40.二人の魔術師

文字数 9,176文字

 扉が再び開かれ、ヴァールたちが広間に駆け込んできた。半ば密室の中で溶け合い一つに融合していた人々は突然、外部から現れた異物にまるで夢から覚めたようにきょとんとしていた。開け放たれた白の扉から風が吹き込むように、侵入者たちが入ってくると、思考停止したまま、人々は彼らのために反射的に左右にわかれ、道を作った。
 ヴァールたちはその道をゆっくりと進んで行った。
「エ、テ、レ、イ、ン……」
 ハイマが食いしばった歯列から呪詛を思わせる声音でその名を絞り出した。ふいにその顔から獣に似た表情が消え、ぼんやりした虚ろなものが現れた。瞳からは輝きが消え、何も映ってはいないようにどんよりと濁ってしまった。まるで彼女の中で、何かがある一定の限界を越えた瞬間のように見えた。
 時間が止まった一瞬の後、瞳が無機質な光沢を帯びた。その奥に炎のようなものがちらちらと揺れる。ハイマの顔から全ての表情が消えた。
 大天井が不気味な音を発した。音は空気を震わせ、その下にいる無力な人々の心をおののかせた。
 ルックスは初めて対したハイマの圧倒的な威圧感に身震いし、その存在感を意識した途端、足が動かなくなった。彼女の視線が自分の腕に抱いた者に刺さり、その切っ先が体を突き抜け自分をも傷つけているように感じられた。腕に抱いた者がその視線に焼かれて炎を上げるのではないかという気がした。憎悪が、激しい憎しみの感情が何故それほどまでに屍も同然のエテレインに向けられるのか、ルックスには理解できなかった。そして、自分が抱いている者が今もなお、彼女に強い影響力を与える存在であるということこそが、エテレインの生きている意味なのだと気づいた。
 ヴァールは白の扉と玉座とを結ぶ通路の中程、継承の間の中央の辺りで歩みを止めた。視線を屍となった玉座に座る王に向ける。
 エテレインにのみ意識を集中していたハイマは、その時ようやくヴァールに気づて視線を向けた。しかしヴァールは女魔術師の存在など眼中にない顔つきで静かに王を、或いは玉座を見つめていた。
 ハイマは彼の顔の何かが心に引っ掛かり、金色の瞳を(すが)め、ヴァールを注視した。その顔のさらに奥深くまで見透かすように彼女はヴァールを見つめ、ふいにはっとして目を見開くと、衝撃を受けたように頭をかすかにのけ反らせた。
「トロイエめ……」
 ハイマは低い声で呻いた。動揺が顔をよぎり、後を憎しみが追っていく。憎悪がその顔に深く刻み込まれると、次の瞬間、彼女は炎のオーラをまとった。
 風が起き、彼女の体から炎が迸った。
 それは生き物のように螺旋を描き旋風となって彼女を中心にして巻いた。
 突如、どんという音がして、広間全体が大きく揺れた。人々が悲鳴を上げる。炎の柱から小さな炎が飛び出し、逃げまどう彼らに襲いかかった。取りついた火はほんの小さな玉でしかないにもかかわらず、一瞬で人を炎に包んだ。あちらこちらで人が燃え上がり、もがき苦しんで暴れる度に、さらに火の玉が飛び散り、床を転がっていく。
「魔女めっ」
 恐慌状態に陥った一人の兵士がハイマに斬りかかった。しかし兵士は剣を振り上げたまま硬直してしまった。ハイマの金色の目に見つめられて、兵士は恐怖に顔を引きつらせながらよろよろと後退った。剣を振り上げたままの恰好で全身ががくがくと震えはじめる。ハイマが目をかすかに細めると、兵士は絶叫を上げて体を反転させ、突如走り出すとヴァールに向けて剣を振り下ろした。
 反射的にエーベンが剣で受け止め、押し返した。兵士は勢いよく後ろへ転がり、床に尻餅をついた。自分が何をしているのかわからないという顔つきで、恐怖に極限まで見開いた目でエーベンを見つめる。
 エーベンは、がちがちと歯を鳴らしているまだ若い兵士の顔に浮かんだ恐怖の表情に視線を奪われ、動けなくなった。
 兵士は自分の皮膚の下に何かが這いずっているような感覚を覚え、悲鳴を上げた。筋肉がひとりでに痙攣し、自分の腕が何故動いているのかわからぬまま、男は剣を再び振りかざしていた。そうせずにはいられなかった。
 兵士の見開いた瞳から涙が流れ落ちる。その瞳がふいに光をなくした。顔から恐怖が消え、だらりと締まりのない顔つきになると、次の瞬間には別のもの、狂気が現れた。その体の持ち主はすでにその肉体からは失われていた。
 兵士は口許から唸り声を発し、獣染みた動きで床から起き上がると、エーベンに剣で襲いかかった。エーベンが反射的に己の剣で応じようとした時、彼もまた自分の腕のように親しんだそれが、まるで意思を持つ生き物のように動こうとしているのを感じた。
「エーベン」
 フューレンが叫んで、自分の剣の柄に掛けた手に力を入れる。
「剣を使うな」
 ヴァールが制す。
 エーベンは剣を離そうとしたが、腕が自由にならない。狂った兵士が振り下ろしてきた剣を己の剣ではね除ける。ぞくりと何かが体の中を走った。まるで手と一体になったような剣は奇妙な振動をエーベンに伝えてきた。その感覚は戦闘の時に覚える高揚感を強烈にしたもので、その快感にも似たものにエーベンは引き込まれそうになった。
 恐怖を覚えた瞬間、再び兵士の剣が襲いかかってきた。エーベンは何の躊躇もなく、一閃の元に兵士を斬り倒していた。ぞくぞくっと体が震え、剣から何かが彼の体に流れ込んできた。それは抗しがたい魅惑に満ち、恐怖をも押し退けて、エーベンの体の中心へと入っていった。
 人々の間で悲鳴が起きる。フューレンが目をやると兵士や、ヴィーダーたちが武器を持たぬ人々に斬りかかっていた。その多くが自分のしていることがわからないというように驚愕と恐怖に顔を強張らせ、残りは狂人と化していた。
 そこかしこに血飛沫を上げて倒れる人、炎に包まれて生きながら焼き殺されている人で継承の間は地獄に変貌していた。
 衝撃の余り、フューレンはただ唖然とその光景を見つめていた。茫然と女魔術師に視線を向けた。ハイマはその視線に含まれる混乱を受け止め、どこか嬉しげに微笑んだ。それは少女のような笑みだった。恐れと怒りがフューレンの体の中で膨れ上がった。
 突如、兵士が襲いかかってきて、フューレンは反射的に剣を抜き、それに応じようとした。が、横からエーベンが割り込み、兵士を一太刀で斬り倒した。フューレンは一瞬、安堵したものの、エーベンの顔に奇妙なものが浮かんでいるのを見て、戦慄を覚えた。
「エーベンっ」
 名を叫ぶと、男の顔に獣じみた獰猛なものが浮かび、焦点のあってない目をぎらぎらと光らせながらフューレンを見た。けれどその瞳に自分が映っていないことがフューレンにはわかった。
 剣の先がゆるりと上へ上がる。フューレンは信じられないというように顔を横に振り、後ろに後退ずさった。エーベンの剣が振り上げられる。フューレンはその永遠とも一瞬とも思えた時間、彼を傷つけてでもこのおぞましい呪いから解放させるべきか、或いは自分が倒された方がましかと考えた。迷っているうちにエーベンの剣が振り下ろされた。その時、背後からルックスがタックルするようにエーベンの体を突き倒し、その腕を押さえ込んだ。
 その合間にフューレンの混乱した感情は止まった時間と共に砕け散り、そこから猛烈な怒りが吹き上げてきた。
「フューレンッ」
 ルックスが叫ぶ。フューレンは身を翻すと、怒りと共にハイマ目掛けて走った。剣を持つ手に力を入れる。振り上げようとしたその瞬間、彼女は自分の腕が自由にならないことに気づいた。怒りを腕に込めると、同じ強さで腕と剣は彼女の意思に反発しようとする。
 フューレンは声を上げ、気力を振り絞って、剣を自分の側へ引き寄せようとした。しかし剣は動こうとせず、そして彼女の腕は凍りついたように剣から離れなかった。フューレンはそのまま動くことができなくなった。
 ハイマが婉然と微笑んだままゆっくりと近づいてきた。その視線はすでにフューレンを見てはいない。魔術師の興味が自分から離れていると知っても、恐怖が彼女の体を震えさせた。それでいて、横をまるで風に揺れる薄い布のようにふわりと歩いていく彼女の美しさに酔うような感覚を覚えた。
 美しい。女神のように、悪魔のように、人々の心を奪う。それは彼女の持つ美しさなのか、それとも魔術師ゆえの魅力なのか。
 ヴァールは床に横たえられたエテレインの傍らにいて、歩み寄る女魔術師を静かに見つめていた。ハイマも彼のブルーブラックの瞳を見つめた。
「ヴァールっ」
 エーベンを押さえているルックスが警告の声を発した。ヴァールがそれに気づいて振り返ったとき、すでに兵士の一人が背後にいて、その持ち主の意思を離れた狂気の剣を振り下ろそうとしていた。
 が、剣はヴァールの肉体にかすることもなく、空を飛んでいった。兵士の体はフライハイトの蹴りに吹っ飛ばされていた。
「大丈夫か?」
 フライハイトは言った。瞬間の事に硬直していたヴァールはぎこちなく首を動かして、声の方を仰ぎ見た。そこにフライハイトの顔があった。心配そうではあったが、緑の瞳は柔らかく微笑んでいた。こんな時でもまるで周囲の状況を意に介していないような静かで穏やかな物腰を見てヴァールもかすかに笑った。
 その時、再び広間に大音響が響き渡り、下から突き上げるような揺れに襲われた。その場にいた人は床に投げ出された。
 二人も床に転がり、強か体を打ちつけた。床に大きな亀裂が走り、あちらこちらで段差が出来た。
「ヴァール」
 先に態勢を立て直したフライハイトがヴァールに走り寄ろうとしたとき、二人は背後にごおという音を聞いた。同時に振り返ると、ハイマの全身から赤い炎が吹き出していた。
 まるで焚き火に現れた時のように、魔術師は紅蓮の炎に包まれていた。ハイマ自体は全身黒味を帯びた紅色に染め上げられ、その顔はまさに人ならざる魔物のようだった。
 ハイマをゆらりと両腕を二人の方へ伸ばした。するとその体から数十の炎が吹き出し、まるで槍となって二人を目掛けて飛んできた。
 避ける間もないと思われた時、両者の間にミーネが飛び込んできて、その体で数本の炎の槍を受け止めた。残った槍をフライハイトは辛うじて避けたが、一本は彼の脇腹を掠め、別の一本はヴァールの大腿を貫いた。
 ヴァールの足に刺さった槍はごおっと炎を吹き上げ、彼の体に襲いかかった。ヴァールは床に転げた。
 フライハイトはヴァールに走り寄り、脱ぎ捨てた上着で彼の体の炎を叩き落とした。
 同時に悲鳴を上げるミーネの全身が炎の槍に貫かれて激しく燃え上がった。
 ヴァールの体の火が消えたことを確認したフライハイトに、ルックスも加わって、ミーネの体の火を消そうと試みたが、すでに手の施しようがなく、その炎の勢いに近づくことも出来なかった。
 ヴァールは目を見開いてその様子を見つめていた。ミーネはすでに苦痛を感じていないのか、体を大きく揺らすだけで、まるで何事もないかのようにただ立っている。燃え盛る炎の中でミーネの顔が彼の方を向いた。見えているのかいないのか、燃え落ちた顔の皮膚が動くのがわかった。笑っているようだった。黒い眼孔と化した瞳がヴァールに何かを伝えようとしていた。ヴァールはミーネが何を言おうとしているのか知っていた。
 ミーネが望んでいたもの、そのために自分を踏みにじり、利用しようとしたもの。ミーネはそれを達成しろと言っているのだ。例え自分が死んだとしてもそれを成せと言っているのだ。
 一体、そのことにどれほどの意味があるというのだろう。
 炎に焼き尽くされていくミーネを見ながら、それまでヴァールは自分がそれを望んでいるのかどうかわからなかったが、この時、自分の気持ちがわかったような気がした。
 女の笑い声がし、ミーネを燃やし尽くした炎の向こうに魔術師が現れた。人々は人知を越えたその力に畏怖し、気力を無くしたように、へたり込んでいた。
 ハイマがゆったりと微笑む。
 お前は何を望んでいるのだ。
 ヴァールはすでに何かを諦めた魔術師に心の中で問いかけた。  継承の間、ミーネたちが始まりの間と呼ぶその広間の天井がウオーンという耳が痛くなるような音を鳴らした。獣の咆吼のようなその音は重量感を持って傷つき疲れ果てた人々の上に落ちてきた。後を追うように乾いた不気味な音が続く。それは天井が崩壊し始めている音だった。
 放心状態だった人々は恐慌し、屍を踏みつけて我先に広間から逃げ出した。すでにその数は半分にも満たなかった。
 炎と化したハイマの右腕がゆっくりと上がり、指がフライハイトたちを指し示した。その長い爪先に、ぽっと金色の光が灯る。
「逃げろ!」
 ルックスが叫ぶ。我に返ったエーベンがフューレンに駆け寄る。フライハイトはヴァールを抱き起こそうとした。ヴァールの足は炎の槍に貫かれて大きな穴があき、さらにその周囲は酷く焼けていた。自力で立ち上がって歩くことは無理だった。
「彼を」
 ヴァールはフライハイトの手を押し退けて、エテレインを示した。
「わかっている。お前も逃げるんだ」
 フライハイトは言って、尚もヴァールを助け起こそうとした。天井が割れる音がまるで世界の終わりを示すように二人の上から響いてきた。
 床からは不気味な地鳴りが響いている。建物全体が激しく鳴動し始めた。
「無理だ。彼を連れていくんだフライハイト。いや、間に合わない。一人で逃げろ!」
 ヴァールはフライハイトに言った。フライハイトは彼が言っていることが理解できないというように首を振った。
「フライハイトっ、ヴァールっ」
 フューレンが叫ぶ。
 広間の入り口にエルンストが姿を現した。男は状況を素早く見て取ると、走り込んできた。
「父上!」
 フューレンが父を見て叫ぶ。
「早く逃げろ。崩れるぞっ!」
 エルンストはエテレインの元へ駆け寄ろうとしていた。
「行くぞ!」
 ヴァールを抱えようとしてフライハイトが叫ぶ。しかし尚もヴァールはその手を拒んだ。
「間に合わない。逃げるんだっ」
「駄目だ、連れていく」
「俺はいい」
「よくはないっ。俺は、お前を、助けるんだっ」
 フライハイトは怒ったように叫んだ。
 ヴァールの表情が激しく歪む。それは泣きだす前の子どもの顔だった。フルーブラックの瞳がフライハイトを見つめる。空気を求めるようにヴァールの口が開き、(あえ)ぐような声を漏らした。
「俺は、俺は―――」
 ヴァールが何かを言おうとした時、ハイマの指先から炎のかたまりが飛んでくると同時に、すさまじい音がして、崩れた天井が降ってきた。人々の悲鳴と怒号、フューレンの叫び声がした。
 フライハイトは反射的にヴァールの体の上に自分を重ねた。
 その瞬間、ヴァールの心の中に二つの感情がせめぎあった。彼は終焉と継続の欲求の狭間で混乱し、迷い、最後に自分の体を抱く骨が折れそうな強い力を意識した時、思考も理性も飛び、魂がそれを決めた。
「エテレイン!!
 ヴァールは心の奥底から、求め、その名を叫んだ。
 彼らの上に巨大な天井が落ち、猛火に包まれるかに見えたその瞬間、時間が止まった。
 静寂が周囲を包む。その唐突な変化に思わず全てが終わったのだとフライハイトは錯覚した程だった。が、互いの鼓動が聴こえて、自分たちがまだ生きていることを知る。
 何が起きたのか、フライハイトにはわからなかった。周囲は恐ろしい程静まり返っていた。覚悟を決めて目を閉じていたフライハイトは恐る恐る瞼を開いた。
 最初に見えたのは、ヴァールの鋼色の髪が青く光っている様子だった。
 何故彼の髪が青く輝いているのかと考え、そうではなく青い光が周囲に満ちていることに気づいた。
 フライハイトはゆっくりと体を起こした。水の中にいるような青みを帯びた銀色の光が辺りに広がっていた。炎を消え失せ、頭上を見ると落下してくるはずの瓦礫がぴたりと宙に止まっていた。それがすーと静かに動き、彼らを避けるようにして床にゆっくりと落ちて、奇妙なことに音もなく砂のかたまりが砕けるように崩壊した。
 フライハイトとヴァールは光の源を追って視線を動かした。
 そこに、魔術師エテレインが立っていた。
 薄青い銀色の光に包まれて、両腕をゆったりと広げ、掌を上へ向けている。白銀の髪が水面で輝く月の光のように揺らめく。その顔にあった虚ろは消え、冷たいまでの知性の輝きが戻っていた。
 その姿は神々しいまでに美しかった。
 エテレインはハイマを静かに見つめていた。そして魔術師は深い声で言った。
「我は、王の魔術師なり」
 声は、汚れた場所を浄化するように広がっていった。フライハイトはその声の響きに心を奪われた。それからその言葉の意味に戸惑った。彼は正常に戻ったのか、それとも狂気の中で目覚めただけなのか。
 ハイマの全身が激しく震え始めた。その顔が凶暴な獣めいた形相に歪む。けれどその姿は激し過ぎる感情と力の放出のためにひとまわり縮んでしまったように見え、美しい外見を憎しみと怒りの炎で焼き尽くし、その心の裡を老いた肉体と共にさらけ出していた。彼女の憎悪が炎となってエテレインに向かう。しかしそれは静謐な蒼い光に遮られ、消えた。まるで優しく包むように、静かに。二人の魔術師は全く正反対の気配を持っていた。
 エテレインは既に驚異とは見ていないのか、まるで獣が力比べをしているようなハイマの絡みつく激しい視線を簡単にやり過ごし、青い瞳をフライハイトたちへと向けた。表情のない白い顔に透明な青い瞳、意思を取り戻したそれは一層心奪われる程に美しい。
 魔術師は水が流れるような静かで柔らかな動きで歩み寄ってきた。フライハイトがその動きに魅いられ、呆然としていると、魔術師は音もなく床に膝をつき、倒れ込んでいるヴァールの前で頭を垂れた。白銀の髪がその横顔を隠す。
 そして、魔術師はヴァールの足に両手で触れた。その白く繊細な指先が小刻みに震えているのをフライハイトは見た。
 魔術師エテレインはヴァールの足の甲にそっと唇を寄せた。しばらく時が止まったかのようにエテレインは動かなかった。
 やがて顔を上げ、ヴァールをじっと見つめた。青い瞳が潤んでいる。それはさながら天上を映し出した湖のようだ。半ば放心しているフライハイトの耳にエテレインの人の心の奥深い場所まで届くような声が響いた。
「我が君」
 無表情のままエテレインの瞳から涙が落ちた。呆然としているフライハイトを代弁するかのように、ルックスが言った。
「どういうことだ?」
 フライハイトの頭の中で、過去の様々な記憶が蘇ってき、それらが一つの形となり、そして悟った。ヴァールは、第一王子は生きていると言った。それは当然ファステンでなくてはならない。しかし既にファステンは亡い。ならば、その血を引くものが王子となる。つまり、ヴァール自身が第一王子だったのだ。
「トゥーゲントが、ファステン王子だったのか」
 フライハイトは愕然としながら言った。マクラーンの魔物に食事を運ぶ役目を与えられた男、それが王子だったのだ。彼のために閉じ込められ永劫に続く酷い辛苦を与えられた魔術師を、また同じように見つめ続けなければならなかった王子ファステン、その息子がヴァールだった。
「俺が、王だっ!」
 その時、叫ぶ者がいた。皆が一斉にそちらを見ると、アングストが幽鬼のような顔で立っていた。
「俺が、王だ。俺が王なんだっ!」
 アングストは口から泡を吹きながら、狂ったような顔で叫んだ。既に瞳は正常さを失っていた。本物のアングストであろうとなかろうと、王子となるためだけに存在している男は、既に魂の行き場を失ってしまっていた。
 エテレインが静かにそちらを向く。フライハイトはその白い横顔に初めて魔術師が見せた感情を認めた。それは悲しみだった。アングストに対する哀れみからなのか、それとも別のものなのか、深い哀しみがそこにあった。
 アングストは宝剣を振り上げた。その剣から炎が弱く噴く。それを見てアングストは狂ったような笑い声を発した。
「俺には魔術師がいる。大魔術師ハイマがついているのだ。俺が王に決まっている」
 アングストが剣を振り回すと、炎の小さな玉が散らばった。アングストの狂気を宿した瞳がフライハイトたちに向けられた。狂った王子は笑いながら、無造作に近づいてきた。炭になったミーネの体が踏み壊されて砕け、王と名乗る者によってその肉体は完全に無に帰した。
 エテレインは片手をアングストの方へ向けた。彼の白い顔は再び表情を消していた。ふいにその手にヴァールが触れた。エテレインははっとしたようにヴァールを振り返った。そして彼のブルーブラックの瞳が何かを語るのを読み取って、エテレインは動揺した。
 アングストが剣を振り降ろした。その時、その剣をエルンストが受け止めた。将軍はアングストの剣を跳ね返した。アングストはよろめき、なお狂乱して剣を振り回しはじめた。エルンストは剣の切っ先を払いながら突進し、肩で王子の胸を突いた。
 王子の体は後ろへ吹っ飛び、床に昏倒した。しかし彼の腕の一部になった剣はその腕から離れようとはせず、まるでその持ち主を引っ張り上げるように持ち上がった。
 しかし、アングストはすでに気を失っていた。剣だけが、まるで生き物のように起き上がり、憎しみと怒りに彩られた赤い炎を吹いていたが、やがて火種を失った焚き火のように力を失っていき、一瞬、ごおっと音を立てて大きく燃え上がった後、完全に消えてしまった。それと共に剣は意思を失い、アングストの腕を解放して、からんという虚しい音を響かせて床に落ちた。
 広間に残された人々は我に返ると同時にハイマを見た。女魔術師は炎をまとったまま玉座の小さな王の亡骸の側に立っていた。自分の産みだした炎に燃え尽くされたのか、それはすでに人の形を失い、儚く、小さな陰でしかなかった。
 ハイマはエテレインを見つめているようだった。人の喉が作ったのではない、奇妙な声が炎からこぼれ落ちた。
「お前が……私たちを……裏切りさえ…しな…ければ……」
 声は涙で震えているように哀しげに響いた。エテレインの体が震え、アゴーニアが悲痛な顔で瞳を伏せた。
 ハイマの体は炎の中で溶け落ちていった。彼女は消えていく意識の中で、これでようやく重たい体を捨てられる、と思った。
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