その二十

文字数 4,610文字

「ところで島木さん。僕はあなたに一つ、確認したいことがあるのですが」
 ツバキは礼を言ってコップをカウンターに返すと、島木に向き直って言った。先程から島木は、私だけでなく彼からもそっぽを向いていた。ただ無心にサンドイッチを頬張っていただけなのか、それともツバキから何かを指摘されるのを恐れているのか。
 島木は声を掛けられてようやく、椅子を回して彼と相対した。
「いったい何ですか?」
「おや、答えてくださるんですか」
「ええ、それが歌姫のためになるなら」
「お優しいのですね。先程まであなたには無視されていたから、すっかり嫌われてしまったのだと思っていましたよ」
「あら、あれは私にも説明してくれていたのですか?すっかり内輪だけの話なのかと」
「いいえ、あなたを仲間外れにするわけがありません。この事件の極めて重要な人物なのですから」
 灰色の瞳が、茶髪で大柄な女を捉えた。
「……どういうつもりです?場合によっては名誉毀損にあたりますよ」
「ええ、そうならないよう願うばかりです」
 さして思ってもなさそうなトーンでツバキは言った。二人の間にいるマスターはどうしていいか分からず、黙ることしかできない様子である。
「先にお伺いします、島木さん。あなたは昨年の事件に使われた本当の凶器をご存知ありませんか。僕の推測によると、リボンテープとほぼ同じ幅ということですが」
 リボンテープの幅は、ちょうど私の親指の第一関節あたりか。これに対して島木は首を振った。
「知るわけがありません。どうしてそうお思いになったんでしょう。それぐらいの幅の物ならいくらでもあるじゃないですか」
「本当に思い当たらないんですね?」
「言いたいことがあるならはっきり仰ってください!しつこいですよ」
 突然島木は苛立ち始めた。少しでも疑いの目を向けられたからだろう。
 ツバキは大袈裟なため息をつくと、話を進めた。
「それではご婦人のご要望に応えて、簡単にご説明しましょう。島木さん、あなたは車椅子の男性について話してくださいましたよね?歌姫の公演に行けないと悲しんでいた彼を、あなたは助けたと」
「ええそうです。それが何か?」
「その時の状況を、もう一度僕に教えていただけませんか」
「事件当時ではなく?……私が車椅子の男と偶然出会ったことが、そんなに重要なんですか?」
「勿論。でなければこんな注文はしませんよ」
「はあ……」
 怒る気にもなれず当惑したのか、島木は先程とは違って面倒臭そうに答えた。一人で浜辺を散歩している途中、車椅子の男を見つけたこと。男から事情を聞いて、ファンとして思わず同情したこと。その結果、知り合いという名目で男を店に入れたこと。
 黙って私も聞いていたが、ツバキが気にするような不審な点は特に見当たらない。
「車椅子の男は二十代ぐらいで……。本当にこんなことが重要なんですか?」
「ええ。その調子です、続きをどうぞ」
「私に沢山喋らせてボロを出したいのか知らないですけど、そんなに私は口の軽い女じゃありません」
「存じ上げています。あなたは警戒心がお強い。今日も来店した時、かなりの注意を払ったのではないですか。リボンテープを持った僕達が、事件当時あなたの座っていたテーブル付近にいたんですからね」
「身が引き締まる思いになったのは確かです。でもそれは、嫌な記憶が蘇りそうになったからですよ。誰だってそうでしょう?過去に人が亡くなったことを無闇に思い出したくはありません。それに見た感じ、あなた方はマナーがなっていないように感じられた」
「それは失礼、お気を悪くされたようで。」
 島木は最早出会った時とは異なり、事件の真相を解き明かそうとするツバキに嫌悪感をあらわにしていた。果たして彼女が犯人なのか。ツバキはこれまでと変わらず、穏やかな微笑みを顔に浮かべている。
 その気取った表情に私は、一種の気味の悪さを感じた。
「どうぞ先を続けてください。知り合いという名目で、あなたは車椅子の男に救済の手を差し伸べた。そうですよね?」
「……ええ。そして私は男の車椅子を押して、店に入りました。私の席が左テーブルの後ろに対して、彼はその隣のテーブルの後ろで」
「それがあなたにとっての事実なのですね?」
 ツバキはそこだと言わんばかりに人差し指をぴんと立て、島木の話を途中で遮った。
「私と車椅子の男の席ですか?ええ。間違いありません。なんなら今からマスターに確認を取ってください」
「いいえ、その必要はありません。何故なら僕が重要視しているのは、あなたと車椅子の男の位置関係ではないからです。「あなたが男の車椅子を押したこと」、この一点です」
 これには私もマスターもきょとんとした。島木当人も拍子抜けを食らったようである。
「私に長々と同じ話を繰り返させて、そんなことを確認したかったのですか?だったら最初からはっきりとそう聞けばよかったじゃないですか!無駄な時間と労力をかけさせるだなんて!」
「それでは駄目なんですよ。警戒心の強いあなたなら、すぐに察しが付いてしまう」
 くるりとツバキは方向を変え、島木の周りを歩き始めてからこう述べた。
「あなたは善意から男の車椅子を押し、店まで案内した。一見すれば些細なことのように思えるが実はそうではない。これこそがあなたにとってのボロなんですよ島木さん。だって当時のあなたは……」
 一呼吸置いて言葉を続ける。
「今お持ちの鞄で店に来たのでしょう?片手の埋まるクラッチバッグで、どうして車椅子を押せるのですか」
 島木が目を見開く様子が、ありありと見てとれた。確かにそうだ。丁度今、彼女の背もたれに挟んでいる緑の鞄では、……少なくともあの状況では、たとえ車椅子を押せたとしても、島木はきっと押さないだろう。
「片手で車椅子は押せない。そうですよね?」
「ふん、驚かせるようなことを言うかと思えば、大したことはありませんのねツバキさん。私の鞄がどうしたというの?たとえ片手が埋まっても、手すりと一緒に鞄を持てば問題ありません」
「いいえ、そんなことをあなたが許すはずがない」
 ツバキは断言した。
「あなたはその鞄を大事になさっていた、それは今も同様です。現にあなたの鞄には傷一つない。加えてあなたは来店してすぐ、僕の連れであるサクマに怒りましたよね?「私の鞄に傷がついたらどうするの」と」
「ええ。それが何か?」
「この店の平坦な床で落としたことでさえ許せなかったのです。そんなあなたが、あの石の多い浜辺の上で、車椅子を押しながら鞄を持つなどという行為をするとは到底思えません。たとえ落とした時に鞄が傷付かなかったとしても、浜辺の砂で白く染まるのをあなたはとても嫌うはずだ」
 浜辺でツバキから足に砂をかけられた時、あれはこのことを証明するためだったのかと私は理解した。ただのイタズラではなかったのだ。
「ツバキ、島木さんは本当は車椅子を押さなかった。つまり嘘を付いていたということになるのか?」
「いいや、彼女が車椅子を押したのは事実さ」
「事実?それじゃあ一体お前は何が言いたい」
「それはだね……。あなたはもうお分かりですよね?島木さん?」
 高圧的な態度でツバキが尋ねた。それに対して島木は、ひたすら唇を噛み締めている。一体何が暴かれようというのか。
「僕は彼女が嘘を付いていたと糾弾するつもりはない。問題は彼女の状況さ」
「状況?」
「ああ。島木さんは両手で男の車椅子を押すことに何の迷いもなかった。つまり彼女は両手を使わずとも、簡単に自分の鞄を持ち運ぶことができる状況にあったのさ」
 両手を使わずに、クラッチバッグを持ち運ぶ……。
 すぐさま私は実物を見て閃いた。
「そうか!あの鞄は、肩に提げることもできたんだな!」
「ご名答」
 隣に来たツバキが不敵に笑う。一方で島木は顔を真っ青にしていた。
「島木さん。あなたは事件当日、そちらにある鞄をショルダーバッグとして肩に提げていた。だから車椅子の男を助けることもできたし」
「わ、私は……」
「そのベルトを使って成宮さんを絞殺することもできた。違いますか」
 島木はカウンターの席に座りながら身体をがたがたと震わせていた。武者震いなどでは決してない。それは罪を問われた人間そのものだった。
「しょ、証拠よ。……そう、証拠がないわ。ただ私が事件当日に、この鞄を肩に提げていただけのことじゃない!そんなことで犯人扱いだなんて」
 島木は反論したが、先程と比べて迫力がない。
「でしたら僕達に見せてください、そちらの鞄のベルトを!リボンテープの幅とほぼ同じだから、あなたは事件後、この店に持ってくるのをやめたのではないですか」
 ツバキは好機と見たか、口説くぐらいの距離まで島木にぐいと近づいて言った。
「なんだったら家まで案内してもらってもいい。レディの部屋に土足で入るのは、気が進まないけどね」
「ぐ、うう……」
 島木は初め、喉元で唸り声をあげるだけだった。しかしやがて、「そんなもの、とっくに捨てたわよ!」と彼女は吐き捨てた。
「すぐに傷んだから捨てたのよ。最近のことかしら。だから確認のしょうがないわ」
 白々しい嘘だ。思わず私は言ってやった。
「鞄のベルトだけ傷むなんて、どんな使い方をしたらそうなるんだ!」
「うるさいわね!とにかく今はベルトなんかないわよ!……これでどう?あなたの推理はまた最初から。まさか無いものを凶器に仕立て上げようとはしないわよねえ?それこそ私に対する名誉毀損よ」
 島木は肥太った身体を揺らしながら笑った。唇の端を吊り上げ、なんとも不快な笑い方である。
 さすがに嫌な予感を抱いたのか、マスターが宥めた。
「島木様、どうか落ち着いてください。ツバキ様はただ可能性のある事柄を述べていらっしゃるだけで、最もな反論があるならばちゃんと聞いてくださいます」
「うるさいわねえ!あんたもこのあたしが人を殺したと思ってるの?客を疑うだなんてサイテーな店員ね!」
 マスターの優しさも虚しく、島木はわめき散らして周囲への怒りをぶつけた。とげとげしいまでの叫びが、無関係な私の心にまで刺さる勢いである。たとえ他人である相手が理屈の通らないことを言っているとは分かっていても、言葉の切れ味というものは凄まじかった。
「大切な人間を殺されたら、誰かを疑うのは当然だろ」
 ツバキの声がした。それは島木の咆哮に近い怒鳴り声とは正反対に、冷静で落ち着いたものだった。先程までの飄々とした口調とは異なり、妙に実感が伴った一言のように感じられる。
「たとえそれが無関係の人間でも……心から信頼していた、仲間でも」
 正面を堂々と見据えるツバキの表情は、これまでに見たことがないほど真剣で、そして哀しみに満ちていた。謎を解き明かす者の言葉ではなく、彼自身の言葉のように聞こえたのは私の気のせいだろうか。
 しかしそれも一瞬のことだった。
「……それに、今回の事件の犯人は当時その場にいた客に限定されている。何故ならマスター達スタッフは、店内の照明のほぼ真下。全員から姿が見える位置にずっといたからね。自分の店の客を疑うのは、仕方のないことさ。…さて」
 いつもの微笑んだ表情に戻りながら、ツバキはある場所に向かってすたすたと歩いていった。スタッフルームへ続く扉の前である。
 彼はそこで三回ノックをした。
「ずっとそこで立ち聞きしていたんだろう?そろそろ出てきてもいいんじゃないかな、歌姫」
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