21.邂逅

文字数 7,115文字

 町を抜け、夜闇を分けて間道をいくらか進んでも、盗賊たちの姿は背後に現れなかった。ヴァールは視線をちらりと後方に、というより背後の荷台へと向け、馬が潰れないように少しスピードを落とした。
 魔術師は未だ目覚めず、月の白い光を浴びるその顔は死者のように見えた。フライハイトは魔術師をかばうようにして身構えたまま、遠ざかっていく町に視線を向けていた。夜を灯す町の灯は既にほんの小さな一つの光のかたまりとなっていた。剣士はまだ戦闘状態を解除する気はないのか、油断のない表情で追手の追跡を待っているようだった。
「来ないな」
 馬の蹄と馬車の車輪の音以外はしんと静まった気配に、夜以外の物が混じる兆候がないのを確認してフライハイトは言い、床に横たえていた魔術師の体を抱き起こした。剣士はしばらく無言のまま後方に目をやっていたが、やがてフライハイトの言葉に同意を示し、抜き身のままの剣を鞘に収めた。幾人もの肉を斬り血を吸ったその剣が硬質で静かな音を鳴らした。
「妙だな」
 女剣士はそれでも硬い眼差しを背後に向けたまま、怪訝そうな表情で呟いた。盗賊がこうあっさり簡単に諦めたとは思えない。自分たちの逃亡を容易には許さないというのは、かどわかした商品に対する執着というより、彼らなりの沽券(こけん)とルールを守るということに他ならない。
「何故、追ってこないんだろう」
 フライハイトも首を傾げ、自分では思いつけない答えを求める時の習慣のように視線をヴァールに向けた。しかし男は前方を向いたまま二人の会話に入ってこない。その背中は手綱の操作に集中しているためというより、会話に入ること自体を拒否しているようにフライハイトは感じた。そのような時、ヴァールは何かを隠しているか、確信が持てないのだとフライハイトは子どもの頃の経験で知っていた。盗賊たちが追ってこない理由に何か思い当たるものがあるのではないかと思った。
「あんたのお陰で助かった」
 フライハイトは剣士に声を掛けた。女剣士はようやく後方から視線を外し、フライハイトの方へ顔を向けた。改めて見る剣士の顔は思っていたよりも若い。自分とそれほど変わらない年齢に見えるその顔は飾り気のない美しさを持っていた。が、その美しさに似合わず、彼女の瞳は厳しさを秘めていた。その瞳で静かにフライハイトを見つめ、そしてその胸に抱かれた魔術師に視線を移した。一瞬、美しい眉が痛ましげにひそめられるのを、フライハイトは見た。その瞳に形容しがたい感情の揺れが浮かぶ。それは無残な傷をおった他人の顔を見た時や、酷い仕打ちを受けた者に起きる同情や憂慮といった感情よりもさらに複雑なもののようだった。そして何より、彼女は魔術師のことを知っているのだとフライハイトは思った。
「あんたは誰だ?」
 魔術師に視線を向けたまま、何かもの思うようにその顔を見つめている剣士に、フライハイトは慎重な声で尋ねた。
「私の名はフューレン」
 剣士は簡潔に答えると、それ以外の情報を口にする気はないという頑なな気配をまとった。
「何故手を貸した?」
 それまで無言だったヴァールの声に二人は顔を向けた。ヴァールは背を向けたままだった。
 フューレンは男の背を見つめた。彼女はヴァールが反体制組織ヴィーダーの重要人物だということを知っていた。ミーネともヴァールとも接触したことがなかったが、恐らく彼の方も自分が何者なのか、気づいているのだろうと思った。そうと知っていてヴァールが何を考えているのか、フューレンにはうかがい知れなかった。
 夏に起こした謀叛により、ヴィーダーは軍の掃滅作戦にさらされ壊滅寸前に追い込まれたが、主犯格のミーネとその腹心と言われているこの男ヴァールは、まんまと逃走した。その後、ミーネは地方にいる残党と共に組織の建て直しを図っているとされていたが、ここにいるヴァールはその後の行方も行動も判然としていなかった。ヴィーダー、と言うよりミーネと決別したという推測が主流だった。
 何にしろ、ヴィーダーという組織が今なお存在し、ある程度力を維持し続けているのは、陰で彼らを援助する者が後を立たないためと、力のない国民の一部の支持さえ集めているためだ。それは、ミーネにある種のカリスマ性があることと、時代が彼らを呼び寄せているということを彼女は認めていた。とはいえ、王都軍に属するがわからすれば、彼らが重犯罪者であることに違いはない。ヴァールの現在の行動を考えれば、やはり彼は未だヴィーダーのメンバーである可能性が強いと言える。
 では、自分は何故、彼の行動を助けるような行為に出たのか。今の自分が軍人としての行動から逸脱していることは承知している。フューレンは自問自答した。
「そうしたかったからだ」
 そう答えるしかなかった。父の過去の物語を聴いてから、そして見て体験したことから、彼女は自分が何をすべきなのか、考え続けていた。それに、あの状況では他にできることはなかった。
「それは、お前個人の意思か?」
 ヴァールが背を向けたまま、含みのある質問をした。声にどこか笑いが含まれている。嘲りの響きを持った笑いが。フューレンは応えなかった。両者の間に沈黙が訪れる。その中に目には見えぬ、耳には聴こえぬやりとりがあるのをフライハイトは感じた。
「そちらへ行かぬ方がいい」
 ヴァールが馬の頭を分岐路の右に向けようとしているのを見て、フューレンがふいに言った。ヴァールは分岐路の手前で馬車をゆっくりと止め、初めて後ろを振り返った。フューレンと視線が交錯する。黒い穴のような男の瞳はひどく冷たかった。
 右側は森へ入る道だった。そこからは都まで起伏に飛んだ山路が続く。行程は厳しいものになるかもしれなかったが、代わりに町中の情報が伝わりにくい。
「どうしたものかな?」
 ヴァールが無表情に独り言のような口調で言った。二人の間に何かそれぞれに隠している事情があるのをフライハイトは察した。
「左の方はどこへ続いている?」
 フライハイトが問う。
「町だ。さっきのより大きい」
 ヴァールが答える。ヴァールは右へ行こうとしている。つまり左へは行きたくない事情が、かたやフューレンには右へ行かせたくない事情があるのだろう。互いに視線で探り合っている彼らは、その理由を自分の方から説明する気はないらしい。フライハイトは暗黙のうちに二人で力の引き合いをしているのを見て取って、一体、この期に及んで、何の駆け引きなのかと思うと、ため息が出た。それが二人の耳に届くと、面白いことに、二人揃って決まり悪げな顔をした。
「何故、右へ行ってはいけない?」
 自分が間に入ることに決めて、フライハイトはフューレンに訊いた。フューレンはフライハイトを見て、躊躇(ためら)いを見せた。
「そいつは王都軍の軍人だ」
 ヴァールがそっけない口調で言った。そう聞いてもフライハイトにはいまひとつピンと来ない。自分たちを追ってくるのはミーネたちだと思っていたからだが、考えてみれば流刑地であるマクラーンの人間である自分と、反逆者とされているヴァール、そしてそれ以上に現政府にとって重犯罪者とされ刑罰を受けている最中のエテレインの逃亡を、国が許すはずもない。フライハイトはそのどの立場にも現実感が伴わなかったが、おぼろげにフューレンが軍人であるということの意味を把握した。
「俺たちを追ってきたのか?」
 訊いてからフライハイトは我ながら間抜けな質問だと思った。
「そうだ」
 フューレンは答えた後も、フライハイトの顔に失望や怒り、恐れといったものが現れず、その前から存在する消えることのない一定の緊張感の他は、相変わらず警戒する気配もないことを不思議に思った。その自然とも思える余裕は過剰な自信や、相手に対する軽侮からとも思えず、フューレンは男の心情を量りかねた。不思議な男だと改めて思う。
「森に、軍の部隊が待機している」
 フライハイトは剣士の言葉を聞き、かすかに瞳を見開いた。
「何故それを?」
 自分たちに教えるのか、とフライハイトは思った。答えを返さないフューレンを見つめる。彼女は手を貸してくれた。彼女がいなければエテレインを見つけることも、助け出すこともできなかっただろう。が、彼女は自分たちを追う王都軍の人間だという。それが何故自分たちを助け、軍が待ち伏せしていることを教えるのか。味方しようというのか、それは軍に対する裏切り行為ではないのか、それとも既に自分たちは罠の中に入り込んでいるのか、フライハイトには判断がつかない。本能は、彼女が味方だと告げていたが、既にこれまでの経緯の中で、そうした思いこみを素直に受け入れる自信は失っていた。
 黙ったままのヴァールも同じく考えあぐねているらしかった。しばらく無言のままフューレンを睨んでいたが、ふいに視線を前方に向け、手綱を動かした。馬車は左の道、町に向かう道へと入っていく。
「町は安全なのか?」
 最初、町を避けようとしていたヴァールにフライハイトは訊いた。
「今度はエテレインから離れるなよ、フライハイト」
 しかしヴァールは詳しい説明を拒み、その先に待つ危険性を暗示するようなことだけを口にし、この話題から離れる意思表示であるかのように黙ってしまった。
「盗賊どもを止めたのは、彼らなのか?」
 が、剣士はヴァールの意思表示を無視して訊いた。ヴァールは答えない代わりにつぶやいた。
「だから女は嫌なんだ」
 どこかふざけているような口調だったが、声に刺があった。
「彼ら?」
 フライハイトはヴァールが主導権を保てないことに腹を立てていると気づいていたが、訊かずにはいられなかった。何がどうなっているのかわからない状態では、これからどうしていいのか何一つ自分で決めることができない。どうやら二人は互いに何か知っているらしく、自分だけが蚊帳の外にいるようだ。それはこれまでの自分の人生を思わせた。何一つ知らないまま無防備に流されるのは御免だった。
「ミーネたちさ」
 無言で押し通すのではないかと思われたヴァールは、予想に反してあっさり答えた。
「ミーネ……」
 その名を復誦したフライハイトの顔が反射的に険しくなるのを、フューレンは見つめた。物静かな男の中に初めて見つけた強い感情に、彼女の心は揺さぶられた。それが、怒りか憎しみか、あるいは別のものか、判断はつかなかったが、それを垣間見た瞬間、フューレンは奇妙なことに、ようやくこれが現実だという実感を持った。彼女自身、自分が何を見、何を聞き、何をしているのかについて、どこか現実離れした感覚がぬぐえなかったのだ。男の生の感情は父から聞いた昔話よりも強くフューレンの心を打った。
「何故、あの男が盗賊どもを追い払った?」
 フライハイトがヴァールの背中に問う。ミーネたちも魔術師を狙っている。自分たちを助ける理由などない。それとも盗賊から奪うより、自分たちからエテレインを奪った方がたやすいと考えたのだろうか。それともヴァールと彼らは、どのような形でか今も繋がっているのか。自分は彼らに操られているのに過ぎないのか。その考えは受け入れ難かったが、完全に打ち消すことができなかった。
「そもそも彼らは、エテレインをどうしようというんだ?」
 家族を殺してまで、村人を殺してまで、とフライハイトは心の中で呟いた。胸の内側に小さな炎がいくつもはじける。その炎で体の中を焼き尽くしたい衝動を覚える。
 ヴァールはフライハイトの声に何を聞き取ったのか、ふいに馬を止めた。しかし振り返ったヴァールはフライハイトではなくフューレンを見た。
「何故ここにいるのか説明しろ。しないのなら降りるんだ。部隊に戻って報告でも何でもするがいい」
 ヴァールは剣士に向かって低い声で言った。その声は威圧的で、眼差しは凶悪だった。鋼に似た尖った色合いの髪が揺らめき、白い炎のように見えた。その表情を、フライハイトは過去にも数度見たことがあった。ヴァールの心の奥底に、行き場のない感情が煮えている時の顔だ。その感情は様々で、怒りか、憎しみか、或いは哀しみだった。今は、それが何か、フライハイトにはわからなかった。
 フューレンがわずかにたじろぐ。しかしそれ以上、動揺をあらわにすることはなかった。
「こんな、どこからでも丸見えの場所で、もたもたしない方がいい。誰が襲ってくるか知れたものではないな」
 少なくとも彼女は落ちついた声でそう言い放った。ヴァールは瞳を底光らせたが、驚いたことに、少し面白そうに笑った。ひどく邪悪な感じではあったが、笑った拍子にヴァールの中から張りつめたものが消えた。そして、何も言わず、再び馬車を進め始めた。剣士は荷台に腰を下ろしたが、彼女がほっとしたのをフライハイトは気付いた。
「私は、この方に会いたかったのだ」
 フューレンは語り始めた。その視線はフライハイトの腕に抱かれた魔術師を見つめていた。魔術師はいつのまにか目覚めていた。半眼に開いた瞳はどのような言葉も虚ろに響かせる底無しの穴のようだった。形の美しさは残されていたが、内部から輝く人としての美しさは、そこにはない。虚ろな瞳と唾液を垂らした口許、感情というものを失った顔の筋肉は弛緩したまま。彼女の父親が憧憬と崇拝を寄せ、魔女ハイマが恐れたという知性はどこにもない。長年に渡って続けられた苛烈な仕打ちが、エテレインを内側から壊してしまったのだ。
「この方に会って……」
 フューレンは声を震わせ、初めて表情を崩した。これほど酷いことになっているとは、思いもよらなかった。軍の一員として派遣されたブロカーデの惨状は、彼女の正義を遵守する信念に強い衝撃を与えた。それを成した反逆者たちに強い怒りを覚えた。が、同時にその村に到着するなり、その全てを燃やしつくせと命じられた事に、彼女は衝撃を受けた。中にはまだ息のある者も、助けることのできる者もいるかもしれないのだ。しかし父の代わりに任命された指揮官は、生存者を確認するべきだというフューレンの意見を聞き入れなかった。
 命ある者も、その者の家族の遺体と共に家ごと火に包まれていった。まるで一つの魂となって燃える村を成す統べなく呆然と見つめながら、彼女は混乱した。犯罪者の村として、ブロカーデは葬られた。永久に許されることなく、罪人として塵屑のように処分され、この世から消えた。それが部隊の、彼女らに課せられた仕事だった。
 何故なのだ? 彼らが何をしたというのだ? 無論、フューレンは村の歴史を知っている。だからといって、これは許されることではない。少なくとも人としての扱いではない。
 もしも、ハイマの息のかかった将校ではなく、最初決められたようにエルンストが指揮を取っていれば、こんなことにはならなかっただろうとフューレンは思ったが、その後でそうだろうか?と疑念が起こった。彼女の父は正義感が強く誠実な男だったが、王の命の前には私情を捨てることのできる人間でもあった。これが王の命であれば、任務を遂行したかもしれない。そう思ってから、フューレンは自分を恥じた。少なくとも父はこのような残虐な行為を許しはしない。結局はブロカーデの村をこの世界から消してしまうという使命を全うしたとしても、彼なりに最善を尽くしただろう。エルンストが指揮から外された理由が、それを裏付けている。
 王は、いや、魔女ハイマは、どのような情けも村人にかけることを許さなかったのだ。
 父がマクラーンを見なくてすんだことだけに、フューレンは慰めを見いだしていた。彼女は残された建物から、そこで何が行われていたか知る事ができた。エテレインに対する父親の想いを知っている今は、この惨い罰を知れば、彼の中の何かが壊れてしまうかもしれないと思ったのだ。今なお、二つの感情の狭間で懊悩している父は、エテレインがこの地にただ幽閉されているとしか知らなかったのだから。
 その後、部隊はヴィーダーとマクラーンの魔物を追跡することになったが、彼女は何が起きているのか、何が真実なのか知りたかった。何故これほどまでにハイマはエテレインを憎悪するのか。そのエテレインという魔術師はどんな男なのか。父の心を三十年の間、悔悟に苦しめている魔術師にどうしても会いたかった。
 しかし、魔術師はすでに生きながら、死んでしまっていた。父エルンストの気持ちを伝えることも、魔術師が三十年前のことをどう思っているのかも、訊くことはできない。父は決して許されないのだ。焼き尽くされたブロカーデの村と同じように。人生も生活も命も何もかも全て突然断たれてしまった村人たちのように。
「何故、会いたかったんだ?」
 フューレンから漂ってきた深い哀しみに気づいて、フライハイトが静かに問う。その声に優しい気遣いを感じて、彼女は心を揺らした。暖かな声だ。人の心の深い場所にしみ込む穏やかな声だ。
「確かめたかった」
 フューレンは震える声で言った。そう言ってみて、一体何を確かめたかったというのかと、自問した。父は何も望んではいまい。許されたいとも、自分の代わりに娘の口から言い訳が語られることも望んではいない。ならば、会って何を自分は話す気でいたのか。何を、自分は望んでいたのか。フューレンは長いため息をついた。
「三十年前のことになる」
 フューレンは父から聴いた物語を語り始めた。
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