第1話 家庭訪問

文字数 1,268文字

その家の前までくると、換気扇が大きな音を、立てて回っていた。壊れてモーターとプロペラの間に隙間ができているのかもしれない。バタバタといびつな音を出している。
「ご近所さんから文句言われないのかしら?」
 小早川玲子は新しい学級の子たちの家庭訪問をしている。この日が最後の日だった。
「ようやく終わる」
 歩くという肉体的な疲れもあるが、それよりも自分より年上のお母さんたちと話をして回ることへの気疲れが勝る。
 自分のような若輩者が偉そうに教員ぶった話をするのもどうかと思う。かと言って、何も学校の様子やら家庭の様子やらに触れないわけにもいかない。当たり障りがない程度の微妙な話をして回るのが疲れるのだ。
 うるさく唸っている換気扇からはタバコの臭いがした。これまで回って来た家とは全く異質な空気に小早川は包まれていた。
「ふう」
 一番来たくない家に来た。
 木堂あけみの家は平屋で板でできた見るからに薄い玄関のドアに手書きの「木堂」という紙が貼ってあった。
 およそのことは入学の時に出してもらった家庭調査用紙に書かれていたから知っている。
 母親は「さとみ」といって、工場で働いている。父親は離婚していない。三年生に兄がいるが、その担任からも、木堂家の様子は聞いていた。
「行ってみればわかりますよ」
 その担任は含み笑いをしてそう言った。
 玄関の薄いドアをノックすると、返事もなく鍵を開ける音がして、中からドアが開いた。
 あけみがそうっとドアから顔を出した。
「誰?」
 奥から女の声がした。
「誰って、今日家庭訪問すること知っているのに、何なの?」
「先生」
 あけみが奥の女に答えると、母親らしき女がタバコを咥えたまま出てきて小早川を見た。
 「母親らしき」と思ったのはとても子どもが二人いるとは思えないような容姿からである。金髪に染めた髪ときつい色の口紅。きれいとは言えない。どちらかと言うと、貧相である。
「あけみさんの担任の小早川と言います」
 小早川が挨拶をしているのにその母親は咥えていたタバコを灰皿に押し付けて指についた灰を別の指を擦って落とそうとしていて小早川と目を合わせない。
「こいつ、バカでしょ」
 ようやく聞いた言葉に小早川が唖然としていると、母親はあけみの頭を小突いた。
「言うこと聞かなかったらはっ倒していいから」
 母親はそう言って笑った。あけみも引き攣ったように薄笑いをしている。
「宿題をきちんと出せるように見てもらえませんか」
 そのことを言えば、それ以上のことは望まないと、決めてきた。あけみは宿題をきちんとやってきたためしがない。
「いくら言っても、ダメ。勉強のことは本人に任せてるから。困るのも本人だし」
 母親にそう言われて、小早川はもう何も言えなかった。
「それでも母親か」
 時間が来て、小早川はその家から去った。終わりの挨拶も早々にドアが閉められ、小早川はドアの前に一人取り残された。
 換気扇がけたたましく回っていて、中からまたタバコの臭いが小早川の周囲を包んだ。自分の体に毒が染みてきそうで、小早川は息を止めてその場を離れた。
 

 
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