その二十六

文字数 1,780文字

 そしてその日の夜。喫茶サリアは本日の営業を、早めに終えることにした。
 本来なら夜はバーとしての経営があるため、日をまたぐ直前まで開店しているらしい。ただ今日はあまりに大変な出来事があったため、早めに切り上げることにしたのだ。
 しかし店内はもぬけの殻というわけではなかった。扉の外には「close」の札を掛けてはいるが、一種の貸切状態となっていた。客は、私とツバキの二人だけ。
 振る舞われた盛り合わせに舌鼓を打っていると、不意に店の照明が落とされる。そしてしばらくすると、ステージとカウンターの明かりが灯った。
 ステージに立つ歌姫は、昼に見た姿と雰囲気が全く異なっていた。
 鬱陶しいぐらいの長い前髪を耳に掛け、大きな瞳で真っ直ぐに私達を見つめていた。愛らしい印象を与えながらも、真っ直ぐな二重には凛とした輝きがあり、陰鬱な第一印象を塗り替えてしまう程の魅力である。
 黒の衣装に身を包み、歌姫は恭しくお辞儀をした。その姿はしなやか且つ堂々としていて、そんな彼はまさしく「歌姫」そのものであった。

「二人にお礼というより、新たな頼み事なんですが……一曲だけ歌わせてはくれませんか。といってもブランクがあるので、短い曲になるんですけど……」
 ツバキがマスターの依頼どころか事件まで解決し、彼と私が今度こそ店を出ようとしたところで、歌姫に引き止められた。
「ここまで助けていただいた手前、どうしてもお返しがしたくて……」
「別に構わないさ歌姫、僕だって元々は乗り気じゃなかったんだ。それをこのミイラ男が」
「誰がミイラ男だ、右手だけだろ!それにマスターにちゃんと手当し直してもらった」
「すいませんサクマさん……。俺、歌以外は本当に不器用で」
 沈んだ様子で歌姫が謝った。決して歌姫のことを悪く言うわけではないのだが、島木が店から出ていく前から、私の右手は既に雪玉のように真ん丸と包帯で膨らんでいた。いくらなんでも巻きすぎである。
「けれど、手当してくれたのは本当に助かったよ。マスターも歌姫も、本当にありがとうございます」
「いえいえ、これぐらい何ともありませんよ」
 歌姫のすぐ後ろにいたマスターが目を細めて笑う。やはりこの温厚な主人には、悲しみに沈むよりも幸せそうな表情のほうが似合っていた。
「話は戻しますが、歌姫の意見に私も賛同致します。どうか私からも何かお礼をさせて頂きたい。店にあるもので何か、料理を振る舞わせてはいただけませんか」
 二人の強い要求に私達は顔を合わせ、そして快諾した。丁度腹も減っていたし、ツバキが散々勧めていた歌姫の歌がどんなに素晴らしいのか、この耳で確かめたかったのだ。
「そう言えばさっきの話で思い出した!聞いてくれよマスター」
 歌姫が準備をしている間、カウンターに座ったツバキは席から乗り出すようにしてマスターに話しかけた。急遽歌姫の歌が聴けることとなり、かなりの上機嫌だ。
「サクマは小説家希望らしいんだけどね。昼にマスターの頼みを聞く前に、僕とサクマで口論していただろ。そこでなんと言ったと思う?」
「待てツバキ、お前何を言い出すつもりだ」
 嫌な予感がして、私は思わず烏龍茶を飲む手を置いた。
「歌姫の両手の絆創膏、あれが自傷の跡だなんて言い出したんだ!驚いたと共に笑いを堪えるのに必死だったよ。なんて飛躍した想像力だとね」
「それは本当か!?」と私は勢いよくツバキに尋ねた。事実は違うというのか。
「おや、まだ気付いてなかったのか。意固地でお堅い頭脳だね」
「だってお前、二年前から歌姫の癖はああだったって言ってたじゃないか!」
「自傷癖だとは一言も言ってないぜ?シフトに入る度に、店の皿は必ず割る。注文したものとは違う品物を客に出す。蹴つまずいた弾みで店のレジを壊す上に、飲み物ですらいつの間にか、暗黒物質に変えてしまう。彼は根っからの不器用なのさ」
 自慢するように語るツバキに私は悔しがった。またしてもこの男に騙された。
「左様でしたか。しかしそのようなサクマ様の心配なくして、今回の事件は解決にならなかったわけですから」
「そうだね、誇りなよ。君の巧みな想像力がこの店を救ったんだ」
 マスターは本心から言っているが、隣に座る男の言葉は完全に皮肉である。「馬鹿にするなよ」とツバキを小突いたところで、ステージに立った歌姫の準備が整い、他愛もない話題は収束した。
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