その九

文字数 3,012文字

 ツバキが案内したのは、余程彼のお気に入りの場所だったのか。到着するまで彼はずっと、その喫茶店について喋り通した。「島について案内してくれ」と私が言ったのは確かだが、一つの場所に対して必要な情報にも限度というものがあるだろう。ツバキの話は留まることを知らず、私は相槌も打たずに途中でげんなりとしてしまった。
 以下はツバキが話した内容の、あくまでも一部である。
「今から行く店は、お昼は喫茶店、夜はバーとして経営しているんだけどね。食べ物は美味しいし、飲み物もかなりの種類があるんだ。おまけにここのマスターはとても優しくてね、途方に暮れて夜中にいきなりやってきた時も悪い顔一つしなかった。店内は落ち着きがあって素朴な雰囲気なんだけどね、醍醐味が味わえるのは特に夜さ。小さなステージに出てくる歌手の歌声が、すこぶる美しいんだよ。その人は客やマスターから「歌姫」と呼ばれているんだ。ステージに立つ時の振る舞いや所作が細やか且つ丁寧でありながら、堂々とした気品も感じられてね。アーティストとしての魅力があって惚れ惚れとしてしまうよ。ああいう人間は今では貴重な存在だ。もっとも僕は一度死んでいるわけだから、「二年前は貴重な存在だった」と言った方が適切だけれど……」
 この男が極めてお喋りの得意な奴であることは、この時に痛いほど知らされた。上機嫌になるとおどけた冗談まで言ってのけるらしい。さっきまでの様子とは大違いだった。
 しかしそんな彼の上機嫌も、店に近付くにつれ曇り始めた。というのも店の外観が明らかに廃れていたからだ。決して築年数が古い訳では無い。ただ人の流れがあまり行き交っていない様子が、私の目から見ても分かるのだ。
 建物自体は上等であるはずなのに、規律よく積まれたレンガの色がくすんでいる。おまけに看板の「サリア」の「サ」の文字は斜めに傾いていた。
「ツバキ、本当にここで合っているのか?君が喋りすぎた弾みで、曲がる道を間違えたってことはないのか」
 私は彼をフォローするつもりで言ったが、ツバキはそんな私の優しさをあっさりと否定した。
「そんなことはない。この建物で間違いないさ。……しかし、二年でここまで外観が変わるものなのか」
 私はツバキの発言に同意した。落ち着きが似合うというよりは、今は寂しさや侘しさの方が似合ってしまっている。
「しかし見なよサクマ、店自体は開いてるぜ。とりあえず、中に入ってみようじゃないか」
 ツバキは扉を指さした。確かに木製のドアには「open」の掛札が掛かっていた。「ああ、そうだな」と私は答えた。正直腹さえ満たせればどこでも良かったが、ツバキはここまで提案した手前、今更訂正しにくいのだろう。恐る恐る私たちはドアを開けた。
 カランカランとドアに付けられた鈴が鳴る。店内は全体的に薄暗かった。天井に所々に吊るされたランタン型の灯りは点々とあるが、今は外の自然光のみを頼りにしているからだろう。木製の丸テーブルと椅子が数脚配置されているが、今は私達の他に客はいなかった。
 入って右側にカウンターがあり、そこで一人寂しく初老の男がグラスを磨いている。恐らくここのマスターだろう。マスターはツバキが話しかけるまで、私達客の存在に気づかなかった。
「やあマスター、久しぶり。僕のことは覚えているかな?」
「……ああ!貴方様は。確か劇団の……」
「元気にしていたかい?ところで早速なんだけど、僕達はお腹がすいていてね。マスター特製の、サンドイッチを作ってくれないかな」
「かしこまりました」
 そう言うとマスターは背を向けて準備を始めた。その間に私達はカウンターの真ん中辺りに腰掛ける。
「それにしてもお久しぶりでございますね。お隣の方は仕事関係の方か何かですかな」
「いいや、今日一日限りの付き添いだよ。マスターが気にすることはない」
 作業をしながら話しかけてくれるマスターに、ツバキははっきりとそう言った。それを受けて私は一人の人間として、礼儀をわきまえた挨拶をした。
「佐久間と申します。つい先程、この六稜島に来たばかりでして」
「左様ですか。それはそれは、ようこそお越しくださいました。この島の方々は皆お優しい方ばかりですし、景色も綺麗でございますから、ごゆっくりお寛ぎください」
「あ、はい。ありがとうございます」
 マスターは目を細めてにこやかに応対してくれた。温厚で穏やかな印象だ。
「ところでマスター。久しぶりに来てこんなことを言うのも失礼だけれど、今日はやけにお客さんが少ないね」
「失礼だなんてとんでもない。今日だけの話ではありませんよ。一年前からですかなあ、客足が遠のいてしまったのは」
「そうなのか。……そういえば「歌姫」を見かけないね。今日は夜だけの勤務かい?」
「いいえ、そろそろ来ると思います。しかし「歌姫」としてではなく、あくまでこの店のスタッフとして」
「スタッフとして?珍しいね」
「……実を申しますと、「歌姫」は歌うことを辞めたのですよ。一年前に」
 マスターはどこか寂しそうに言った。一年前。客足が遠のき始めた時期と同じようだ。
「なるほど、それが原因で」
「いえいえ、決して彼のせいではありません。私もそろそろ歳ですから、サービスの質が落ちたのでしょう」
 マスターは手を振り、慌てて訂正した。人のせいではないと本心から思っている様子に、私は「優しい人だな」と感じた。一方でふと首を傾げる。
 今、歌姫のことを「彼」と呼ばなかったか?
「それに、彼が歌わなくなったのは仕方のないことなのです。とても「もう一度歌ってみないか」とは言えない」
「それには何か事情があると?」
 私は割り込む形でマスターに尋ねた。
「ええ、まあ……。とにかく、それは後にしましょう。過ぎた話でもありますから。暗い雰囲気にしてしまい申し訳ございません。私ももう歳ですかな。……こちら、サンドイッチでございます」
 取り繕う形でマスターは目の前にサンドイッチを二皿並べた。たまごサンドが一つと、ミックスサンドが一つ。両方とも美味しそうだ。
「そういえば飲み物がまだでしたな。佐久間様とおっしゃいましたね。如何致しましょう」
「では、アイスコーヒーで。シロップはなくて結構です」
「ふうん。ブラックがお好みかい」
「ああ。ツバキはどうするんだ?」
「そうだね」と一呼吸置いて、ツバキは口を開いた。しかしすかさず、
「ツバキ様はストレートティーですかな。確か「自宅でよくレモンティーを嗜むから、最初の一杯はあっさりとしたものが飲みたい」と、以前仰っていた記憶がございます」
 と、マスターはさも自然に答えてみせた。これにはツバキも驚いたようだ。
「よく覚えていたね!ここに来ることができた回数にして、僕は生憎常連客ではないと思うのだけれど」
「とんでもございません。常連であろうとなかろうと、お客様の好みは全て把握しておりますよ」
「流石だね。何度もここに通いたくなるわけだ」
 ツバキはマスターを褒めたたえた。すると、そんな私達の斜め後方で鈴の音が鳴り響く。誰かが中に入ってきたようだ。私とツバキは振り返った。
 扉を背に男が一人。挨拶もせずに私達の後ろを通り過ぎ、奥のスタッフルームへと消えていく。
「佐久間様は初めて目にすることでしょう。もっとも、ツバキ様も多少は驚かれたのではないですか」マスターは男を見送りながら、躊躇いがちに目をふせた。
「彼が、当店の「歌姫」です」
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