その二十一

文字数 3,926文字

 私も島木もマスターも、この一言には特段驚かされた。
 扉が開いたと思えば、そこには歌姫が静かに立っていたのである。
「歌姫……」
 マスターが当惑しながらも声を掛けた。
「すみませんマスター。本来ならあなたに怒られるところですね。お客様の話を盗み聞きするなって」
 長い前髪をかき分け、歌姫がこちらへと歩いてくる。その時わずかだか私は、彼の隠れた目を垣間見ることができた。大きくはっきりとした、二重の黒い瞳だ。
「本当は昼休憩が終わってすぐに入る予定だったんですけど、つい聞き入っちゃいましたよ。ツバキさんの推理に」
「推理なんて大したものじゃないさ。僕は探偵でも刑事でもないんだから」
 ツバキは軽く肩を竦めて謙遜した。
「ツバキさん。ここからは俺も会話に参加してもいいですか」
「勿論、追い出そうとなんてしないさ。こう見えても僕は、非常に仲間想いのある人間だからね」
 人のことを貶したり、突然砂をかけてきたりとあらゆる矛盾が浮かんだが、私は優しい人間なので黙ってやった。
「それじゃあツバキさん、早速ですが俺から一つ質問があります」
「どうぞ」
「今のところあなたは、島木さんが亜矢子を殺したと考えている。そうですよね」
「ああ、その通りだよ」
 軽々しく言ってのけるなと私は戸惑った。島木の様子を見れば、彼女は今にもツバキに食ってかかりそうだった。しかし実際にそうしないのは、尊敬する歌姫が目の前にいるからだろう。
「彼女が実際に使ったであろう凶器のことや、カモフラージュにリボンテープが使われたことは俺でも分かりました。けどですね」
 一息ついて、再び歌姫が口を開く。
「亜矢子が俺の歌っている最中に殺されたことに、俺は納得がいきません。真っ暗だったからという理由で、そんなに簡単に人殺しを実行できるだなんて俺には思えない」
「ふむ、それについてはだね」
 ツバキは自らの顎に手を当てながら言った。
「それは犯人の動機、つまり精神的な意味合いが多分に含まれるから、僕の意見はあくまでも想像で補うしかないのだけれど。……犯人は被害者を殺すだけでは飽き足らず、不幸のどん底に突き落としてやりたかったんじゃないかな」
「不幸のどん底に?」
「そう。成宮ちゃんにとって、君はかけがえのない人だった。そんな君が大好きな歌を歌って、沢山の客を喜ばせている。その様子は彼女にとっても喜ばしいことだったと思う」
「確かにその通りでございますツバキ様。成宮さんはいつも、歌姫のいない時に私に仰っておりました。「人の幸せを、こんなにも心から嬉しいと思える日が来るなんて」と」
 二人は本当に相思相愛の関係だったようだ。
「そんな幸福のさなかにいる被害者を見るだけでも、犯人は許せなかった。より高い場所から物を落とせば、突き落とされた物は崩れて形を保てなくなる。これは人でも同様さ。より深い絶望を味わせるために、犯人は君の歌っている時を狙って彼女を殺した」
「それなら尚のことおかしい!」
 ツバキの考えに、意外にも歌姫は異を唱えた。
 しかしツバキはこれに激したりせず、静かに言葉を発した。
「聞くよ歌姫。事件を紐解くにあたって、君の納得が得られなければ何の意味もないからね」
 真剣な表情で、ツバキは歌姫と相対した。
「教えてくださいツバキさん。……亜矢子は俺の歌っている最中に殺された。それなら何故彼女は悲鳴の一つも上げなかったんです?突然誰かに首を締められたとしても、うめき声の一つぐらいは出せたはずだ。そうしたら少なくとも俺は……彼女の異変に早く気付けたはずなんだ」
 顔をしかめ、歌姫は悔しさを滲ませた。それを見て「ああ」と私は嘆く。
 歌姫が事件のことを今でも引き摺っている理由。それは被害者が恋人であるのもそうだが、それ以上に彼は自分を責めているのだ。
 もがき苦しんで死んだ彼女を、少しも救えなかった自分を。
「……それはね、歌姫」
 長い時間を置いたあと、ツバキは歌姫の前髪を、正確には目があろう位置を見て言った。
「これもまた僕の想像だ。死んだ人間に真相を尋ねることはできないからね。…けれど敢えて言うよ歌姫。きっと成宮ちゃんは、君の邪魔をしたくなかったんだよ」
「俺の…邪魔を?」
 歌姫が唖然とする一方、ツバキは悲しげな表情のまま続けて言った。
「成宮ちゃんは優しい心を持っていた。君もそこに惹かれたんだと思うが、彼女は優しすぎたんだよ。首を締められている中、声を上げて助けを求めることで、君の公演を台無しにしたくなかったんだ。それ以外に僕には理由が付けられない」
「そんなこと、どうして……。有り得ない、亜矢子がそんな……。黙って殺されるのを、彼女が受け入れるだなんて!」
「自分の命を守ることより、君への愛が勝ったのさ。君は否定するのか?彼女からの愛を」
「そんなことはしない、できるはずがない!俺がそんなことで喜ぶと思ったのか?亜矢子があんな死に方をしたのに、俺が……!」
「分かっていただろうさ。きっと君は傷つく。そして事実を知れば、今のように怒りと悲しみで溢れることも」
「だったらどうして!」
「せめて幸せな貴方を見て死にたい」
 ツバキはそれが被害者の意思であるかのように言った。
「私のせいで悲しみに沈む貴方の顔を、涙を流す貴方の顔を、見たくなかった」
 低く、落ち着いた男の声であるはずなのに、出会ったこともない女性の姿が私の目の前に浮かんだ。
「そう思ったんじゃないかな。彼女は」
「……」
 歌姫は何も言わない。
 しかしすぐに彼は泣き声を上げてその場に崩れ落ちた。「亜矢子、亜矢子」と口にする姿は、愛する人との永遠の離別を心から悲しんでおり、私はそんな彼を、まともに見ることができなかった。


 歌姫はしばらくその場でむせび泣いた。マスターはそんな彼にすぐさま近付き、黙ってハンカチを渡してその身体を支えてやっている。
「いかがです。自分の勝手な恨みつらみで、大好きな彼が傷つく様を見るのは」
 ツバキは歌姫に聞こえないように、しかし鋭く島木に言った。
「これが被害者とあなたの愛の違いですよ。島木さん」
「なっ……何よ!まだ私がやったと言うわけ?所詮は全てあなたの推測じゃない!鞄の紐だって、私に限定されることじゃないでしょう?誰だって似たような物は持っているわよ!」
「しつこいな。ではあなたは何故、事件当時は鞄を肩に提げて来たと言わなかったんです。凶器がリボンテープだと誤って断定されていたのなら、隠す必要なんてないでしょう?」
「そ、それは……」
 島木は途端に口を濁した。
「加えてあなたはリボンテープを持ち帰ったことがある。本当に凶器として使えば色落ちすることも知っていましたよね?しかしあなたはそのことを情報提供しなかった。もしも自分が他の証拠で犯人として疑われた時、万が一の言い逃れとして大事に取っておきたかったからではないですか」
「な……!」
「そしてあなたはカモフラージュに七本のリボンテープを用意した。自宅から持ち込んだものと店内のもの。わざわざ二種類のリボンテープを用意したのは、捜査する側にリボンテープの印象を強く残すためだ」
「違う……!私はそんなことしていない!!」
 首を大きく振って否定する島木に、ツバキはさらに畳みかけた。
「それにですね、僕は他にも知っているんですよ。あなたが犯人である証拠を」
 怒りで狂い出す寸前の彼女に対して、ツバキは非常に冷ややかだった。島木とは種類の異なる怒りを、彼は今心の内に秘めているのかもしれない。
「あなたは決して自分が被害者を殺したというボロを出そうとしない。一方で、自分が歌姫を愛していることは充分に僕達に示してくれましたね」
 島木は次に何を言われるのかと身構えた。
「サイン付きのリボンテープに、歌姫との写真の数々。どれもあなたにとって素晴らしい宝物なんでしょう。それは一種の自己顕示欲なのか、それとも優越感なのか」
「何よ!言いたいことがあるならさっさと言いなさいよこのペテン師!どうせあなたは嘘つきよ!この店に雇われて、私に濡れ衣を着せるためにわざわざこの島にやって来たんだわ?!ええ、きっとそうよ!」
 島木は恐怖からか、ついには支離滅裂なことを言い出した。そんな彼女に対して、遂にツバキはとどめを刺す。
「僕はただの演出家ですよ。ただそれ故に人の仕草や言動、そして見た目にはうるさくてね。……あなたが薬指にしているその指輪、一体どこで手に入れたのですか?」
「ひっ!?」
 島木はすぐさま自らの左手を押さえて立ち上がり、そして後ずさった。しかしツバキは後を追いかけるようにじりじりと、肥えた女に近づいていく。
「見たところ、ヤスリで削ったように見受けられますね。安い金メッキなら、割と簡単に色を変えることができたんじゃないですか?」
 ツバキは強引に相手の腕を掴み、そして顔を近付けた。
「だが二人の愛はあなたには変えられない。その指輪を一度外してみてはくれませんか。たとえメッキが剥がれても、彫られた互いのイニシャルぐらいは残っているはずでしょう」
「やめて……!触らないで!気色の悪い!」
「それは図星ということですか?それならそんなリスクを犯してまで、あなたが何をしたかったのかも当ててみせよう。あなたは歌姫からの愛を求めた、だから奪ったんだ。被害者の命も、具現化された愛の形である指輪も!」
 ツバキが強く迫ると、遂に島木は悲鳴を上げて尻もちをついた。そして化け物でも見るような目で震えながら、痩身の青年を見上げている。
 しかし当の本人は顔を上げると、相変わらずの微笑みを顔に浮かべたままだった。
「さてマスター、こんなところでいかがかな。僕なりに努力はしたけど、満足してくれたかい?」
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