20.剣士

文字数 6,900文字

 呆気にとられていた二人は我に返り、慌てて女の後を追った。一瞬逃げているのかと思ったが、そうではなく何処かへ導こうとしているようだった。彼女が何者で、何を意図しているのかはわからなかったが、これが罠であったとしても手掛かりがない今は従うしかないとフライハイトは思った。
 似たような路地をいくつも折れ、土地勘のないフライハイトが、自分がどこにいるのか全くわからなくなった頃には、三人は町の地下層へ入り込んでいた。女の動きが慎重になってきたのに合わせてフライハイトとヴァールも用心深く後に続く。
 建物の隙間のうねるような細い階段を下っていくと、地下通路の入り口へとたどり着いた。中は水路が中央にある巨大な暗渠になっている。中から吹いてくる風は生暖かく湿っていて悪臭がした。夜の町はわずかながらの街灯と月明かりで幾分明るさがあったが、地下通路の中にその明かりは届かない。のっぺりとした暗闇が奥の見えない深い通路に満ちている。が、全くの無明という訳ではく、所々小さな灯火らしきものが揺らめいているのが見えた。地下通路には地上の路地と同じく、無数の横道があり、そこに住んでいる人間がいるのだ。ここは町の吹き溜まりのような場所だった。
 フライハイトでさえ躊躇を覚えるその場所に、女は臆することなく入っていった。仄かな香りで女と気づいたのか、或いは物乞いなのか、縋りついてきた浮浪者のような男を平然と蹴り倒し、踏みつけて女はどんどん奥へと進んでいく。二人は女の行動力に圧倒されながら続いた。
 いくらか進み、目が闇に慣れた頃、女は横道の一つに体を滑らせて、奥へ入り込んだ。フライハイトたちも後に続く。横道は中央道よりも狭く、天井も低い。その道のずっと先にこの地下水路の中ではかなり明るい光があるのが見えた。前を進む女が振り返り、唇に人指し指を立てたのを見て、フライハイトは目的地が近いことを悟った。
 さらに進むと、複数の人間の籠もった話し声が聴こえてきた。灯のすぐ近くまで達した所で女は動きを止め、その場に腰を落とした。地下水路はどういう構造になっているものなのか、頭上には建物の窓があった。灯と声はそこから漏れていた。
 女にならってしゃがみこんだフライハイトは見知らぬ男たちの声を聞いた。
「ありゃ! こいつ男だぜ」
「馬鹿言え、こんなべっぴんが男であるもんか」
 フライハイトはそっと腰を上げ、中の様子を窺った。窓に入ったガラスは汚れが酷く、中は霞の向こうにあるようだったが、辛うじて様子が見て取れた。
 魔術師は机の上に横たわっていた。曲がったままだった体は、男たちが無理矢理開いたのか、自然に戻ったのか、真っ直ぐ伸ばされていた。その体の上に与太者のような風体の男がのしかかりその体をまさぐっているのを見て、フライハイトは自分でも驚くような強い怒りを覚えた。
 男は不思議そうにエテレインの胸の辺りを探っている。女だと思い込んでいた者のそこに何もないことに驚いているのだろう。
「女じゃねえか」
 別の男がエテレインの下腹部をドレスの上からさぐった。上にのしかかった男がいらついたようにドレスを掴み左右に引き裂いた。エテレインの痩せた裸身が顕わになる。
「ほれ、見ろ」
 酒瓶を持った男がエテレインの足の間を覗き込んで言った。上のいる男が不思議そうに平らな胸を見、下肢を見た。そしてそこを手で探ってみた。
「何だ、こいつ?」
 男はそこに女にあるべきものの代わりに奇妙な肉と皮膚のおうとつに触れて驚いたように手を引っ込めた。
 数人の男たちが集まって、机の上で足を開かされたエテレインのその部分に顔を寄せ、口々にわめき始めた。男たちはようやくエテレインの体の状態に気づいたようだった。エテレインを女だと思っていた彼らは、落胆する者、驚く者、怒る者様々だった。
「まあ男でもいいさ。こんなにきれいなら。それにこういうのが好きな手合いもいる。多分、高く売れるぜ」
 男の一人が言った。
「どうかなあ。確かにこう、なんていうか高貴な感じの美形だが、顔にひどい傷がある。その上、男とあっちゃあなあ。具合が悪過ぎらあ」
 別の一人ががっかりしたように言う。
「こいつらは、盗賊か」
 ヴァールが囁いた。
「そのようだ。人身売買専門の」
 女が低い声で答える。
「宿に入る前から目をつけられていたか」
 ヴァールが自分の迂闊さを悔しがるように呟いた。
 男の一人が再びエテレインの体の上に伸しかかった。その首筋に顔を寄せる。
「おいおい、男だぜ?」
「構うもんかよ。見ろ、このきれいなツラ、肌、それに入れるトコならちゃんとあるじゃねぇか」
 男たちが下卑た声でげらげらと笑う。男の手がエテレインの奪われた性の部分をさまよい始めた。
 その人に触るな。
 フライハイトは声に出さずに言った。血液の温度が上昇し、怒りは体の隅々まで行き渡り、肉を沸騰させた。
「おい、フライハイト」
 腰を浮かしかけたフライハイトをヴァールが制した。
「助けなければ」
 フライハイトは怖い顔で言った。彼にとって、マクラーンの魔物は邪悪ではなく神聖なものであり、そして唯一残された、ブロカーデの村、歴史、人々、生活など過去が存在したことの証でもあった。何より、苦痛を与えられる続けた魔術師が、これ以上傷つけられ、辱められるのは許されないことだ。
 ヴァールはつかんだフライハイトの腕から、押し寄せてくる怒りの気配を感じ、眉をきつく寄せた。
「今、ここで騒ぎを起こす訳にはいかない」
 この町の裏社会を徘徊しているであろう彼らと揉めればやっかいな事になるのを、ヴァールは危惧していた。ただでさえ魔術師と自分たちは、軍とそしてミーネたちヴィーダーに追われている。表の世界だけでなく、裏の社会でも逃げ回ることになるのは避けた方が賢明だった。それにトラブルを起こし、住人たちの注視を引けば、こうした街々の裏側を熟知しているミーネにとって好都合となる。どこへ隠れようとも自分たちの居場所を彼らに知らしめることになるだろう。ここはできるだけ穏便に事を済ませたほうが得策だった。が、そう説明されてもフライハイトは納得できなかった。
「このままじゃあ、彼はどうなる?」
 フライハイトは憤ったように言った。汚れた窓の向こうの薄汚い部屋で、エテレインは男に嬲りものにされ、今にも凌辱されそうだった。それを見るといても立ってもいられなかったが、ヴァールはそうではないようだった。
「狂ってるんだ。何もわかっちゃいないさ」
 ヴァールがちらっと窓の向こうに視線をやり、事も無げに言った。フライハイトは唖然とし、彼を振り返った。確かに、男たちが何をしようとエテレイン自身は何も感じていないのだろう、虚ろな視線を泳がせているだけだ。が、だからといってそのような扱いが許されるはずはない。
 瞬間的に凶暴な怒りを覚えたが、しかし、フライハイトはその怒りのほとんどが、自分自身に、そしてブロカーデの人々に向けられたものだとわかっていた。過去の、何も知らないことを理由に、その行いについて考えること自体を拒絶し、彼を悪しき魔物と決めつけ、虐げ続けた自分たちに。
 フライハイトはヴァールの腕を振り払うと、反射的に立ち上がり、そのままの勢いで体でガラス窓を桟ごと破った。
「何だぁっ!?」
 中にいた男たちが驚愕して叫ぶ。が、それなりの修羅場を生きている男たちらしく反射的とも言える速さで恐慌状態から脱し、飛び込んできたフライハイトに応じた。
「あの馬鹿っ」
 ヴァールが吐き捨てるように言った。加勢するために中に飛び込むか、その他のもっとましな手段がないかを素早く考えている間に、先に女が行動した。ひらりと風のように窓から飛び込んだ瞬間、マントがひるがえり、女の手がその腰にある剣の柄を握るのを後ろからヴァールは見た。その柄に刻まれた二つの紋に彼は見覚えがあった。一つは見慣れた王家のものでありそれは王都軍の将校が持つ剣である証拠だった。もう一つの紋はそれを確信に変え、彼女が何者であるかの証明となった。
 男たちは一斉に短刀を手にした。フライハイトは初めて自身に向けられた多くの短刀を見ても恐れを感じなかった。戦闘状態に入った彼は、不思議と頭の中を沸騰させていた熱が瞬時に引き、冷静になる自分を感じていた。その目で判断したのは、男たちの動きが個人においても、集団としても無駄が多く、父の言葉で言えば、流れが整っていないことだった。それは、男たちがそれほど戦闘に長けている訳ではないことを示している。
 男の一人が丸腰のフライハイトを軽く見たのか、安易な動きで短剣を突き入れてきた。その腕を捕らえ、関節を逆方向に捩じると鈍い音がして、男は悲鳴をあげ、床に転がった。あとから飛び込んできた女剣士の方を気にしていた他の男たちは、それを見てぎょっとし、一瞬ひるんだ。その男たちの一人の腕をフライハイトは蹴り上げた。短剣がどこかへ吹っ飛び、骨の折れる音と男の悲鳴が後を負う。男たちの間に動揺が広がったが、それはすぐさまなわばりに侵入された野犬のような興奮に変わった。さらに、騒ぎに気付いて仲間が集まり始めていることも、彼らの気持ちを高ぶらせた。
 エテレインの上にいた男が、素早く状況を見て取ると、短剣を抜いた。その切っ先をエテレインの喉に向けようとした時、二人に続いて飛び込んできたヴァールが椅子で思いっきり殴りつけた。粉々になった椅子の残骸と共に男は床に転がった。
 女が投げて寄越したマントを受け取り、ヴァールは魔術師の体をそれで包んだ。抱き上げた所で、転がった男が興奮した猿のような形相で飛び掛かってくる。その男の腹をフライハイトの足が二つ折りにした。
「行くぞっ」
 ヴァールが叫んで窓に走る。フライハイトは援護しながら後を追った。男たちが追いすがろうとするのを剣士が押し止める。
 窓を飛び出したフライハイトは女が来ないのに気づいた。
「おいっ」
 名前も知らぬ女に叫ぶ。
「先に行け」
 剣士がその場にそぐわぬ落ちついた声で言う。ヴァールに呼ばれて、フライハイトは一瞬逡巡した後、女に片手で合図し、その場を後にした。
 ヴァールから魔術師の体を引き取り、元来た道を駆ける。横道から走り出、幾つかの角を曲がる。複雑な水路の中で、フライハイトには自分のいる場所がさっぱりわからなかったが、ヴァールは抜かりなく覚えているようだった。ひたすら後を追い、時折横手からあるいは二人の前方に飛び出してきた盗賊を蹴り倒しながら走る。
 地下水路から脱出するとすでに夜だった。飛び出してきた二人に浮浪者がぎょっとしたように顔を上げたが、すぐに何も見なかったことに決めたようだった。慌ただしく階段を駆け登ると、道行く人々が二人にちらりと視線を投げたが、そのまま無関心に取りすぎていく。辺りは何事もなかったかのように静まり返っていた。
「すぐに町を出るぞ」
 先を行くヴァールが叫んだ。しかしフライハイトは立ち止まり、振り返った。階段はだらだらと長くうねっていてその底にある地下水路の入り口は見えない。耳をそばだてても下からは人の声も水の音も何も聴こえない。女が大層な腕前であることはわかったが、それでも地の利が悪い中、多数の無頼漢相手に一人残してきたことが気がかりだった。これ以上、何かを犠牲にするのは、もう御免だった。
「フライハイトっ!」
「先に行ってくれ、俺は彼女を見てくる」
 フライハイトはヴァールの返事も聞かず、魔術師の体を預けると、身をひるがえした。
「おいっ、フライハイトっ、戻れっ」
 叫んだが、すでにフライハイトは階段から見えなくなっていた。

 巨大な水路の入り口は奇妙に静まり返っていた。付近にいた浮浪者も姿がない。フライハイトは息を殺して奥へと進んだ。やがてかすかな音が聴こえてきた。進むにつれ、それは次第に大きくなっていく。複数の叫ぶ声や怒号、水が弾ける音、物が壊れる音、金属がぶつかり合う音、複雑な地下水路の中でそれは反響しあってまるで地下そのものが咆哮している声のようだ。
 フライハイトは耳を澄まし、音の方向を探った。走る。角を幾つか回っていくうちに、水路のパターンがようやく理解できた。横道から、別の主道に入り、再び横道に逸れる。それを繰り返すうちに、音が近づいてきた。横道から次の主道に出ると、丁度、女が数人の武装した男に囲まれているところだった。
 男たちは先刻見た短刀ではなく大剣やさく杖を手にしている。場所によって使い分ける程には戦闘に慣れていた。彼女の周囲には何人もの男が倒れていたが、それでも数が多すぎ、退路を断たれて追い詰められている。
 フライハイトは陣形の手薄な箇所を見定めて飛び込んだ。ふいをつかれた男たちは陣形を乱した。女は一瞬できた混乱を逃さず、剣をふるいながらフライハイトの元へ走り寄った。
 横から斬りつけてきた男をかわしざまフライハイトはその背を拳で殴りつけ、床に昏倒した体をそのまま抱え上げ、潮のように押し寄せてきた盗賊たちに向かって放り投げた。男たちが混乱している隙に女とフライハイトは横道に入った。狭い道に入れば人の数は制約される。
 追手の声を後ろに聞きながら、横道から横道を駆け抜ける。広い主道に戻れば一直線に出口まで走って逃げればいい。
 あと少しで主道に戻れるというところで、突然前方に盗賊が現れて道を塞いだ。後ろからも怒り狂った形相の追手が現れ、二人に迫ってきた。
「ふざけやがって」
 前方の盗賊は二人を追い詰めたことを知り、にたりと笑った。
「前か、後ろか」
 あれだけ動き回って息一つ乱れていない冷静な声で女が言った。フライハイトは気配を探り、前方の敵の方が少ないと踏んだ。
「前だ」
 答えると、女の横顔がにっこりと笑った。彼女がこの状況を楽しんでいるのをフライハイトは知って、驚き呆れながらも痛快なものを感じた。
 女はためらいも見せず、無謀とも言える動きで前に向かって突進し、最初の男の一振りをあっさり交わすと胸に無慈悲な剣をつきたてた。男が叫び声を上げるよる早く、その体を体当たりでなぎ倒し、踏みつけながら乗り越えて次の男に斬りかかる。その無駄のない動きとスピードと、そして度胸は、盗賊たちのたちうちできるものではない。フライハイトは呆気に取られて首を振りながら、笑みをこぼした。これだけ力強い武を目の当たりにしたのは初めてで、そのことに自分が喜び、興奮していることに気付いた。
 背後から追いついてきた男にフライハイトは振り向きざま蹴りを入れた。倒れかかるところをもう一度蹴る。男の首がごきりと音を立てて横へ折れた。その背後から新たな敵が現れる。フライハイトはとっては、体術を使った初めてと言ってよい戦闘だったが、相手の動きに合わせて、体は教え込まれ習熟した型通り、思考よりも早く自然に動いた。体を動かす程に、それらが極めて実戦向きであることを知った。
 前方を行く女剣士は次々と盗賊を斬り倒していく。フライハイトは後方を守りながら彼女を追った。
 脂が回って剣の精度が落ち、一斬で敵を倒せなくなり始めた頃、二人は主道に戻った。そのまま全速で疾駆し、地下水路から脱出した。
 外の空気を吸って、さすがに女はふうっと息を大きく吐いた。が、背後から轟音のように聴こえてくる足音や怒号を聞き、すぐさま二人は階段を駆け登った。先に行ったヴァールがどこに向かったかわからなかったが、取り敢えず町に入ってきた時とは違う反対側の出口を目指した。
 先刻とは違い、町のいたるところに慌ただしい動きがあった。それらは明らかに逃げる彼らに反応していた。いつしか町全体がざわめいていて、まるで異物を吐き出そうとしているかのようた。
 後方からがらがらと車輪の音が響いた。振り返ったフライハイトは小さな馬車の馭者台にヴァールの姿を見た。
「乗れっ」
 ヴァールが叫ぶ。フライハイトは駆け寄り、荷台に飛び乗った。女剣士も続く。荷台にはマントにくるまれた魔術師が横たわっていた。彼はこの騒動の中、眠っているのか、気を失っているのか、瞳を閉じていた。
 男たちの叫び声は遠ざかっていたが、四人の人間を乗せた馬車はスピードを落としていた。彼らが馬を使えば追いつかれるのは時間の問題だった。
「追ってくるぞ」
 馬小屋の方へ走っていく盗賊の姿を確認し、剣士が冷静な声で言う。革布で剣についた脂を拭う。フライハイトも魔術師を出来るだけ安全な場所へ移動させた。狭い荷台にそのような場所はなかったが。
 数人の盗賊たちが馬に飛び乗り、馬車を追おうとした時、まるで煙のように音もなく、武装した集団が彼らの前に現れ、その行く手を遮った。
「何だ、てめぇらはっ」
 盗賊の怒鳴り声に、武装集団は声では応えず、一斉に剣を抜いた。
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