第5話  交渉

文字数 2,212文字

 今日もあいつが来ている。窓口で一人暮らしで頑張っている老人の相談を受けながら、美智子が待合室のソファに目を向けると、あの男の子がスマホをいじりながら座っているのが見えた。
 4年生だというが、知らなければもう少し小さい学年の子に見える。孫のつばきと同じ歳。毎回同じ服を着ているのが気になる。
 老人の相談が終わり、その老人は丁寧に何度も頭を下げて窓口を離れた。こちらは仕事の上で当たり前のことをしているだけだが、こうまで深く感謝されると、自分の仕事にやりがいを感じる。
次はその男の子の順番になるが、父親が近くに見当たらない。
「さとる君、お父さんは?」
 その子はスマホから顔を上げて美智子を見た。
−–なんだ、この子の持っている病んだ感じは?
あどけなさがない。体は小さいのに、大人に対する態度ではない。美智子を見たが、黙ったまま、またスマホに目をやり質問に答えない。
 美智子は父親を探そうと首を伸ばして窓口から周りを見た。父親は奥のソファに向こう向きに座って電話をしていた。頭を何回も下げて、電話の向こうに謝っているように見えた。
 待つしかない。
 ようやく電話が終わり、その父親が窓口へ来て座った。
−–またややこしい話が始まる。
「なあ、まだ決まらんのか?」
男は挨拶もなしに自分の話を始めた。
「はい」
 美智子は極めて事務的に感情を抑えて答えた。
 この男の主張は到底通るものではない。生活保護の申請に通って来始めたのは先月の事だ。男が言うには、飲み屋をやっていたが失敗して、妹を頼りにこの街に来たと言う。
 こんな男がやっている店に客が入るとも思えないから当然だと思う。
 生活保護の条件を前にも説明したが、わかってもらえていないようだ。
 まず、この男、働く意志が見られない。ハローワークには行っているようだが、それほど真剣には探していないようだ。人に使われるのが嫌らしい。スマホも持っているし、車も持っている。そして、自分のやっていた飲み屋の借金を抱えている。
 そして、何よりも一番は、親族がいることだ。
生活保護を受ける条件として最も審査されるのが、親族の保護が得られないという項目である。この男は妹を頼りにしてこの町に来ている。妹がいるからにはその妹から支援を受ければいい。
「妹が俺を支援するわけないだろ! 」
男はそう言うが、妹の「久保あけみ」からの確かな返事はもらえていない。
 美智子は知っている。この兄妹は木堂さとみの子だということを。
 中学時代の暗い暗い、そしてじめっとした思い出をわたしと副島に残した子だ。
「今から妹に電話するから、あんたから話してみてくれ」
 男がスマホを取り出した。
−–また長くなるわ、これ。
「電話ではだめなんです。先日渡した書類を書いてもらって、妹さんが支援できないことを証明していただかないと」
 美智子は当たり前のことを伝えたつもりだったが、それが気に入らないようであった。前回もこういったやりとりから揉め始めた。
「まったく! お前たちは俺たちの税金で飯食ってんだろ? それが市民に対する態度なんか? おお?」
こういう輩が必ず言う台詞をまた聞くことになった。
−–あなたからは税金をもらってはいないんですけど。
 揉めている声を聞いて、奥から係長が出てきてくれたので、あとは彼に任せた。

 男は一通り捲し立ててようやく帰っていった。
「あの男のことは福祉相談からも話があってね」
 係長が後から教えてくれた。あの男の子、さとる君は虐待されていると、ここにくる前、児童相談所に預けられていたそうだ。ネグレクト。子どもの放置。
 そうなると、ますます彼への生活保護の手続きはややこしくなる。クリアしないといけないハードルがどんどん増えていく。
 時計を見ると、もうすでに、自分の勤務時間は過ぎていた。
−–久保あけみ……。
 その女は前に窓口に来たことがあった。寝たきりの母親がいて、生活が苦しいと訴えてきた。その母親が木堂さとみだということがわかった時、相談に心を傾けて乗ることはやめた。正直、どうにでもなればいい、と思った。
 結局、生活保護ではなく、社会福祉士に相談したらしいが、それきり、来なくなったからどうしたのだろうと思っていたが、今もあけみが面倒を見ているらしいことを聞いた。あの男とは兄妹であり、さとみの子どもたちだということが繋がり、「さもありなん」と、この一家のありように心が乱された。
−–可哀想な兄妹だ。
 車を走らせながら、家々の窓からもれる灯りが見えた。
–−みんなつつましく生きている。
 一方でまたあの兄妹のことを思った。
−–必要な人たちなのだろうか? 
−–自分の人生の中では数えきれないほどの多くの人たちと出会った。なぜ彼らは私の目の前を通り過ぎたのだろう。いらない存在だ……。
 ヘッドライトの先に無数の小さな虫たちが飛んでいる。車は汚れるし、運転の邪魔になる。
−–何が目的で生まれて来て、ここで舞っている?
 美智子は少しだけアクセルを踏み込んでみた。フロントガラスに名も知らぬその小さな虫たちが叩きつけられていく。
 叩きつけられた虫たちはフロントガラスで自分の存在を示しているかのようにへばりつき、やがて、かさかさの粉になってどこかに消えてなくなる。

 家に帰るとつばきと母親のさやが深刻な顔をしてテーブルに向き合っていた。何か思い詰めた顔をして座っていた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み