30.勝負

文字数 5,916文字

「馬から下りてもらおうか」
 中央に立つ男が言った。頭目の風格を備えたその男は、三十代と見え、背が高く、体つきも頑丈そうだった。浅黒い肌を持ち、身なり風体は粗野だったが、その瞳は静かで知性的だった。
 フライハイトが視線を泳がせると、彼らの背後に弓をつがえている者が、自分たちを狙っているのが見えた。それだけでなく、野盗の類であるにもかかわらず、一見ばらばらのように見える彼らのその動きは、その男を中心に統制されていた。相手の人数よりも、それを見てとると、抵抗することは難しいと悟った。
 ヴァールも同じように感じたらしく、抵抗する気配も見せず、二人はゆっくりと馬を下りた。
 地面に足をつけた途端、フライハイトは体が宙に浮くような感じを覚えた。ぐらりと視界が回る。自分の肉体が、制御が出来ないほど何か悪いものに冒されているのを感じ、内心で動揺を覚えていた。辛うじてそれを表に出さなかったが、倒れずにその場に立っていることがやっとなのだということを自覚する。
 ふいに背後に人の気配を感じて、考えるよりも早く、反射的に振り返りざま拳を出していた。武器を携帯していないか調べようとしていた男が吹っ飛んだ。それを見た男たちの間がざわめく。フライハイトの体がぐらついた。思わず出した右の拳から、再び血が滴り落ちていた。それだけの動きで、彼は息を切らしていた。
「おいおい、いい子だから、暴れるのはよしてもらおうか?」
 男は慌てるでもなく怒るでもなく、フライハイトの様子をじっと見つめながら言った。
「それから、それは荷物か? 人か?」
 ヴァールが抱えているシーツのかたまりを指さして、男は言った。二人が黙っていると、別の男が、フライハイトの動きを警戒しながら近づいてきて、シーツを捲った。白っぽい絹糸の束のようなものがはらりと零れる。日の光の中で、魔術師の髪が銀色の光沢を放った。男はその髪をつかんで、ヴァールの胸の方に傾いているエテレインの顔を自分の方へと引っ張った。
「女だ」
 その言葉に、山賊たちがいきり立つのを感じ、フライハイトは焦燥を覚える。自分たちには、彼らを満足させる類の持ち物は何もない。が、彼らが、最初の町にいたような、女を売買する類の野盗であるなら話は別だった。エテレインは女ではないが、その美しさは十分に価値があるだろう。何にせよ、自分たちもエテレインも無事では済みそうにない。
 それに、体に広がっていく病の兆候が、フライハイトの焦燥を煽っていた。今なら、まだ動くことができる、しかしそれがどこまで保つのかわからなかった。チャンスが失われることを恐れると、理性が失われた。考えるよりも、体は感情に従って、魔術師の顔を覗き込んでいる男の頭部に凄まじい蹴りを入れた。
 体は安定を無くしていたが、鍛練を積み、同じ動きを数えきれない程繰り返した体術の型だけは寸分も違わず、男は一蹴りで吹っ飛び、地面に白目を剥いて倒れ、そのまま動かなくなった。
 おお、という声が、再び彼らの口から漏れた。そこには怒りはなく、もっと単純で無邪気な驚きの響きがあった。倒れた男は恵まれた体格と鍛え抜かれた筋肉を持ち、人並み以上の戦闘能力を持っている。その男を、ただの一蹴りで倒したことへの驚きだった。
 彼らの武術の多くは、剣技にのみその重きを置いていた。肉体だけでこれほどの威力を発揮する武術を見たことがなく、彼らの感嘆の声は、それ故のものだった。が、驚きは、荒事を生業としているだけあって、すぐに闘争心へと変化した。仲間を倒された怒りよりも、目新しいものへの挑戦に彼らは興奮しているのだった。
「ヴァール、彼を連れて逃げろ」
 一気に高まった殺気に、フライハイトはヴァールに叫んだ。その声は(しゃが)れ、息の荒さにたどたどしくさえあった。ヴァールがその様子を見て、一瞬眉を憂いに歪めたが、すぐに口の端を歪める独特の笑みを見せた。
「とてもじゃないが、無理だな」
 ヴァールの落ちついた声を聞いて、フライハイトは可笑しくなる。何故、いつも彼はこんなに冷静なのだろう。
「そう。とてもじゃないが、無理だろう。それに、あんたも戦えそうにはないがなあ」
 頭目が言った。その顔は、同じように余裕の笑みが浮かび、嬉しげでさえあった。
「でも、ちょっぴり試してみたいね」
 男は明るい顔で笑って、抜刀した。粗野で無骨な作りだが、凄味のある剣が、陽光を浴びてぎらりと光る。そしてフライハイトは男が剣を持った途端、その凄味が男自身にも広がり、凄まじい闘気をまとうのを感じた。ぞくりと体が震える。それは右腕から、今や全身に広がった悪寒のせいではない。男の放つ気配に触発されて、彼の中の何かが燃え上がった。
 それは村を出て、何度かあった戦闘では経験したことのないものだった。その炎のような熱いものを身のうちに感じた時、フライハイトはそれが今初めて生まれたものではなく、自分の体のどこかでこのような時をじっと待っていたのだと気付いた。
 炎は一時的にフライハイトの体を蝕む悪寒までを焼き、熱が水蒸気のようにその全身から立ちのぼってきた。
 男もフライハイトの気配が一変したのを感じて目を見張り、そして内心でほんの少したじろいだ。ただそこに立っているだけのフライハイトから、空気を震わせ、肌をひりつかせるような闘気が感じられ、圧倒された。
 周囲の男たちも抜きかけた剣を収め、二人を取り囲んだ輪を、気圧されるように少しだけ広げた。
 山賊を率いている頭目は、物心付いた頃から剣に親しみ、多くの戦いに身を投じてきた。ささいなものから命懸けのものまで、多種多様な戦闘を経験した。その経験から戦わずして相手の能力をある程度は量ることができ、それはほぼ正確なものだった。
 が、彼は今戸惑っていた。前に立つ男のそれを見極めることができない。それがどれほどのものか見当がつかない。構えを取ることもなく、一見ぞんざいともいえる恰好で立っているフライハイトに対峙して、どう動いていいのかわからなかった。剣と剣であるならば、動きの予想はついた。しかし男は素手であり、その体そのものが武器なのだ。
 まだ戦闘経験の少ない若造の頃から久しく感じたことのなかった恐れを抱くと共に、喜びにも似た興奮が男の全身を震わせ、血を熱くさせた。
 ふいに天が翳ってきたのを、フライハイトは感じた。目の前にいる男の姿が暗く沈む。それは、体調の悪化によって視力が落ちてきたせいだった。それだけでなく、周囲の物音も鈍くなっていた。全ての感覚が低下していた。その中で、対峙する男の体から発散する覇気だけが、フライハイトの感覚を刺激していた。が、もう幾らも持たないという予感があった。ただ、倒さねばならない、それだけを考えた。
 向き合ったまま、二人は身じろぎもせず、時間が過ぎていった。男たちは、固唾(かたず)をのんで見守っていた。
 ふいに、天を揺るがすような騒がしい音が起こった。鳥の群が、一斉に翼を広げた音だった。それを合図に、男の体が素早く動いた。光を反射させながら剣がびゅうと音を立て、フライハイトの眼前に迫る。
 男は、フライハイトの体が二つに割れるのを見たような気がした。
 しかし、それは早すぎる幻視であった。男の視線の動きよりも早く、その体が消える。次の瞬間、男は目の端に黒い閃光を見て、反射的に体を捻った。頭上をフライハイトの拳が掠めた。その腕から鮮血が霧のように舞った。
 体を無理に捻ったために態勢を崩しかけたところへ、次の拳が飛んでくる。速い、と思うよりも前に、男は反射的にぎりぎりの処で交わしたが、骨と肉の固まりに過ぎないその腕が、鋼の剣よりも鋭く空気を切るのを音で聞いて、ぞっとする。
 よろめきながら、何とか男は剣を振り回した。無様な一撃だとわかっていたが、余裕はなかった。フライハイトがふわりとそれを交わすのを見て、男は驚く。まるで木の葉のような動きだった。
 交わしながらフライハイトの体が反転する。男がはっとした瞬間、すでに腰にフライハイトの足が食い込んでいた。重い衝撃によろめきつつ、男は剣をふるった。その切っ先がフライハイトの胸元を(かす)める。
 フライハイトの体がふっと飛ぶように後ろへ下がる。男は体勢を崩したまま、さらに剣で突こうと前に足を踏み出した瞬間、フライハイトの体が再び視界から消え、次の瞬間、男は頬に激しい衝撃を受けていた。
 フライハイトの肘が男の頬に食い込む。みしっと、嫌な音が自分の頭蓋に響くのを男は聞いた。
 フライハイトの拳から散った鮮血が、男の顔を濡らした。が、男がすばやく体を捩じったために完全な打撃にはならず、骨を砕くには至らない。それでも男は相応の衝撃を食らったはずなのに、地面に転がるところをこらえ、すぐさま立ち直り剣をふるってきた。
 フライハイトは一端、距離を保とうと男から離れた。が、ふいに足が地面に沈むような感覚を覚え、よろめいた。体勢を保持しようとしたが、かなわない。徐々に力を失い始めた筋肉が、彼の思いどおりには動かなくなりつつあった。
 男はフライハイトの体がぐらついた隙を逃さず、剣を振り下ろしてきた。フライハイトは辛うじてそれを交わし、相手の振り下ろす力の方向を利用して、膝を男の腹に入れた。
 男は(うめ)いて顔を歪めた。苦痛が全身に広がると、にわかに彼自身、覚えのない凄まじい怒りが吹き上げてきた。その闇雲な怒りの理由がわからぬまま、男は獣じみた声を漏らすと、剣を振り上げた。びゅおっと空気が裂ける音がし、男は自分の腕に新たな力が満ちるのを感じた。
 フライハイトは男の剣をどうにか交わしつつ、後退した。ふいにそのスピードが増した事を見て取る。男の力が自分を凌駕しているのか、自分の肉体が壊れかけているせいなのか、わからない。男の動きが読めなくなった。一方的な攻撃を必死で防御しながら、自分が守れなかったものと、守らなければならないものを思いながら、死を意識し始めていた。
 赤い光が満ちている。
 男は眼前が赤く染まっているのに気づいた。目にフライハイトの血が入ったせいかもしれない。体の中を炎のようなものが燃えているのを感じる。しかしそれは心地よいものではなく、心を高揚させるというより、闇雲に駆り立てる狂気をはらんだ不快な怒りだった。握った剣の柄が、ひどく熱い。
 男は、何かがおかしいと感じたが、考える暇がなかった。フライハイトが防戦一方になるのを見て、男は自分のどこかが、いやらしく喜んでいるのを、まるで他人事のように感じた。その喜びが、心のどこか暗い場所から生まれたような酷く禍々しい感じがして、男は自分自身に対し、恐れを覚え、混乱した。
「フライハイト!」
 誰かが叫ぶ声がして、男ははっとした。まるで我に返ったような感覚だった。気づくと己の剣の切っ先が、フライハイトの肩を突き刺していた。
 男はぎょっとして、反射的にそれを引き抜いた。
 フライハイトの体が揺れ、崩れるように地面に膝をついた。
 男は戦いをやめようとしたが、腕が止まらなかった。闘気はすでになく、興奮もなく、あるのは正体のわからない不快な熱い感覚だけなのに、己の意に反し、とどめ射すべく彼の腕は剣を振り上げていた。
 男は驚いたように自分の腕を見上げ、剣を見た。苦楽を共にしてきた剣を。自分の生活を、大切な者を、命を守ってきた全てを。
 その刃の中に赤い炎があるのを見た。禍々しく邪悪な炎だった。その炎が、剣を通して自分の体の中と繋がっているのを、男は見た。渦を巻く奇妙な怒りとは別の怒りが、男の心から吹き上がる。
 男の腕が剣を振り下ろす。
 フライハイトの瞳が閉じられる。
 男は力を振り絞り、必死に己の腕の動きに抵抗した。
 剣が、フライハイトの頭上に振り下ろされた。
 が、そのまま斜めに空を切り、フライハイトの座り込んだ地面の横に食い込んだ。
「ふざけるなっ!」
 男は叫んだ。
 腕から力が抜け、男は自分の肉体の制御を取り戻した。肩で荒く息をしながら、ぞっとした。自分の体が今、別の何かの力で動いていたことに気づいたからだ。何者かが、自分の体を使って、この男を殺そうとしたのだと、男は悟った。その力が自分を支配し、それに屈しかけたことに茫然とする。そのような体験は、初めてだった。
 周囲はシンと静まり返っていたが、やがてわっと男たちの歓喜の声が広がった。男は彼らの興奮を無視したまま、どうにか体を起こし、静かに座っているフライハイトを見下ろした。死人のような顔をしている、肩からも掌からもかなり出血している。そのためだけでなく、その体は何か病に蝕まれているように見えた。
 勝ったのは自分ではない。
 悄然(しょうぜん)と男はフライハイトを見つめていた。体調が万全でさえあれば、そして誰にも邪魔されていなければ、倒されていたのは自分だったのかもしれない。勝負は時の運であり、その時の全ての状況がすでに勝負の一部だ。もしも、は考えるだけ無意味だというのが男の考え方だった。が、この状況は許せなかった。二人だけの勝負に、あまりにも異質な要素が働きすぎた。その事に男は収まらない怒りを感じていた。
 その怒り故に、もう一度フライハイトと勝負をしてみたいという衝動が起きた。それほど、フライハイトの武術に驚嘆し、興奮を覚えた。
 背後に興奮した男たちの声を聞いて、男は振り返った。仲間たちが、もう一人の男が抱えている人物に手を伸ばそうとしていた。
「やめろ」
 男のよく通る声に、彼らは瞬時に動きを止めた。男はヴァールを見た。こいつも奇妙な奴だと男は思った。全く表情がない。この状況でも恐れも焦りも感じていないようだった。ただ、そのきつい瞳が時折、倒れている仲間を見る時、ほんの少し憂うだけだ。
「村へ帰るぞ。この方々を丁重にお連れしろ」
 男たちはやや驚いた顔をしたが、すぐに従った。男の言葉に、皮肉ではなく真摯な響きを聞き取ったからだ。自分たちの頭目が、この旅人を獲物ではなく、客として扱うと決めたのなら、異論があるはずもない。
 既にフライハイトは自力で歩くことができず、山賊たちに助けられて、どうにか動けるような状態だった。ヴァールはそのフライハイトの様子に恐れおののいていた。掌の怪我から何か不浄なものが混じったに違いなかった。しかも、それは恐ろしく質の悪いものなのだと、感じていたのだ。
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