第8話 朝の交差点で

文字数 932文字

 須藤は毎朝の通勤に車を使う。朝、早くに学校にいくのが好きだ。それは別に仕事に燃えているからというわけではない。ただ、朝の空気が好きなだけだ。
 車の中で考えることは大抵いつも同じだ。
 まず今日の仕事のこと。当然、授業の計画も考えるが、それは、考えるというよりは自分で確認するという感じだ。それほど深く考えずになんとかなると思っている。この年齢になって今から何か新しいやり方を考えようとは思わない。それから、授業以外の仕事のこと。校務分掌で任されている雑多なことを順々に片付けていかなければならない。
 それから頭の中に思い浮かんでくるのは、今までの自分の来し方である。こんな今の自分にも輝いていた時間があった。その頃のことを思い出すと暗い気持ちに包まれる。どこかで人生の歯車がくるったと毎朝思う。
 そして、そんな時に必ず思い出すのが、あの久保あけみと未亜の親子であった。彼らが卒業してもう3年経つのだが、未だにあの親子のことが頭から離れない。
 それは須藤のそれまでの教員としてのキャリアや経験、出会ったそれまでの子どもたちとの思い出までも否定されているような気がするからだ。
ーー自分はあんな扱いを受けなければいけない教師だったのか? と。
 人生は一度しかないのに。
 そんな当たり前のことが須藤の心を押し潰そうとする。
 市街地を抜け、朝日がさしてくる頃に田園地帯に入る。もうこのあたりは、勤務校の通学区である。
 ある時からだ。この辺りに来ると、胃の辺りが熱くなる。脇に冷えた汗が染みてくるようになった。
 次第に須藤は自分の残りの時間を感じるようになっていた。

 朝の日差しが街を起こし、人々の一日が始まる。学校に向かう子どもたちの姿を横に見ながら道を進んでいくと、見知った子どもが一人、道路脇で佇んでいるのが見えた。
ーー松井つばきだ。
 つばきは交差点の角にある石碑に向かって手を合わせていた。
ーー何してるんだ?あんなところで。
 後ろから車がついてきていたので、止まるわけにもいかず、仕方なく須藤はつばきの立っているところを横目に見て通り過ぎた。
 つばきの真剣に祈っている顔が見えた。その表情を見た須藤は「今朝あなたを見た」ということには触れない方がいいだろうと思った。
 
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