞳が自分を捉えたような気がした。気がしただけでなく、確かに自分の見開いた瞳と魔物の美しい瞳が結ばれたのだと思った。そう確信した瞬間、魔物はすうっと瞳を閉じ、再びゆっくりとした動きで深くうなだれた。そしてそれきり死んだように動かなかった。その姿は元のままと寸分も違わず、まるで今し方、魔物が目覚めて自分たちの方を見たのは幻だったのではないかと思えたほどだ。
 しかしフライハイトの中に、魔物の瞳の恐ろしい程美しい青い色が残された。たとえそれが上限を越えた恐怖と衝撃によって創り出された幻視だったとしても、その色はフライハイトの中から決して消えなかった。
 その後、自分たちがどうやって村まで帰ったのか、フライハイトは覚えていない。気づけば家のベッドの上にいた。母の話では森の中に倒れていたのだという。それを知らせにきたのはヴァールだった。実際には、彼がフライハイトの父親の畑に現れ、森を指で指しただけだったらしいが。それでもマクラーンから森まで、不自由な体で彼を運んだのはヴァールだった。
 フライハイトはそれから三日間高熱を出して寝込んだ。彼がマクラーンへ行ったことを両親も村人もすぐに気づいた。全てを洗い流すような豪雨でも革の靴に染みついた証拠となる匂いを消し切れなかったのだ。彼はそのことで両親を含めた村の大人たちにこっぴどく叱られ、罰せられたが、マクラーンで体験した衝撃があまりにも強く、それは大人たちの怒りや、心配、恐れといったものよりも、フライハイトをしばらく支配した。
 その後、何日かして出歩くことが許されると、すぐにヴァールの元へ行ったが、彼は何事もなかったかのようだった。フライハイトもそれ以後、マクラーンでの出来事を口にしなかった。好奇心の旺盛な他の子どもたちにこの時ばかりはあれこれ話しかけられたが、それでも一切喋らなかった。そうしていると、益々それが夢だったような気がした。けれど自分とヴァールの中にその時の出来事は確かにあって、時折、心の同じ場所にそれを共有していることを感じた。それは少年の頃の思い出と共に宝物となり、フライハイトにとって、自分とヴァールを繋ぐ、強い絆の一つとなった。
 その故に、ヴァールが別の人間にその体験を話したことが、フライハイトには受け入れられなかった。しかし現実に、ミーネは知っている。その事実をどう理解していいのかわからないまま、背後に潜んでいる男たちの存在に様々な憤りを覚えながら、フライハイトは馬車を進ませていく。
 その道は、マクラーンの魔物がいる「家」へと続く。
 今は、あの時、あの光景を見た時に感じた恐慌にも似た感情の混乱の理由がわかっていた。魔物が、その存在自体が恐ろしかったのではない、あの存在が何であれ、それになされている行為が、恐ろしかったのだ。今も、何故なのか、あれが何であるか、わからない。あの存在になされている行為が何なのか、あの存在が何をしたが故にそうなったのか。
 あれは本当に、魔物なのか。あの美しい存在が?
 十八になって、マクラーンへ初めて「当番」として出向いた時に自覚した感情を思い出すと、今でもフライハイトは落ちつかない気持ちになる。熱を持ったその感情は、恋い焦がれた者に再会するのに似ていた。
 一年に一度、その存在に会いにいく度に、彼はその感情を再確認する。「当番」の誰もが事務的に作業をこなし、決して中を覗くことはなかったが、彼は必ずあの小さな窓から魔物を見た。けれど、子どもの日に見た時と変わらない汚物に(まみ)れたその存在は、二度と動くことはなく、ましてやその閉じた瞳を開いて美しい宝石をフライハイトに向けることはなかった。
 彼は毎年、当番のその日、雨が降ればいいと願ったが、それが叶えられることはなかった。そうして束の間の再会はいつも失望と、そして恐れと共に終わる。その恐れは、魔物が何であるのかを考える度に伴うものだった。この残酷で恐ろしい所業は、あの存在が罪を犯した魔物であるからこそ成立している。それが真実かどうか、フライハイトには知る術がない。わからないことをそのまま受け入れることが出来ないが、受け入れなければ、この恐ろしい行為を納得することができない。彼はいつもその狭間で懊悩(おうのう)した。
 彼もまた村の人々と同じく、魔物に対してどのような感情を抱いていようとも、おぞましい仕打ちに加担している。時折、自分がトゥーゲントのように「当番」の一切を引き受けたならと思うこともあったが、出来なかった。もしそうすれば、妻と息子はかつてのヴァールの一家と同じ扱いを受けることになるだろう。自分はともかく、家族にそのような目に()わせることはできなかった。
 彼にできたことは、せいぜい汚物が魔物の真上には落ちないよう管の位置を変える程度だったが、建物の構造のためか、いくら動かしても管はすぐに元の位置に戻った。何よりもそうした行為の虚しさを痛い程わかっていた。
 「当番」の度、恐怖と罪悪感と、そしてその奥にある魔物に対する感情が、彼を苦しめた。が、それを心の深い場所に押し込めて日常に戻るしかなかった。妻と子のいる平和な日常に暮らすことで、マクラーンの悪夢を現実から切り離し、次の一年間を過ごすのだ。
 フライハイトは馬を進めながら静かな見た目とは裏腹に、落ち着きなく思考を巡らせていた。彼らは魔物をどうするつもりなのか。ミーネの言うがままになっているのは、むろん妻子を守りたいからに違いない。けれど、心のどこかで、マクラーンに変化が訪れることを望んでいるのかもしれなかった。それがどんなものであれ、たとえ死であったとしても、今の魔物に課せられた苛烈な運命よりも酷くなることはないと思えた。
 やはり、あれは魔物なのかもしれない。
 人の心に感銘を与える程の美しい顔も、強さよりも(もろ)さを感じさせる儚い風情も、汚濁の中にあってもおぼろに輝く清廉さも、全てまやかしで、魔物の人を惑わす能力のうちなのかもしれない。何故なら、あの時、あの瞳に魂を吸い取られ、その代わりに決して消すことのできない記憶が自分の中の一番深い場所に根づいてしまったのだから。
 あの一瞬で、魔物に魅入られたのだということを、フライハイトはわかっていた。
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