その十六

文字数 2,814文字

 現れた島木という女は、店に入って飲み物を注文するだけでも一苦労だった。
 彼女はモスグリーンの袖無しの服にズボンという出で立ちだったが、小太りの身体で扉をくぐるのに少々の時間を要した。身体の向きを横にし、店内に入るとハンカチで額の汗を拭う。曇りとはいえ湿度があって、今の時間帯が一番暑いのだろう。
 そして次に彼女は、テーブル席近くで立っていた私達、厳密には私に向かって小さな目を瞬かせながら鋭く言い放った。
「何してるんですか?」
「え?」
「あなたお客さんなんでしょう?!早く席に座りなさいよ!立ち回ってうろうろするだなんてはしたないとは思わないんですか?!」
 開口一番何を言い出すのかこの女は、と最初に思った。いきなり「はしたない」と言われるとは。しかも初めて会った関係もない他人に、よくそんな言い方ができるなと私は圧倒されてしまった。
 当惑している私を見兼ねて、マスターが「島木様、ようこそお越しくださいました」と女に話し掛ける。
「外は暑かったのではございませんか。何かお飲み物でも」
「あらこんにちはマスター。すみませんが少し考えてもいいですか」
「ええ、構いません」
 マスターがお辞儀をすると共に、島木はふくよかな身体を揺らしながらカウンターへと向かった。途中で私とすれ違いになり、私はすぐに避けようとした。しかし女はわざとぶつかるようにこちらに体重を乗せてきたのだ。
 思わず私の腕が当たり、女が持っていたバッグが床に落ちた。
「ちょっと!さっきから本当に何なんですか!謝りもしないで!」
「……あの、今のはあなたからぶつかってきたじゃないですか。私に非はありません」
 はっきりと断言した私に対して、女はさらにヒステリックを起こした。
「何ですかその言い草は?人の鞄を落としておいて!傷の一つでも付いたらどうしてくれるんですか!もっとあなたが考えて行動すれば起こらなかったことでしょう?もっと頭を使ってください!」
「それはこちらの台詞です。右側のテーブルの傍を通ってカウンターに行くほうが明らかに短距離で済むじゃないですか。わざわざ人のいる横を通ろうとするあなたの視野の狭さに問題があると思います」
「まあ悪びれもしないだなんて!ちょっとマスター!何なのですかこの人は?!」
 私は真っ向から反発した。もともと売られた喧嘩や挑発はつい買ってしまう性分なのだ。「お前はいろいろと融通が利かない」と、アイハラにたしなめられたこともある。しかしヒステリックになった女の怒りは今度はマスターに向かおうとしていた。
 さすがにそれはいけないと私が引き下がろうとしたところで、ツバキが女の手を取り言った。
「すみませんご婦人、僕の連れがとんだ無礼を。申し訳ございません、怪我はありませんか」
 そう言いながら彼はもう片方の手でバッグをひょいと拾い上げると女に渡した。
「え、ええ……別に怪我はありません。それより、鞄を取ってくださってありがとうございます」
 突然横から現れた好青年に面食らったのだろう。再び女の瞬きする回数が多くなる中、ツバキは灰色の瞳でその目を捉えながら言葉を続けた。
「お気になさらないでください。せっかくの鞄を拾われるあなたの手が、汚れてはいけませんから。……どうぞカウンターへ。ここへティータイムを過ごしに来られたのでしょう、僕達が邪魔をしてはいけない」
 優しい表情を浮かべ、物腰柔らかにツバキはカウンターへ送り出すポーズを取った。まるで白馬の王子である。しかしさすがは演出家とあって、その仕草には気障っぽさがなく極めて自然だった。当の女を見れば、少し頬を赤らめているではないか。
「あ、ありがとうございます……。ごほん。マスター、アイスティーといつもので」
「かしこまりました」
 わざとらしい咳払いだがマスターは気にせずに準備に取り掛かった。ツバキを見返せば彼は涼しい顔をして奥のテーブル席に腰掛けている。女性を惚れさせることなど、いとも容易いということか。
 私はそんな彼の隣に座ることにした。ここで元のカウンター席に戻れば、再び彼女から何か厄介な言いがかりを付けられるに違いない。
「あら。先程の無礼な客のせいで気付きませんでしたけど、歌姫がいるじゃないですかマスター!」
「先程の無礼な客」と言う間、島木は私の顔を睨みつけていた。どれだけ根に持てば気が済むのか。私は腹立たしさを顔に出さないよう努めることで精一杯だった。リボンテープを持っている手に、思わず力が入る。
「ええ。そういえば島木様は会うのが久しぶりでございますか」
「そうですそうです!もう会いたくても会いたくても何故か会えなくて」
 ステージ近くで立ち止まっていた歌姫の姿を見つけた途端、島木の声色が変わった。先程ツバキにほだされかけた時も声色はやや変わったがその比ではない。どうやらかなりの歌姫ファンらしい。
「久しぶり歌姫〜、元気にしてた?」
 語尾を伸ばすな気色悪い。年齢にそぐわない若い口調に私は寒気がした。
「え、ええ。お久しぶりです島木さん。亜矢子の死んだ後から体調を崩しまして、……お目に掛かれず、すみませんでした」
「いやそんな、謝ることないのよう。誰だって悲しいわよあんな事件が起きたら。でも気を確かに持って歌姫、いつかは時間が忘れてさせてくれるわ」
「ええ…ありがとうございます」
 島木は、最初にマスターに事件を依頼をされた時のツバキとほぼ同じ内容を言った。「時間が解決する」と。しかし言われた当の歌姫はそれを否定した。
「いいえ、俺は一生忘れるつもりはありません。亜矢子は俺の歌を最初に認めてくれた、かけがえのない人だったんです」
「あらそう。でもうじうじ考えていても疲れるだけだと私は思うけどな〜。新しい人に癒してもらったほうがいいんじゃないの?」
「……気遣ってくださってありがとうございます」
「やだもうそんな、いちいち感謝してくれなくてもいいのよう。歌姫は真面目なんだから」
 いいや、今のは感謝の言葉ではなくその反対だろう。からかい混じりに言った島木に対して歌姫は、接客を理解した大人としての振舞いをした。しかし唇を噛み締める様子からその内心は明らかだ。島木は気付いていないが、私は見ているだけで心が締め付けられた。
 と、それを見ている中でツバキが私の肩をつついてきた。そしてひそひそ声で私の耳元から囁いてくる。
「ねえサクマ、彼女の左薬指の指輪を見たかい」
「え?」
「指輪だよ指輪」
 言われて私はすぐさま島木の左手に注目した。確かにツバキの言う通り指輪がはまってあったが、しかしその色は銀色に鈍く輝いていた。
「結婚指輪か何かじゃないのか。見たところ三十代だし、すでに生涯の相手がいたっておかしくない」
「ふふ、それはどうかな」
 カウンターに座る島木の後ろ姿を見ながら、にやりと笑ってツバキは言った。
「彼女はまだ独身だよ。そして事件に重要な関わりを持っている。間違いないさ」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み