36.地下迷宮

文字数 2,846文字

 暗闇の中で時間は曖昧だった。どれほどの時間が経ったのか、フライハイトはわからなくなっていた。ただひたすらヴァールの後を付いていく。見失えば、終わりだという恐怖だけがあった。
 暗闇を進む道程が果てし無く続くような気がし始めた頃、前を行くヴァールが足を止めた。それが、それまでに何度かあった道筋を確認するための小休止ではないことは、彼の気配でフライハイトは感じ取った。
 ランプが灯されると、先は行き止まりだった。一瞬、道を誤ったのかとフライハイトが思っていると、ヴァールが(かざ)すランプの光の中に前を塞ぐ壁の下方に穿(うが)たれたさらに奥へと続く穴が見て取れた。その穴は腰の高さほどしかなかったが、元は何かに使用されていた抜け道なのか、明らかに人の手によって構造的に作られた均整と頑丈さを持っていた。
 フライハイトは背負っていた魔術師を縄で固定し、ほとんど四つん這いの格好で進んだ。進むのは一苦労であったが、この時になって初めて背に負っている者の重みが、最初に感じた頃とさほど変わりがないことに気付いた。見た目には健康をいくらか取り戻し、肉もつき始めているにもかかわらず、まるで赤ん坊を抱いている程の重みしか感じない。考えてみればそれまでも、いくらフライハイトが屈強であり、魔術師が痩躯であると言っても大人一人の重みと形を抱え続けていればあるはずの疲労がまったくなかった。魔術師の体の中には空気しかないのだろうか、その魂が消えてしまったように、肉体の中は空虚な空洞しかないのかもしれない。フライハイトはヴァールの後をひたすらついていきながら、自分の背負っているものの奇妙さに落ちつかない気持ちになっていった。
 しばらく進むと、フライハイトは自分の手の形がぼんやりと見て取れることに気づいた。周囲には光が薄く広がりはじめていた。顔を上げて前方を見ると、ヴァールの陰の向こうに光があるのがわかった。どうやら穴の出口には光があり、それが近づいているようだった。洞窟から出てきた時のことを思い出す。もう遠い昔のような気がした。
 光は次第に強くなり、穴の中を満たす頃、その抜け道は唐突に終わった。一行は突如開けた空間の中に這い出た。そこは天井まで吹き抜けになっていて、巨大な煙突の内部のような構造をしていた。
 闇にいた目には光で溢れているように見えたが、慣れればそこは薄暗い巨大な井戸の底のような場所だった。見上げれば上の方は長く閉じ込められた空気が淀んででもいるのか、靄のように霞んで天井そのものは見えない。緩やかに婉曲している壁の所々から光が漏れ、四方へと伸びたいく筋もの光線となって薄闇の中で交差している。時折光と共に、その穴から建物のどこかで起きた音が漏れ、空洞の中で奇妙な風のような音となって(こだま)していた。人の手によって作られたすべらかな壁はどこまでも上へと続いていて、下から見上げる人々を心細くさせた。
 フライハイトは、一旦、魔術師を背中から降ろした。彼は目覚めていた。その瞳がいつになく焦点を結び、何かを見ているような気がして、フライハイトは驚いた。
「何だ?」
 ルックスがフライハイトの様子に気付いて声を掛けた。フライハイトは答えず、淡い光の中で魔術師の瞳を注視した。その瞳に何かの意思があるように見えるだけでなく、それまでになかった気配を感じた。
「エテレイン?」
 思わず声を掛けた。反応したのは魔術師ではなくヴァールだった。
「どうした?」
 ヴァールの声にフライハイトは我に返り、その方を見た。険しい顔つきで、彼を見つめているヴァールの視線とぶつかる。フライハイトが再び魔術師に視線を戻すと、すでにその瞳は閉じられていた。
 誰も口を開かなかった。それぞれは感じ取ることができなかったが、フライハイトが何に動揺したのかを察していた。あり得ない、とは誰も思わない。何が起きても不思議はない。そしてその何かはすでに始まっているのだと、その場にいる皆が思っていた。
 壁の一部に、上へ昇る縄梯子があった。別の場所からこの空洞に入ったミーネたちのもののようだった。それはまるで彼らを待っているようにそこに残されていた。ミーネの思惑どおりに事が運んでいるような気がしてフライハイトは落ち着かない気持ちになったが、ヴァールは何の反応も見せず、先頭になって上へと登り始めた。一行もその後に続いた。
 下を見ることが躊躇(ためら)われるほどの高さまで登った頃、縄梯子が途切れ、横へ入る狭い道が頭上にあった。そこは左右の壁が接近していて、上の方は完全に接していた。床は滑らかだったが、所々に裂け目やでこぼこがあり、大きな地形の変化により建物自体が動くか歪むかして出来た場所のようだった。
 その道をさらに奥へと進んでいく。やがて壁の一部が壊されている場所に到達した。ハンマーのようなもので乱暴に壊された穴から中へ入り込むと、すでにそこは王宮の内部だった。
 倉庫らしきその部屋に一行は降り立った。部屋の扉の外の慌ただしいざわめきと混乱が空気を振動させて伝わってきた。ミーネたちは継承の間に突入したようだった。黒の扉から白の扉の間の回廊は侵入者に対する応戦で混乱しているだろう。その振動がフライハイトたちに伝わると、彼らの体もまた恐れと興奮の入り交じった熱いもので震え始めた。
「行くぞ」
 ヴァールが振り返ってフライハイトに静かな声で言った。フライハイトがうなずく。ルックスたちが剣を抜き、フライハイトとその背に負われた魔術師を護るように取り囲んだ。
 ルックスが扉をそっと開き、様子を窺ってから廊下に滑るように出た。黒の扉は既に開け放たれ、その周囲に兵士が右往左往していた。彼らは黒の扉の向こうへ足を踏み入れることを許されていない兵士たちであり、儀式で異変が起きたことがわかっていても禁忌を犯すことができないのは、魔女が恐ろしいからだった。
 兵士たちが一斉に振り返った。
「賊だ!」
 誰かが叫ぶと、攻撃目標を失っていた兵士たちがわっと押し寄せてきた。飛び出したヴァールは躊躇わず黒の扉に突進した。フライハイトも続く。黒の扉の向こうにこちらの混乱ぶりと比べ、奇妙に閑散とした長い回廊が続いているのが見えた。
 扉と彼らの間に兵士たちが割ってはいる。ヴァールの鉄杖とルックスらの剣と、フライハイトの拳が兵士をなぎ倒していく。最初の賊の侵入を許してしまった責任に戦き、新たな侵入者の出現に驚愕し、自分たちの中に複数の裏切り者もしくは内通者がいたことに衝撃を受けていた兵士らは浮足立っていた。
 それでも王宮を護る兵の動きはそれなりの手練で、すぐ近くにある黒の扉までたどり着くことができない。さらに増援の兵士が現れ、フライハイトたちはたちまち取り囲まれてしまった。
「無謀なことをする」
 甲冑を(まと)った一人の兵士が(あざけ)るように言って、彼らの前に進み出た。
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