その十九

文字数 3,655文字

「ああ良かった。まだいらしてたんですね」
 ツバキが安堵して言った先には島木がいた。カウンターに座って、サンドイッチを頬張っているところである。
「当然でしょう?食事中に席を立つだなんて品がないですから」
 私たちが食べたものよりかなり分厚い。これもまた、マスターの特製なのだろう。当のマスターはカウンターで食器類の片付けをしていた。まだキッチンには綺麗に研がれたナイフが置いてある。だが歌姫がいない。
「マスター、歌姫は?」
 私が尋ねるとマスターは笑顔で答えた。
「お昼休憩を取っています。おそらく、スタッフルームにいると思いますよ」
「そうか、それは好都合」
 ツバキは指をぱちんと鳴らした。まるでスタートの合図のようだ。そして彼はマスターに、はっきりと断言した。
「マスター、朗報だよ。一年前の事件の犯人が分かった」
 ツバキの唐突な発言に、マスターは目をぱちくりさせた。長い間解けなかった謎が、久々に店に訪れた客によって数時間も経たずに解決したというのだ。理解に時間が掛かるのも頷ける。
「ツバキさん、突然何を仰るんですか?」
 代わりに島木が尋ねた。
「先程私から当時のことを聞いたばかりでしょう?そんなに簡単に物事を決め付けるのは感心しません。殺人事件だということをちゃんと分かってます?」
「ええ勿論、分かっています。誰が成宮ちゃんを殺したのかも」
 ツバキが変わらず堂々と言った一方で、私はまだ半信半疑でいた。今回の事件で歌姫に責任がないことを訴えかけるつもりが、まさか犯人の追求まで試みるとは。もっとも、ある程度の仮説を立てているツバキを凄いとは思う。しかし果たして彼は本当に事件の真実にたどり着いたのだろうか。
 ツバキは探偵でも刑事でもない。元々死体だったことを除けば、ただの一般人なのである。
「単刀直入に申し上げましょう。一年前の事件の鍵となるのは、凶器と判断されたリボンテープです」
 丁寧な口調でツバキは言った。
「被害者の成宮亜矢子さんは首を締められて殺された。彼女の首には紐のようなもので締めた跡が残っており、装飾に使われたリボンテープとほぼ同じ幅だった。……ここまでは確かだよね、マスター?」
「ええ、左様でございます」
「そう。だから当時マスター達が独自に捜査した結果、凶器はリボンテープだと断定された。しかし犯人を特定することができずに迷宮入りに終わった。それは捜査が最初から、間違った方向に進んでいたからだよ。凶器はリボンテープではなかったのさ」
「なんと」とマスターは驚きの声を上げた。リボンテープが凶器ではない?
「それなら七本のリボンテープは……」
「単純だよサクマ、ただのカモフラージュさ」
「どうしてそのように判断できるのです。お教えくださいツバキ様」
 私に続いて、マスターが食いつくようにツバキに尋ねた。
「そうだね。じゃあ具体例で示そうか。マスター、余っているリボンテープを一本僕にくれないかい」
 言われた通りにマスターは一度スタッフルームに戻り、そしてツバキにリボンテープを一本渡した。
「さて、それじゃあ説明しようか」
 と、ツバキはリボンテープを早速使うのかと思いきや、首元に巻いていた黒のストールを外して両手に持ち始めた。
「絞殺をする手段にもいろいろなものがある。それは今回のようにひも状の物を使うこともあるし、あるいは自らの握力を使うこともある」
「ツバキ様……その大きな首の傷はいったいどうしたのです。初めて目にしましたが」
 マスターの発言で、ツバキははっと気付いた表情を見せた。これまで縫合の跡を隠していたことを、すっかり忘れていたのだろう。
 しかし彼はさして動揺もせずに言った。
「まあ、僕もいろいろと面倒事に巻き込まれてね。今は見逃してくれないかい」
「は、はあ……」
 マスターは曖昧な返事をした。首の周りを一周する程の大きな傷を見る機会なんて滅多にないから、戸惑って当然だろう。
 こほんと咳払いをしてツバキは説明を始めた。
「例えばこのストールを凶器に使うとする。サクマ、少し手伝ってくれ」
「試しに俺の首を絞めたいとか言うんじゃないだろうな」
「いいから手伝えよ。それともお望み通りに締めてやろうか」
「おっかないことを言うな!」
 悪態をつきながら、私はツバキに言われて自分の右手を出した。まるで探偵の助手になった気分だ。
「彼の腕を被害者の首に見立てて考えてくれ」と先にツバキは忠告した。そして彼は自らのストールを私の手首に巻き付け、そしてその両端を掴んで言った。
「ひとえに凶器と言っても、手段によっては独自の跡が残ることがある。例えばこのストールは夏物で柔らかいから、少し引っ張るだけでもこのように伸びて細くなる。これだと、実際の物と絞殺跡に幅の違いが出るのは分かってもらえるよね」
 そう言いながらツバキは緩くストールを締めた。確かに彼の言った通り黒のストールは縦に伸び、より密集した繊維の束となって私の手首を締め付ける。
 カウンターにいるマスターも、うんうんと頷きながらその様子を見ていた。そしてツバキはストールを首に巻き直すと、次にリボンテープを手に取った。
「ただしリボンテープは違う。先程のストールと異なって、布ではないからね。伸びて幅が狭くなることは有り得ない。ただ、別の特徴が残るのさ」
 すると突然、ツバキはあらん限りの力で私の手首を締め始めた。思わず私は痛みと驚きで声をを上げる。
「そんな素っ頓狂な声を上げるなよ。あと少しだから」
「あと少しってお前、本気で締めるなら先に合図してからにしろよ!」
「犯行に及ぶ時に、被害者にわざわざ声を掛けないだろ。君は被害者が「はいどうぞ、私を殺してください」なんて言うと思うのか」
 それは絶対にない。しかしだからと言って、合図するしないという些細な点にリアリティを求める意味はあるのか。
 数秒間そのままの状態にされたあと、ツバキはようやく私の腕からリボンテープを外した。
「……ほら。マスターも見えるかい?」
 全てから解放された手首を見て、私は「あ」と思わず声を漏らした。
 リボンテープの色が落ちている。先程店の外で自分の手のひらを見た時と同様、私の右手首には橙色の斑模様がところどころにできていた。
 店の主人も、このことには初めて気付いたようだった。
「ツバキ様、これは……」
「このリボンテープはね、長時間何かに触れているか、力強く押さえつけられるかすると色が落ちてしまうものなんだ」
「しかしこれまで私は一度も気付きませんでした。壁面にそのような色の落ちた跡は、これまで見たことがありません」
「恐らく、触れるものの温度が関係していると思うよ。そしてそれは、被害者の首を締めるケースにも当てはまる。つまりこのリボンテープが凶器であると断定するには、被害者の首に色の落ちた跡がなければおかしいのさ。金木犀の花に似た、この橙色のね」
 当時そのような跡がなかったかとツバキはマスターに尋ねた。これに対して彼は首を左右に振った。被害者の首にそのような跡は残っていなかったのだ。
「ところでツバキ、カモフラージュで皺を付ける分には色落ちしないのか?」
「それは問題なかったみたいだね。君が長時間握っていた部分以外に、色落ちは見られなかった。ま、簡単に色が落ちればそれはただの劣悪品だろう。最低限の商品としての保証はされているわけだ」
 それならカモフラージュを作って捜査を撹乱するのは可能だろう。
「これでまず、凶器がリボンテープでないことが分かった。そうなると一つの疑問が浮かび上がる。「果たして本当の凶器はなんだったのか?」」
 ツバキは人差し指を立てて考えを述べた。
「僕が思うに犯人は、先程のようにリボンテープが色落ちすることを知っていた。だから凶器として使わなかったんだ。被害者の首の跡と照合することが可能だし、凶器と分かったリボンテープについた指紋で、自分が犯人だとばれてしまう」
「さすがにそれは手袋とかで事前に防いでいるんじゃないのか?強く握りしめて首を締めるなら、首だけじゃなく自分の手にだって色が付く」
「そうだね。それこそ犯人が最も恐れなければならないことさ」
 ツバキは大いに頷いてくれた。私の意見に素直に賛同してくれたのは、今のが初めてかもしれない。
「どちらにせよ犯人は、被害者の首に不必要な跡が残ることを避けたはずだ。常連客限定という特別な日、しかも歌姫の公演中という極めて限られた状況の中、容疑者として疑われる人間は多ければ多いほど良いからね」
「だからリボンテープを、あくまでも凶器のカモフラージュとして利用するだけに留めた」
「その通り。けれど、絞殺跡の幅がリボンテープとほぼ一致していたのは紛れもない事実だ。犯人はリボンテープと似た幅の物で被害者を殺害した」
そこまで言い切ると、ツバキはカウンターに置かれた水をぐいっと飲み干した。いつの間にかマスターが私と彼の二人分を用意していてくれたらしい。
ツバキほど喋ってはいないが、私も有難くいただくことにした。
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