その十一

文字数 2,707文字

「おいツバキ、今の指摘はタイミングが悪かったんじゃないのか」
 私はすぐさまツバキを責めた。当の本人も罪悪感を抱いたのか、反論する気はないらしい。
「どうやらそうみたいだ。……すまないマスター、僕の余計な一言で」
「いえいえ、お気になさることはありません。彼女がいなくなってから、歌姫は多少不安定でして」
「そりゃそうさ。見るからにお似合いだったからね、二人は」
 ため息混じりにツバキが言う。既に彼の目の前にあるストレートティーは空に近付いていた。私のコーヒーもそうだ。この静まってしまった空気を覆す話題など思いつくはずもなく、ひたすら時の経過を耐えるためだけに飲んでいた。そろそろお暇すべきだろう。
 ツバキもそれを感じてか、スラックスのポケットから財布を出す準備をしていた。
「お会計を頼むよマスター。やはりここのサンドイッチは格別だ。また明日にでも、一人で訪れさせてもらうよ」
「……はい、本日は申し訳ございませんでした」
「謝ることはないさ。人の心に寄り添ったサービスが続いていて安心したよ。君もどうだったサクマ?僕おすすめのこの店は」
 振り返り、私を見つめてツバキが尋ねた。
「ああ。落ち着きのある店だったし、サンドイッチもとても美味しかったよ。……ありがとうございました」
 これは紛れもない私の本心だった。どうにか客足が復活してほしいものなのだが。
「……ありがとうございます」
 先程からマスターはずっと沈んだ調子だった。気落ちしており、カウンターでの立ち姿は入店した時よりもさらに寂しさがある。
「じゃあ行こうか。サクマ」
 互いの会計を済ませ、私達は喫茶サリアを出ていこうとする。しかしツバキの後に続いて私が扉を抜けようとしたところで、突然腕を掴まれた。マスターだ。縋るように私の腕を掴む手が、幾分か震えている。
「マスター?……どうかされましたか」
 不思議に思い尋ねる私に、マスターは覚悟を決めたように呟いた。
「私は…まだ諦められないのです。今の歌姫をクビにして、代わりの人間を雇って店の経営を上向かせることなど、毛頭考えてはいないのです。歌えないままでも構わない。しかし、なんとか彼の傷付いた心を救いたいのです。せめて、せめて彼女が生きていたあの頃のように……」
「それは無理だよマスター。他人がどうこうできる問題じゃない。長い時間が解決してくれるまで、待つしかないさ」
 立ち止まった私の異変に気付いたからだろう。すでに外に出ていたツバキが戻り、はっきりと断言した。マスターの心情を察するに、言い過ぎではないかと私は思ったが口にはしなかった。関係の無い人間が出る幕ではない気がしたからだ。
 しかしマスターは諦めなかった。
「一年前のあの事件の犯人は結局分からずじまい……。歌姫は代わりに自分を責めました。どうして彼女の異変に気付いてやれなかったのか、彼女が殺されるという大変な時に自分は軽薄にも歌なんか歌っていたのかと……。お願いしますツバキ様、一年前の事件を解決してくれとは申しません。せめて、歌姫が納得するだけの説明をしてやってもらえませんでしょうか」
 マスターは私の腕を離すと、深々と頭を下げた。
「先程歌姫の指輪を見て、二人が恋人関係であったことを見抜きましたでしょう。あれを見て思い出したのです。ツバキ様が鋭い観察眼と雄弁さをお持ちだったということを。どうかお願い致します。歌姫を説得してやってくれませんか、「自分を追い込むことは何一つない」と……。何か見返りが必要なのでしたら、私からできる限りのことはさせていただきます。どうか歌姫を助けてやってください」
 あまりの切実な願いに、私は立ち尽くすことしかできなかった。マスターは心からスタッフのことを想っているのだ。振り向けばツバキは眉をひそめて黙り込んでいる。どうすべきか考えあぐねているのだろう。
 私はマスターに尋ねた。
「すみませんマスター。私からお尋ねしたいことがあるのですが」
「はい、いかがされましたか」
「その……一年前の事件は未解決に終わったとおっしゃいましたね。警察の方でも、調べることができなかったということですか?」
「それは違うんだサクマ」
 代わりにツバキが説明する。まだ顔をしかめたままだ。
「確かに本土ではこういう時、必ず警察が出てくるような場面だけれどね。違うんだ。この六稜島に、警察は存在しない」
「なんだって……?」
 私は耳を疑った。警察が存在しないだと?
「そう、この島には警察や消防といった公共の集団は存在しない。島民全員が何者にもなりうるのさ。被害者にも犯人にも、そして探偵にも」
「そんな……じゃあ、自分たちで解決しない限り、犯人は捕まらないというのか?」
「ああそうさ。善意で手伝ってくれる人はいるけどね、正真正銘のプロでは決してない。まして犯人を追い詰める証拠として、ただの言いがかりだけではダメだ。それなりの根拠と動機がいる」
 なんということだ。そんな無茶苦茶なことがあってたまるかと私は感じた。この現代、それも先進国の日本でこんな無法地帯がまだ存在しているのか?
「……マスター、酷なことを言うかもしれないけれど。君の願いを叶えることはできない」
ツバキはマスターの正面に立つと改めて断言した。
「ツバキ様……」
「別に君のことが嫌いだからというわけでは決してないんだよマスター。僕はこの喫茶サリアがお気に入りさ。君や、歌姫たちスタッフも含めてね。けれどほぼ不可能なんだ。未解決事件を、それも一年前の事件を解決しろだなんてね。まして僕はその時ここにいなかった。そんな僕からどれだけ説明をしたって、歌姫は納得してくれないさ。良き理解者である君でさえ、いくら頑張っても無理だったんだろう?」
「それは……」とマスターは目を伏せた。どうやら長い付き合いのあるマスターでも、傷心の歌姫を癒すことはできなかったようだ。
 ツバキは落ち込むマスターをなんとか励まそうとした。
「大丈夫だよマスター。さっきも言ったけれど、こうした精神的な問題は時間が解決してくれるさ。長くかかるかもしれないけれど、確実にね」
「……はい」
「歌姫を信じなよ。今は膝をついていても、彼は再び必ず立ち上がる。かつてはステージに立つほどの度胸があったんだから」
 ツバキはマスターの肩を叩いて彼を鼓舞した。きっと、彼なら問題ないと。
「また様子を見に来るよ。他に力になれることがあれば手伝うから」
「……ええ。ご無理を言って申し訳ございません」
 マスターはそう言って一、二歩下がると再び私達に頭を下げた。今度こそ私達は喫茶店サリアを後にする。
 しかし私の心には、漠然とした思いがまだ残っていた。
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