4 草薙鎖天は斯く異常に巻き込まれる
文字数 2,380文字
「やべぇな、少し遅くなっちまった」
陽がすっかり落ち果て、疎らな街灯が道しるべとなるような暗闇の中。
煌々と光る携帯のディスプレイに表示された時刻を見て、俺は溜息混じりにこぼしていた。
他の学校がどうなのか知らないが、我が籠網高校の日直は、頭おかしいんじゃないかってレベルで仕事が多い。クラス名簿の運搬に始まり、授業の始まりと終わりの挨拶、学級日誌の作成、教室の掃除、生徒会の手伝い、教師から頼まれる雑用etc.
まぁ大半の生徒が、後半の放課後仕事をぶっちして帰ってしまうのだが、我ながら真面目なことに、俺はそれらの仕事をサボったことがない。曲がりなりにも大学へ行こうと志しているのだ。なるべく内申を下げるような真似は避けたい。おかげで教師からの覚えはいいので、あとは勉強さえ多少頑張れば、そこそこの大学には入れるだろう。
まぁ、そんな先のことは、今はどうでもいい。
今日は週に一度、環が夕飯を作ってくれる日だ。
環は料理やお菓子を作るのを趣味としている。真面目で凝り性だからか、そのクオリティはかなり高く、母親を既に抜かしているんじゃないかってほどだ。いつも早足で歩く帰路だが、今日はいつにも増して脚の動く速度が速かった。
暗い帰り道をひとりで歩いているという寂しさも、家で待っている妹のことを思えば容易く吹き飛んでしまう。
それに、今日は日直の仕事で疲れた。さっさと夕飯を食べて寝てしまいたい。
そう思うと自然と脚が速くなり、三〇分はかかる通学路を二〇分程度で踏破してしまった。
あっという間に自宅へ着く。
父親が若い頃にローンを組んで購入した、二階建ての一軒家。
顔がにやけてしまうくらいうきうきしながら、鍵穴に鍵を差し込む。がちゃり、と軽い音がしたのを確認して、俺は扉を開けた。
「ただい、ま……?」
家の中に一歩、踏み込んだ瞬間。
俺は、違和感に気づいた。
妙な臭いがする。
料理の芳しい香りではない。一言で表すなら、悪臭だ。思わず鼻をつまみたくなる。吸い込めば肺腑を鷲掴みにされるような、酷い臭いだった。
環の奴、料理に失敗したのか?
いや、恐らく違う。玄関から見えているキッチンには明かりがついていない。
それに、もっとおかしいことがある。
環が、俺を迎えに来ないのだ。
いつもならドアが開く前に、俺の気配を察して玄関にスタンバイしている筈なのに――――家中に漂う臭いが気にならないくらい、おかしなことだ。
いつもとは違う。ひとつピースがずれただけで、日常は多大なる違和感をもたらしてくる。恐る恐る家へ上がり、一階の自分の部屋をスルーして、階段を上り始める。
目指すのは、二階にある環の部屋だ。
疲れて寝てしまっているのか、それとも新作料理のレシピでも考えているのか。いずれにせよ、環が二階にいるのを祈る他ない。もしいなかったら、それは明らかに異常事態だからだ。
一段、また一段と、踏み締めるように階段を上る。
「環ー? いるんだろ? 出てきてくれよ」
あぁ、いつもならこんな声出さないのに。
いつもならこんなことを言う前に、妹が飛んできてくれるのに。
一体どうしたのだろう。
階段も中腹に差し掛かると、違和感より恐怖の方が先に立つ。いつもと違う、ということがこんなに恐ろしいとは、思いもしなかった。
頼むから、部屋にいてくれ。
もしいなくても、買い物に行ってるとか、そんなつまらないことであってくれ。
ぎしぃ、と軋む階段を進もうとしたその時。
「え……?」
とんっ、と。
なにかに、胸を押された。
ほんの軽い調子だった。枝垂が挨拶交じりに俺の肩を叩くのと、力はさして変わらない。
けれど、体勢が悪かった。
片足を上げて、階段を踏み締める直前の姿勢。体重が足から足へと頼りなく移動する最中を、狙いすましたように押されたのだ。
目に見えない、けれど確かにそこにあるなにかに。
胸を押された感触が、間違いなくあった。けれど、その姿は見えない。
それがなんなのか、考える暇さえなく。
俺の身体は重力に従い、階下へと真っ逆さまに落下していく。
「っ……べぇ……!」
階段の、もう随分高い位置まで来てしまっている。このまま落ちたら大怪我は免れない。
高二の頃、柔道の授業で習った、見様見真似の下手くそな受け身。床に転がるように落ちていく俺には、それしか選択肢がなかった。
鞄を放り、腕を伸ばそうとした――――次の瞬間。
ぱぁんっ、と破裂音が鳴り、胸から心臓が飛び出した。
「は……?」
痛みはなかった。しかし、胸がマグマのように熱く、血の味が喉奥を犯し尽くしていた。
学ランのボタンを弾き飛ばすように、胸が爆発した。
皮膚が破け、肉が剥き出しになり、肋骨が花のように開いている。その奥に、鼓動を刻む心臓が見えている。
なにが、なにが起こった?
もう訳が分からない。意味が分からない。一体、俺の身になにが起こっているんだ?
がしゅっ、と生々しい嫌な音がして。
心臓が、齧られたように欠けていった。
「なに、が――――」
しかし、疑問を差し挟む暇はなかった。
自由落下の状態の、ほんの一瞬の出来事だった。頭が恐ろしく早く回るが、それでも追いつかない。
俺はなす術もなく、階段から落ちていった。
脳内が疑問符で埋め尽くされていく。
環はどうした?
どこへ行った? まだ家にいるのか?
家に充満する異臭はなんだ?
俺を押したのはなんだ?
俺の身に、なにが起こっている?
「――――」
答えなど、考えても出る筈がなく。
俺の身体は真っ逆さまに、階段を――――
ぐちゃっ
陽がすっかり落ち果て、疎らな街灯が道しるべとなるような暗闇の中。
煌々と光る携帯のディスプレイに表示された時刻を見て、俺は溜息混じりにこぼしていた。
他の学校がどうなのか知らないが、我が籠網高校の日直は、頭おかしいんじゃないかってレベルで仕事が多い。クラス名簿の運搬に始まり、授業の始まりと終わりの挨拶、学級日誌の作成、教室の掃除、生徒会の手伝い、教師から頼まれる雑用etc.
まぁ大半の生徒が、後半の放課後仕事をぶっちして帰ってしまうのだが、我ながら真面目なことに、俺はそれらの仕事をサボったことがない。曲がりなりにも大学へ行こうと志しているのだ。なるべく内申を下げるような真似は避けたい。おかげで教師からの覚えはいいので、あとは勉強さえ多少頑張れば、そこそこの大学には入れるだろう。
まぁ、そんな先のことは、今はどうでもいい。
今日は週に一度、環が夕飯を作ってくれる日だ。
環は料理やお菓子を作るのを趣味としている。真面目で凝り性だからか、そのクオリティはかなり高く、母親を既に抜かしているんじゃないかってほどだ。いつも早足で歩く帰路だが、今日はいつにも増して脚の動く速度が速かった。
暗い帰り道をひとりで歩いているという寂しさも、家で待っている妹のことを思えば容易く吹き飛んでしまう。
それに、今日は日直の仕事で疲れた。さっさと夕飯を食べて寝てしまいたい。
そう思うと自然と脚が速くなり、三〇分はかかる通学路を二〇分程度で踏破してしまった。
あっという間に自宅へ着く。
父親が若い頃にローンを組んで購入した、二階建ての一軒家。
顔がにやけてしまうくらいうきうきしながら、鍵穴に鍵を差し込む。がちゃり、と軽い音がしたのを確認して、俺は扉を開けた。
「ただい、ま……?」
家の中に一歩、踏み込んだ瞬間。
俺は、違和感に気づいた。
妙な臭いがする。
料理の芳しい香りではない。一言で表すなら、悪臭だ。思わず鼻をつまみたくなる。吸い込めば肺腑を鷲掴みにされるような、酷い臭いだった。
環の奴、料理に失敗したのか?
いや、恐らく違う。玄関から見えているキッチンには明かりがついていない。
それに、もっとおかしいことがある。
環が、俺を迎えに来ないのだ。
いつもならドアが開く前に、俺の気配を察して玄関にスタンバイしている筈なのに――――家中に漂う臭いが気にならないくらい、おかしなことだ。
いつもとは違う。ひとつピースがずれただけで、日常は多大なる違和感をもたらしてくる。恐る恐る家へ上がり、一階の自分の部屋をスルーして、階段を上り始める。
目指すのは、二階にある環の部屋だ。
疲れて寝てしまっているのか、それとも新作料理のレシピでも考えているのか。いずれにせよ、環が二階にいるのを祈る他ない。もしいなかったら、それは明らかに異常事態だからだ。
一段、また一段と、踏み締めるように階段を上る。
「環ー? いるんだろ? 出てきてくれよ」
あぁ、いつもならこんな声出さないのに。
いつもならこんなことを言う前に、妹が飛んできてくれるのに。
一体どうしたのだろう。
階段も中腹に差し掛かると、違和感より恐怖の方が先に立つ。いつもと違う、ということがこんなに恐ろしいとは、思いもしなかった。
頼むから、部屋にいてくれ。
もしいなくても、買い物に行ってるとか、そんなつまらないことであってくれ。
ぎしぃ、と軋む階段を進もうとしたその時。
「え……?」
とんっ、と。
なにかに、胸を押された。
ほんの軽い調子だった。枝垂が挨拶交じりに俺の肩を叩くのと、力はさして変わらない。
けれど、体勢が悪かった。
片足を上げて、階段を踏み締める直前の姿勢。体重が足から足へと頼りなく移動する最中を、狙いすましたように押されたのだ。
目に見えない、けれど確かにそこにあるなにかに。
胸を押された感触が、間違いなくあった。けれど、その姿は見えない。
それがなんなのか、考える暇さえなく。
俺の身体は重力に従い、階下へと真っ逆さまに落下していく。
「っ……べぇ……!」
階段の、もう随分高い位置まで来てしまっている。このまま落ちたら大怪我は免れない。
高二の頃、柔道の授業で習った、見様見真似の下手くそな受け身。床に転がるように落ちていく俺には、それしか選択肢がなかった。
鞄を放り、腕を伸ばそうとした――――次の瞬間。
ぱぁんっ、と破裂音が鳴り、胸から心臓が飛び出した。
「は……?」
痛みはなかった。しかし、胸がマグマのように熱く、血の味が喉奥を犯し尽くしていた。
学ランのボタンを弾き飛ばすように、胸が爆発した。
皮膚が破け、肉が剥き出しになり、肋骨が花のように開いている。その奥に、鼓動を刻む心臓が見えている。
なにが、なにが起こった?
もう訳が分からない。意味が分からない。一体、俺の身になにが起こっているんだ?
がしゅっ、と生々しい嫌な音がして。
心臓が、齧られたように欠けていった。
「なに、が――――」
しかし、疑問を差し挟む暇はなかった。
自由落下の状態の、ほんの一瞬の出来事だった。頭が恐ろしく早く回るが、それでも追いつかない。
俺はなす術もなく、階段から落ちていった。
脳内が疑問符で埋め尽くされていく。
環はどうした?
どこへ行った? まだ家にいるのか?
家に充満する異臭はなんだ?
俺を押したのはなんだ?
俺の身に、なにが起こっている?
「――――」
答えなど、考えても出る筈がなく。
俺の身体は真っ逆さまに、階段を――――
ぐちゃっ