第7話 愛情

文字数 1,811文字

 あけみが市役所を訪ねたのは、以前から考えていた生活支援の相談に行くためだ。
 あけみには二人の娘がいる。上の娘は高校生、下の娘は中学生である。二人とも思春期になり、自分の主張が激しくあけみの手に負えなくなってきている。
 と言っても、随分小さい頃から、二人ともあけみの言うことなんて聞かない。それでも、なんとかやってこれたのは子どもたちがまだまだ小さく、あけみの暴力的な子育てに従わせることができていたからだ。
 年頃になってくると、あけみの言っていることを聞いている振りをしてはいるが、心からそれに従おうなんていう気持ちは全くなくなり、次第に口答えをするようになってきていた。
 あけみは頭が悪いと自分でも思っている。学校にもろくすっぽ通っていない。子どもたちが反発してくるとそれに言い返せない。
「部屋かたづけて」と長女に言っておいても、「勉強が忙しい」と言われ、「勉強なんてやってないだろ」と言っても、「おかあがうるさいからやる気なくした。明日は学校休む」と言われ、あけみもこれ以上言えなくなる。
「宿題やった?」と次女に聞けば、「やった」と答えるが、やったのをたしかめようとすると「子どもを信じないなんて最低」と言われる。
 部屋の中は娘たちの脱いだ服や、食べたスナック菓子の袋、飲みかけのペットボトルが散乱していて、あけみの気持ちと体力はそれを片づけるのに一杯いっぱいになってしまう。
 あけみの旦那は若い頃に他界した。旦那は運送会社でトラックの運転手をしていたが、仕事が終わって帰ってくるとすぐに酒を飲み出す。次の日が仕事でもお構いなしに飲んで、終いにはくだを巻いて暴れ出す。
 酒を飲み過ぎたからだと思っている。肝臓を壊して入院した頃にはすでに手遅れだった。それから、娘たちと三人で暮らしてきた。旦那が生きていれば、この娘たちも今のようにはならなかっただろうに。
 自分の言うことを聞かなくても旦那の言うことなら聞くかもしれない。そう思うと、自分はひとりぼっちだと淋しい気持になる。

「あけみ、あけみ」
 隣の部屋から、母のさとみが呼んでいる。
 さとみも若い頃に離婚して、あけみが結婚してからは、ずっと一人で暮らしていたが、五年前のある晩、酒を飲んで車を運転し、トラックにぶつかって半身麻痺になってから、あけみのアパートに転がり込んできた。酒といい、トラックといい、何か因縁めいたものを感じる。
「なんだよ、うっせえなあ」
 あけみは散乱したごみを足で蹴り通路を作りながらふすまを開ける。
「暑いんだけど」
 さとみは顔だけをあけみの方に向けて申し訳なさそうに言った。
 元気だった頃には見せたことのな態度だ。
――こんな母親どうなっても知らない。
「知らねえわ、そんなこと」
 厄介者がいるせいで、仕事もできない。今の生活は一日ほんのわずか出勤する近所のスーパーでのパートの収入と、生活保護で支給される給付金だけで生きている。最低辺な毎日だ。
――早く、死んでしまえばいい。
 口にこそ出さないが、あけみは母親にはそう思っている。あけみは母親に対して一片の愛情も感じられなかった。
 エアコンの温度を下げるボタンを押すふりだけして、リモコンをさとみの寝ているベッドの上に放り投げてふすまを閉めた。
――くそが。
 たばこに火をつけて煙を扇風機の送り出す風に向かって吐いた。

――市役所行ってこようかな。面倒だけど。

 エアコンの利いた市役所の庁内に入って市民生活課の窓口に行ったが、休憩時間になっているみたいで、受付のガラス窓には「お待ちください」の札が立ててあった。
――お役所ってもんだ。
 あけみはスマホをポケットから取り出して、ソファに腰を投げ出して座った。
――人が困っている時に休んでんじゃねえよ。 
 
 スマホのゲームアプリで時間を潰していると、ようやく窓口の職員が戻ってきて受付を始めた。
「待たせんな」
 あけみはまず言ってやりたかったことを一通りその職員に言ってみたが、職員の女は別にそんなふうに乱暴に言われても表情を変えずに、あけみに用件を話すよう促した。
「支給額を増やしてくれないとやってけないんだけど」
 さっきまでの口調はどこかへ置いてきたかのように態度を一変させてその職員に話した。胸についた名札に「生活支援課 副島美智子」とあるのを見た。
――この人、うちの店にときどき来てる客だ。
 あけみはばつが悪くなって、目を合わすことができなくなった。
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