プロローグ

文字数 2,342文字

 どれくらいの時が経ったのだろう。
 うつらうつらとしながら、彼は目を覚ました。視界は真っ暗な夜空のほかに何も無い。ただ、自分のすぐそばで波の音が聴こえた。時間経過と共に徐々に感覚を取り戻し始めると、彼は左半身がさざ波で濡れていることに気付いた。
 自然とため息が出る。しかし何かがおかしい。
 砂に仰向けになった体制。鼻をくすぐる、つんとした磯の香り。味覚以外の五感は取り戻しつつあると感じたが、肝心の記憶が未だに定かでなかった。漠然と頭の中を漂うこの違和感も、きっと記憶が関係していることだろう。しかし彼はいくら経っても思い出せなかった。自分はいったい目が覚めるまで何をしていたのか。先程から身体を起こそうとしても、ぴくりとも動けないのが不思議だった。……すると
「やあ」と視界の端から、ひょっこりと人の顔が現れた。二十代以下と思われる女だ。
「やあツバキ、久しぶり。……気分はどう?」
 ころころとした、聞き取りやすい声。女はこちらの様子を伺った。何故自分の名前を知っているのか。しかし彼女の顔を眺めるうちに、これまでの記憶がみるみる蘇っていくのを彼は感じた。まるで花に水を注ぐように少しずつ、与えられたもの全てを脳が吸収していくようだ。
 映像のように現れる自分自身の過去。最後の記憶はそうだ。彼とこの浜辺で最期の会話をした。そして自分は――と。
 そこでようやく彼は謎が解けた。どうして自分の身体はぴくりとも動かないのか。
 動かせるものが何もないからだった。
 そうだ。背後から殴られて、殺されたのだ。
 そして身体は、紐を解くかのように容易く、バラバラに切られた。
 しかしそう考えると、彼の頭に次に浮かぶのは一つだった。何故自分は死んだにも関わらず今こうして目の前の女を見ることができるのか。
 だがそれも、この島のルールを思い出せば簡単に解決するものだった。
「ああ、そうか……」
 彼は一人呟くように言った。
「君は、そういう存在だったな」
「リアクション低いな。……まあ、当たり前か。そういう性格だし」
 そう言って口を尖らせる女。どうやら答えは合っていたが、あまりにも彼の反応が薄かったからだろう。少し不満気な様子だった。
「そういえば、気分がいいかだって?……最悪とでも言っておこうか」
「……まあそっか」
 女は彼の態度に怒ることなく、ただ受け入れた。
「僕はこんなの望んじゃいない」
「君は望まないだろうけど、私は君に生き返ってほしいと思ったんだ」
「自己中心的だね。腕も足もない状態に一度なってみろよ。そうしたら分かるだろうさ」
「ああ、そうだった」
 ようやく彼女は気付いたらしい。目の前の喋る死体が、首だけの状態だということを。
「ごめん、忘れてた。足と腕と、胴体だよね」
 すると彼女は無造作に何かを放った。静かに音を吸収する砂浜の上に何かが落ちた。できる限り瞳を動かして見ると、やはり自分の体だった。
 煩雑にも程がある。繊細さどころか、倫理観の欠片もない。
「色んな場所を掘り起こしたんだ。全部見つかって本当によかった」
 彼は軽蔑の眼差しを女に送りながら言った。
「……何が目的なんだ」
「え?」
「人の人生滅茶苦茶にして。謝りもせずに傍観するだけで」
「……そうだったね」
「これから何をする気なんだ」
「さっき言った通りだよ。君を生き返らせる。いや、もう既に生き返ってはいるんだけど、最後の工程をね」
「体までくっつける気かい!」
思わず彼は「冗談だろ」と唇を動かした。
「……やっぱり嫌?」
「生首で喋っている今よりはマシだろうがね。生憎僕はもう生きたい気持ちなんてこれっぽっちもない。そうでなければこんな死に方してないさ」
「まあ、それはそうだろうね。君の気持ちを察するとね」
 そう言うや否や彼女は目を細めた。慈しみと哀れみの混ざった優しい瞳をしている。どうやら彼のこれまでのことは、全てお見通しなのだろう。
「……じゃあさ、罰ゲームだと思ってよ。あの時に足掻くことすらやめて、何もかもを諦めた罰。とにかくもう決めたから」
 そう言って彼女が手を額の上でかざす。すると同時に、いつの間にか彼のバラバラになった体は人の形へとぬい合わせられていった。
 痛みは全くない。しかしそれ故に一層気味の悪さを感じた。目の前の女がただの人間ではないことを、改めて突きつけられたからだ。
 人を簡単に治せるのならば、その反対の行為だって彼女には造作もないことに違いない。
「はい出来上がり。と言っても二年ぶりの復活だし、まだしばらくは動けないから。ゆっくり休んでて。次に目が覚めるのを楽しみにしていてよ」
「ちょっと待て!勝手に決めるな!」
 彼は突如として自分の身に起こったことに、戸惑いを隠せなかった。
「私は君に幸せになってほしいんだ。生きていてくれればそれだけで充分。この島で好きなように過ごしてくれればいいんだよ。私の価値観を押し付ける訳じゃない」
「幸せになれ?生きていてくれ?それこそ価値観の押し付けだろう。今すぐこの魔法だか呪いだかを撤回しろ!」
「くっついたばかりの腕で、私を掴もうとしたって無駄無駄。そんなにすぐには動かないよ。私、そこまで優れた人間じゃないから」
 どこか小馬鹿にした女の態度に、彼は思わず舌打ちをした。
「この魔女め……!おい待て!」
「ばいばいツバキ」
 必死に彼は身体に力を込めた。しかし動かない。それどころか目の前の視界が、徐々に崩れていくのを感じた。そして同時に、自らの意識が奥底へと沈んでいく。
「くそ……!」
遠ざかる女の背中。夜明けが近づいてきたのか、気付かぬうちに空は白んでいた。
再び眠りに落ちる寸前、途切れ途切れの意識の中で女は最後にこう言った。
「どうかお幸せに。……大丈夫、今度はちゃんと手を尽くすから」
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