2 草薙鎖天は斯く忘れられる
文字数 2,877文字
後から思えば、の話になるが。
常識的に考えて、人間は一〇分近く全力で走ることなんて、普通ならできやしない。
何キロ走ってもペースを崩さずにいられるのは、マラソンとか駅伝とか、そういう競技に向けて鍛錬を積んだ選手だけだ。一般的な、運動部に入ってる訳でもない平凡な高校生に過ぎない俺が、全力疾走を一〇分以上も続けられたことは、はっきり言って、異常事態だった。
けど、遅刻するかどうかの瀬戸際で焦っていた俺が、それをおかしく思うことはなかった。
大して息を切らしもせず、いつもの半分以下の時間で学校へ辿り着いたことを、俺は無邪気に喜んでいた。
まだこの時の俺は、いつも通りの日常が、ちょっと調子を狂わせただけだと思っていた。
だから、なんの疑いもなく教室に入り。
なんの衒いもなく、お馴染みの級友に挨拶をした。
「おはよう、枝垂。笑夢。いやぁ、遅刻しなくてよかったぜ」
まだHRまでは間がある時間だったが、俺は笑い話のつもりでそう言った。
「おいおい草薙、まだ遅刻を気にするような時間じゃないぜ?」と、枝垂が小気味よく返してくれるのを待っていた。「どうしたの鎖天っち。妹ちゃんと別れがたくて長々とちゅーしちゃってたん?」と、笑夢がおどけてきたら殴ってやろうと構えていた。
けど、返ってきたのは想定外の言葉だった。
「……おまえ、誰だ?」
じろ、と枝垂が俺のことを睨んでくる。明らかに、訝しんでいる目だ。そんな目を向けられて、俺は思わず固まってしまった。
……え? 誰だって……なに? どういう意味だ?
「お、おい、枝垂。なに言ってんだよ」
「こっちの台詞だ。おまえ、一体誰だ? なんで俺の名前を知ってんだ?」
……なにを、言ってるんだ?
助けを求めるように笑夢の方を見るが、笑夢も俺と同じように固まってしまっていた。俺と枝垂、双方を目だけできょろきょろ見回している。まるで、どうしたらいいのか分からないように。
「違うクラスの奴? いや、違うな。三年も同級生やってんだ、今更知らない顔なんていやしねー。後輩にも見覚えねーぞ、おまえみたいな奴。一体何者だ?」
「お、俺だよ。鎖天だよ。草薙鎖天! なんだよ、知らない振りとか性質が悪い冗談だな……も、もういいだろう? こんなおふざけ、やめにしてくれよ!」
「くさなぎ……さてん……知らない。そんな名前、知らねーぞ。なぁ、氏村」
「へ? え、あ、え、と……」
「……おまえ、一体誰だよ。事と次第によっちゃ、今すぐ先生呼んでこなくちゃならねー」
椅子に座っていた枝垂はやおら立ち上がり、糾弾するように俺を睨んでくる。
枝垂の目は、本気だった。
冗談であってくれ、悪ふざけであってくれと、心の中で何度も祈った。しかし、現実は非情に、あり得ない事実を突きつけてくる。
本当に、枝垂は俺のことを『知らない人間』として見ていた。
なんで、どうして……そんなこと、あり得ないだろう?
昨日まで、あんな仲良く馬鹿話に花を咲かせていたじゃないか。
なのに、たった一日で、どうして――――
「うっ……ぐぅ……⁉」
それは、突然襲いかかってきた。
身体をくの字に折り曲げるほどの、強烈な腹痛。腹の中がざわざわと騒ぎ出し、痛みという形でなにかを訴えてくる。
歯を食い縛らなければ、苦悶の呻きを漏らしてしまいそうな激痛。
鞄なんて持っていられなかった。手から自然と力が脱け、どさりと床に落ちる。クラス中の白い目線が突き刺さる。辛うじて顔を上げている俺は、そんな目線を一身に受けながら、まるで関係ないことを考えていた。
「だ、大丈夫? どうしたの? さ――」
笑夢が心配そうな顔をして、こちらへ近づいてくる。
そっと、おずおずと手が差し伸べられる。
セーラー服の袖を捲り上げ、露出した肌色。産毛一本生えていない、卵のようなその肌に、俺の目は釘付けになった。
一〇代ならではの、水を弾く肌。
健康的に肉のついた、その腕。
あぁ、なんて。
なんて――――美味そうなんだ。
気づけば俺は、笑夢の腕に牙を立てていた。
「っ、きゃああああっ⁉」
鋭い悲鳴が上がり、教室中が騒然とする。
だが、そんな喧騒はどうでもよかった。
突然襲ってきた痛みの正体が分かった――――空腹だ。
耐え難い痛みとなって、空腹が身体を蝕んでいたのだ。
加減する気さえ起きず、笑夢の腕に噛みついていく。顎が砕けんばかりの全力でだ。ぶちぶちと肉が千切れていく音が、口の中から頭蓋を通して聞こえてくる。裂けた肉の割れ目から真っ赤な血が溢れ出し、一滴も零さぬように啜り上げる。
喉を通っていく感触が、ありありと分かった。
あぁ――――美味い。
砂漠で見つけた甘美なるオアシスのようだ。
飲めば飲むほどに、喉を潤せばその度に、逆に焼けつくように渇いていった。食道が焼け爛れていくかのごとく、張りつくような痛みに襲われる。
もっと、もっとだ。もっともっともっともっと!
もっと、血が欲しい。肉を食みたい。
目の前にいる人間全てが――――美味そうな餌に見えてしまう。
「っ、離れろこの野郎っ!」
頬に強い衝撃を受け、俺の歯はようやく笑夢の腕から離れた。枝垂の、渾身の右ストレート。まともに受ける体勢など取っていなかった俺は、易々と吹っ飛ばされた。
なのに、まったく痛くない。
ただ押し退けようとする衝撃だけを受けて、身体が開きかけの扉にぶつかった。
「氏村、大丈夫か? ――――てめぇっ! 一体なんのつもりだ!」
枝垂が語気を荒らげながら、尻餅をついた格好の俺を睨んでくる。
俺は、なんでこんなことを?
痛みに喘ぐ笑夢の腕からは、ぼたぼたと血が流れ出している。歪な歯型がくっきりと刻まれ、破けた皮膚が、裂けた肉が無残に覗いている。
俺が、俺があれをやったのか?
でも、一体なんのために?
今もなお、頭をぐるぐると混乱させる空腹を、紛らわすために?
俺は――――笑夢を、喰おうとしたのか?
「う、うぅううううう……!」
なんで、どうして、理解ができない。
俺は、俺はなんだ? なんで人を喰おうとした? 大事な友達を。そうだ、友達だ。友達の筈だろう。なのになんで、俺のことを知らないなんて言うんだ? なんでみんな、俺のことを白い目で見るんだ? 俺に、俺に一体なにが起きているんだ?
混乱が絶頂に達し、頭がパンクしそうになる。
いっぱいいっぱいの脳が、僅かな空き容量で囁く――――腹が減った、と。
喰いたい、喰いたい、と。
目の前の人間を喰い尽くしてしまいたい、と――――
「うぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ⁉」
喉が裂けんばかりに叫び、頭をがりがりと引っ掻いて。
怖くて、怖くて、恐ろしくて。
俺は落ちた鞄を拾うのも忘れて、教室から逃げ出した。
常識的に考えて、人間は一〇分近く全力で走ることなんて、普通ならできやしない。
何キロ走ってもペースを崩さずにいられるのは、マラソンとか駅伝とか、そういう競技に向けて鍛錬を積んだ選手だけだ。一般的な、運動部に入ってる訳でもない平凡な高校生に過ぎない俺が、全力疾走を一〇分以上も続けられたことは、はっきり言って、異常事態だった。
けど、遅刻するかどうかの瀬戸際で焦っていた俺が、それをおかしく思うことはなかった。
大して息を切らしもせず、いつもの半分以下の時間で学校へ辿り着いたことを、俺は無邪気に喜んでいた。
まだこの時の俺は、いつも通りの日常が、ちょっと調子を狂わせただけだと思っていた。
だから、なんの疑いもなく教室に入り。
なんの衒いもなく、お馴染みの級友に挨拶をした。
「おはよう、枝垂。笑夢。いやぁ、遅刻しなくてよかったぜ」
まだHRまでは間がある時間だったが、俺は笑い話のつもりでそう言った。
「おいおい草薙、まだ遅刻を気にするような時間じゃないぜ?」と、枝垂が小気味よく返してくれるのを待っていた。「どうしたの鎖天っち。妹ちゃんと別れがたくて長々とちゅーしちゃってたん?」と、笑夢がおどけてきたら殴ってやろうと構えていた。
けど、返ってきたのは想定外の言葉だった。
「……おまえ、誰だ?」
じろ、と枝垂が俺のことを睨んでくる。明らかに、訝しんでいる目だ。そんな目を向けられて、俺は思わず固まってしまった。
……え? 誰だって……なに? どういう意味だ?
「お、おい、枝垂。なに言ってんだよ」
「こっちの台詞だ。おまえ、一体誰だ? なんで俺の名前を知ってんだ?」
……なにを、言ってるんだ?
助けを求めるように笑夢の方を見るが、笑夢も俺と同じように固まってしまっていた。俺と枝垂、双方を目だけできょろきょろ見回している。まるで、どうしたらいいのか分からないように。
「違うクラスの奴? いや、違うな。三年も同級生やってんだ、今更知らない顔なんていやしねー。後輩にも見覚えねーぞ、おまえみたいな奴。一体何者だ?」
「お、俺だよ。鎖天だよ。草薙鎖天! なんだよ、知らない振りとか性質が悪い冗談だな……も、もういいだろう? こんなおふざけ、やめにしてくれよ!」
「くさなぎ……さてん……知らない。そんな名前、知らねーぞ。なぁ、氏村」
「へ? え、あ、え、と……」
「……おまえ、一体誰だよ。事と次第によっちゃ、今すぐ先生呼んでこなくちゃならねー」
椅子に座っていた枝垂はやおら立ち上がり、糾弾するように俺を睨んでくる。
枝垂の目は、本気だった。
冗談であってくれ、悪ふざけであってくれと、心の中で何度も祈った。しかし、現実は非情に、あり得ない事実を突きつけてくる。
本当に、枝垂は俺のことを『知らない人間』として見ていた。
なんで、どうして……そんなこと、あり得ないだろう?
昨日まで、あんな仲良く馬鹿話に花を咲かせていたじゃないか。
なのに、たった一日で、どうして――――
「うっ……ぐぅ……⁉」
それは、突然襲いかかってきた。
身体をくの字に折り曲げるほどの、強烈な腹痛。腹の中がざわざわと騒ぎ出し、痛みという形でなにかを訴えてくる。
歯を食い縛らなければ、苦悶の呻きを漏らしてしまいそうな激痛。
鞄なんて持っていられなかった。手から自然と力が脱け、どさりと床に落ちる。クラス中の白い目線が突き刺さる。辛うじて顔を上げている俺は、そんな目線を一身に受けながら、まるで関係ないことを考えていた。
「だ、大丈夫? どうしたの? さ――」
笑夢が心配そうな顔をして、こちらへ近づいてくる。
そっと、おずおずと手が差し伸べられる。
セーラー服の袖を捲り上げ、露出した肌色。産毛一本生えていない、卵のようなその肌に、俺の目は釘付けになった。
一〇代ならではの、水を弾く肌。
健康的に肉のついた、その腕。
あぁ、なんて。
なんて――――美味そうなんだ。
気づけば俺は、笑夢の腕に牙を立てていた。
「っ、きゃああああっ⁉」
鋭い悲鳴が上がり、教室中が騒然とする。
だが、そんな喧騒はどうでもよかった。
突然襲ってきた痛みの正体が分かった――――空腹だ。
耐え難い痛みとなって、空腹が身体を蝕んでいたのだ。
加減する気さえ起きず、笑夢の腕に噛みついていく。顎が砕けんばかりの全力でだ。ぶちぶちと肉が千切れていく音が、口の中から頭蓋を通して聞こえてくる。裂けた肉の割れ目から真っ赤な血が溢れ出し、一滴も零さぬように啜り上げる。
喉を通っていく感触が、ありありと分かった。
あぁ――――美味い。
砂漠で見つけた甘美なるオアシスのようだ。
飲めば飲むほどに、喉を潤せばその度に、逆に焼けつくように渇いていった。食道が焼け爛れていくかのごとく、張りつくような痛みに襲われる。
もっと、もっとだ。もっともっともっともっと!
もっと、血が欲しい。肉を食みたい。
目の前にいる人間全てが――――美味そうな餌に見えてしまう。
「っ、離れろこの野郎っ!」
頬に強い衝撃を受け、俺の歯はようやく笑夢の腕から離れた。枝垂の、渾身の右ストレート。まともに受ける体勢など取っていなかった俺は、易々と吹っ飛ばされた。
なのに、まったく痛くない。
ただ押し退けようとする衝撃だけを受けて、身体が開きかけの扉にぶつかった。
「氏村、大丈夫か? ――――てめぇっ! 一体なんのつもりだ!」
枝垂が語気を荒らげながら、尻餅をついた格好の俺を睨んでくる。
俺は、なんでこんなことを?
痛みに喘ぐ笑夢の腕からは、ぼたぼたと血が流れ出している。歪な歯型がくっきりと刻まれ、破けた皮膚が、裂けた肉が無残に覗いている。
俺が、俺があれをやったのか?
でも、一体なんのために?
今もなお、頭をぐるぐると混乱させる空腹を、紛らわすために?
俺は――――笑夢を、喰おうとしたのか?
「う、うぅううううう……!」
なんで、どうして、理解ができない。
俺は、俺はなんだ? なんで人を喰おうとした? 大事な友達を。そうだ、友達だ。友達の筈だろう。なのになんで、俺のことを知らないなんて言うんだ? なんでみんな、俺のことを白い目で見るんだ? 俺に、俺に一体なにが起きているんだ?
混乱が絶頂に達し、頭がパンクしそうになる。
いっぱいいっぱいの脳が、僅かな空き容量で囁く――――腹が減った、と。
喰いたい、喰いたい、と。
目の前の人間を喰い尽くしてしまいたい、と――――
「うぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ⁉」
喉が裂けんばかりに叫び、頭をがりがりと引っ掻いて。
怖くて、怖くて、恐ろしくて。
俺は落ちた鞄を拾うのも忘れて、教室から逃げ出した。