その一

文字数 2,342文字

 その時のアイハラはいつも、口癖のようにこう言っていた。「サクマ。時間は有限なんだ、限りがあるんだぜ。やりたいことはすぐにやらねえと」と……。
「人間がどれくらい生きられるか知ってるか?人間百年時代だなんて今は言われているけど、その中でも真に人間が好きなことをできる時間は少ないんだ。特に長期間、法や社会のルールに縛られない限り自由に動ける時間ってのはさらに少なくなる。その限られに限られた希少な時にどう動くか、ここが人生のミソなんだぜ?」
 こめかみを指差しながら堂々と主張する彼の言葉を、その時の私はまともに受け止めていなかった。またいつもの演説が始まったと、ため息混じりに聞き流す。この私の反応もまた、アイハラにとってはいつものことだったことだろう。
「生きるとは一体なんなのか!俺はいつもこう思うんだサクマ。学校の延長線で社会の箱に自ら収容されに行き、金を稼ぐためだけの労働をして満身創痍で帰路に着き、自分の住処ではただただ睡眠を貪るだけ。果たしてこれが真に自分の人生を生きるということなのか?いや!俺にとっては違う!」
「それは普段から少数派である俺達と違って、ちゃんと社会に馴染んで生きている方々への冒涜なんじゃないか?」
 私はそんな彼のかっこつけた言い分に、現実を突きつけて茶化すのが好きだった。
「だから!ちゃんと「俺にとっては」って言ったろう?ちゃんと「社会に貢献する」って選択をしている人は偉いと思うよ俺は」
 むすりとしたアイハラは、本から目を離そうともしない私の真正面にどかりと座り込んだ。座布団も敷かず、豪快に。
 当時私と彼は俗に言う「サラリーマン」と言った安定した生活に身を置いていなかった。名乗る職業はあるにはあったが、名乗るにはあまりにも稼ぎが悪かった。
「生きる上で金は勿論大切だが、それ以上に大切なのは自分を見失わないことだ!身を粉にするあまり、自分の好きだったものを忘れてしまうなど言語道断!興味関心を維持してこそ自分自身が形成されるというのに、それを「忙しさ」を理由に疎かにするのは自分自身を見捨てるのと同じだ!それでたとえ億万長者になったとしても、目の前にあるのはボロボロになった自分と大量の紙切れだけよ」
「だから長期の充電期間を設けると?」
「そう!その通り!」
 アイハラはそう言うと目標を掲げるが如く、堂々と私の部屋の狭い天井を指差した。この時も私は未だに、彼の話をろくすっぽまともに聞いていなかったことだろう。ただアイハラの傍にいる分には苦痛など全くなかったし、むしろ心地良ささえ感じられたのだ。
「見ろよ」と彼は強引に私にべったりとくっつき――この時はさすがに迷惑だと思ったが――雑誌の切り抜きだろうか、ある島の特集が取り上げられたものを私に見せてきた。
「幻の穴場「六稜島」!異国とさえ感じてしまうほどの魅力を持ち合わせていると言われる一方、「帰らずの島」「呪い島」とも噂される謎の島だ。これはもう行くしかない!」
「この島って確か、名前はあるけど存在しているかどうかも怪しい島じゃなかったか?どうしていきなりこんなもの。しかも仮に存在していたとしても、かなりヤバい島だって聞いたことが」
「それを確かめに行くんだよ!俺とお前の二人で!」
「はあ?」
 目を輝かせる彼の目には希望と好奇心の色がありありと見えたが、一方で私はその暑苦しさに正気を疑った。
「存在するかも分からず、神隠しの先に連れられると恐れられている島!こんなもん行ってみろと言わんばかりのミステリーだろ?わくわくして仕方がない!」
「本気で言っているのか?まあ確かに…取り上げられる数多くの謎は気になってはいたけど」
といっても特に気になるのは、「何故この島の噂が十年以上前から存在しているにも関わらず、一切風化していないのか」だったが。
「だろだろ?それを俺とお前で突き止めるんだよ!あわよくばそれを参考に一筆書いて、作品として儲ければ万々歳だ!」
「お前結局はそこが最大の目的なんじゃないのか?」
「違う!あくまでも充電期間よ。綺麗な景色見て好きなもの食って、そして自分を見つめ直す。そのための最高の舞台じゃないか!」
「それは俗に言う「自分探し」ってやつだな」
 私は皮肉めいて言った。しかしアイハラにはちっとも堪えていなかった。さらに爛々と目を輝かせていて、その時の彼はまるで、新しいおもちゃでも見つけた子供のようだった。
「お前が言うなら「自分探し」でもなんでもいい!一緒に行こうぜサクマ!楽しそうじゃないか!歳食って動けなくなる前に、行きたいとこには行っとかねえと!」
 そう言ってアイハラは私の肩に腕を回した。弾けんばかりの笑顔だ。それに半ば私も流されかけていたのは今でも覚えている。
 しかし私は行かなかった。行けなかったのだ。
 その日はたまたま外せない別の用事があった。かなり以前から約束していたため、今更キャンセルすることも相手に悪いと感じられた。
「じゃあ先に行っとくからな、サクマ。後でちゃんと追いかけてこいよ」
 出発する前に、アイハラはわざわざ私の住むアパートにやってきた。旅行用の鞄を担ぎ、赤いランニングシューズを履きかける。彼のお気に入りの靴だった。
「すまない。一緒に行けなくて」
「先約だったんだろ?仕方がねえよ」
 彼はそう言って、こちらに笑顔を向けた。特にこのあと交わした言葉について、私はあまり覚えていない。特段覚えなければならなかったわけでもない、他愛もない会話だったはずだ。
「じゃあまたなサクマ!向こうで待ってるからな!」
 がちゃりと玄関の扉が閉まる。これが彼との一時の別れだった。……ほんの一瞬の別れになるはずだったのに。
 その後、長年の親友であるアイハラは行方不明となった。
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