その十

文字数 3,075文字

 私は思わず衝撃を受けた。彼が「歌姫」だとは!
「おいツバキ!どういうことだ!「歌姫」は女性じゃないのか!?」
「ああ、身も心もれっきとした男性さ」
 ツバキはさらりと言ってのける。
「あれだけ君が熱くファンのように語っていたのは、男性のことだったのか!?」
「別に僕は「歌姫」のことを「彼女」とは一度も言っていない。君がそのまま「歌姫」のあだ名を理解しただけの話だろう」
 にやりと笑い「大袈裟だな」とツバキは肩を竦めてみせた。
 こいつ……!わざと事実を隠していたな。
「ツバキ様。「歌姫」が男性であることを、佐久間様に仰っていなかったのですか」
 僕の拗ねた表情を見てだろう。マスターはツバキに尋ねた。
「ああそうさ。そのほうが面白いと思ってね。特にこういう真面目くさってそうな人間を驚かすのは最高さ!」
 ツバキは隠すこともなく笑顔で言った。憎たらしいほどに爽やかだ。
「相変わらずでございますね。聡明な姿をしていて、時に子どものようにいたずら好きなところは」
 マスターは決して嫌味などではなく微笑んで言った。
「ふふ、まあ、退屈に生きるよりはマシさ。ところでサクマ君、そろそろ君もサンドイッチを食べなよ。こういうのは出来たてが一番なのだから」
 ツバキはそう言うと大きく口を開けてサンドイッチを頬張った。目を細めて美味しさを味わい始めている。そんなツバキの一方で、私はまだ口をへの字に曲げていた。
 別に「歌姫」を女性だと思って、何か期待をしていたわけでは決してない。ただ隣に座る男の罠にまんまと嵌ったのが、心の底から悔しかったのだ。
 私はそんな悔しさをぶつけるかのように、ミックスサンドにかぶりついた。シャリっとレタスの瑞々しい音が口内に鳴り響いた。……新鮮なトマトやキュウリといった野菜に、ホワイトドレッシングが隅々まで行き渡っている。この六稜島で採れた材料を使っているのか、とても美味しかった。と、続けてたまごサンドを一口食べようとしたところで、奥のスタッフルームの扉が再び開いた。
 先程の男がギャルソンの制服に身を包んで、カウンターの中へ入っていく。目が隠れるくらいの長さはある男の前髪を、私は少し鬱陶しく感じた。歌姫と呼ばれる要素が、まるで見つけられない。
「……いらっしゃいませ」
 男は私達にそれだけ言うと、すぐに背を向け仕事に取り掛かかり始めた。
「やあ歌姫、久しぶり。僕のことを覚えているかい?」
 ツバキは男の背中に向けて声をかけた。すると無愛想な様子に反して、歌姫はその問いかけに応えた。少しハスキーだが透き通った声だ。
「覚えてますよ。ツバキさん……でしたよね」
「ああそうさ。君にもマスターにも名前を覚えてもらえていたなんて、僕は幸せ者だね。元気にしていたかい?…少し痩せたみたいだね」
 ツバキは努めて穏やかに話しかけた。歌姫が歌わなくなったことを気にしてのことだろう。だがこれまた意外にも、歌姫はその事情をあっさりと答えた。
「ええ。一年前に友人を亡くしてから、歌えなくなってしまったので。体調や生活リズムを気にする必要がなくなったんですよ」
「亡くなった…そうか。それは不幸だったね」
「覚えています?ステージを挟んだこのカウンターの反対側、そこの小さなスペースでウェイトレスをしていた女性」
「成宮ちゃんのことかい?」
 ツバキは目を丸くした。そして話についていけず、たまごサンドを持ったまま聞き入っている私を見兼ねてか、ツバキは説明してくれた。
「名前は成宮亜矢子さん。この喫茶サリアで働いていた女の子でね。みんなから「成宮ちゃん」と呼ばれて慕われていたんだ。目が細くて愛嬌があってね。…でも若かっただろう歌姫?彼女は君と同い年だったはずだ」
 ツバキはまだ成宮という女性が死んだことを信じきれていない様子だった。ちなみにこれはあとでツバキから聞いた話だが、歌姫の年齢は現在二十三歳。つまり私の二つ年下にあたる。
「ええ、……殺されたんですよ。俺がステージで歌を披露している中、突然にね」
「殺された?」
 私はは思わず聞き返した。この喫茶店で殺されたというのか?しかも歌姫が歌っている最中に?
「ええ、犯人も分からず。もう諦めていますけどね。……ところで、ツバキさんがここに来るのも久しぶりですね。見知らぬ方もいらっしゃいますし、新しい劇団の方ですか?」
どう言おうか逡巡したところで、ツバキは首元のストールに触れながら私に目配せした。「バラバラ死体から生き返ったことは言うな」という意味だろう。今ここでそのことを言えば、話がややこしくなることは明白だった。
「……紹介が遅れました、佐久間と言います。今日ツバキさんの家の隣に引っ越してきまして」
「そう。彼が空腹だと言うので、おすすめのこの場所に案内したわけさ。僕自身、このところ忙しくて来られていなかったからね」
「そうですか」
 突然だったが上手く話を合わせることに私達は成功したようだ。目の前で頷く歌姫も、隣でコーヒーを作っているマスターも、怪訝な顔一つしていなかった。
「それにしてもそうか…。君の歌が聞けなくなったのは残念だな」
 ツバキは寂しそうに言った。余程彼の歌声を評価していたようだ。それに対して歌姫は「あはは!」と笑ってみせる。
「歌えない「歌姫」だなんて、壊れた玩具同然ですよね。それでもまだここに置いてくれているんだから、マスターには本当に感謝していますよ」
「歌姫、別に私はそんなことは一度も…」
「いいんですよマスター、無理しなくて。喫茶サリアの売り上げがここの所落ちてきているのは事実だろう?そろそろ、要らない人間は切り捨てたほうがいい」
 半ば自嘲して述べる歌姫に対して、マスターは一際悲しそうに眉をひそめている。こちらまで切なくなりそうだ。なんとかならないものなのか。
 食後の飲み物が歌姫の手から渡される。しばらくそのままだったたまごサンドは既に食べ終えたが、暗い雰囲気に潰されて何の感想も浮かばなかった。
 するとツバキが、灰色の瞳でしばし歌姫の手元を見つめた後に言った。
「歌姫、君は……本当にショックだったんだな。成宮ちゃんが死んだことが」
「ええ、そりゃあ辛かったですよ。同僚だったんですから」
「それだけじゃないだろう。右手のゴールドの指輪がその証明さ。二年前の君はそんなもの付けていなかった。……見たところ、そのデザインはペアリングじゃないのかい」
 私は思わず歌姫の右手を凝視した。絆創膏だらけの指先がまず目に入ったが、確かにその薬指には金の指輪が嵌っている。
 歌姫はそれまで気が付かなかったのか、「ああ」と自らの手を見つめて言った。
「カウンターに入る時はいつも外しているんですけど……。よく気づきましたね」
「君は二年前こう言っていたからね。「腕時計や指輪は、肌に触れるのが気になって歌の邪魔になる。」」
「そういえばそうでした。……ちょうど亡くなる三日前だったかな。浜辺近くで彼女にあげたら喜んでいましたよ。もっとも俺は裕福じゃないから、安い金メッキのものしか用意できなかったけど。……いつかは渡す予定だった。本物のゴールドの指輪を、彼女の左手に」
 見つめていた手を歌姫は握りしめた。その拳が表わす悔しさは、私には到底図ることの出来ぬものだろう。後の人生を共にしようと決めた相手が、一瞬のうちに消えてしまったのだから。
「……マスター。手洗いに行くついでに、邪魔なので外してきます」と歌姫はスタッフルームへ向かったが、三人とも気づかぬふりをした。
 長い前髪に隠れた歌姫の両目に、涙が溜まっていたことを。
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