草薙鎖天は斯く微睡みへ落つ

文字数 3,267文字

 どこをどう通ってきたのか、俺はほとんど覚えていなかった。
 気がついた時には、すっかり見慣れてしまった煤けた天井を見上げていた。
 埃臭い空気が、喉の穴からひゅーと抜けていく。その穴も、攻撃を食らった時と比べればだいぶ小さくなっていた。

 拠点と定めた、廃墟の一室。
 その中で俺は、舞沙の膝枕に寝転がっていた。
 手足を投げ出した五体投地の姿勢。仰向けの視界が映すのは天井と、険しい表情を浮かべた舞沙の顔だ。すっかり日も暮れ果ててしまい、あたりは真っ暗な闇が包み込んでいる。仄かに光る舞沙の身体が、唯一の照明だ。その朧気な光は、時折激しく明滅を繰り返している。

「もう少しね。だいぶ塞がってきた。修復不可能なほどに喰われてなくてよかったわ。あなたが咄嗟に【蟲】を散らしたのが、功を奏したわね」
「あぁ……」

 ぼんやりと、舞沙の言葉に応える。
 俺の身体は、酷く損傷していた。右腕の欠落。首筋と脇腹には風穴が空き、傷口からごろごろと内臓が転がり出ていた。両足の腱は喰い破られ、ひとりで立つこともままならない。
 その傷跡を、舞沙は【蟲】を使って修復してくれていた。
【蟲】が俺の肉の、肌の代わりをするのではない。【蟲】が有している生命力を利用して、傷口の細胞分裂を急激に早めているのだそうだ。要は、傷が治る手順を無理矢理早送りにしているようなものか。もっと難しい言葉を使って舞沙は説明していたが、俺の理解力じゃこの辺りが限界だった。
 大量の【蟲】と、相応の集中力が要るらしく、舞沙はあの神々しい姿から、普段の少女然とした格好に戻っていた。

 じゅくじゅく、じゅくじゅくと。
 少しずつ、ほんの少しずつ肉が、肌が伸びていく。
 傷が、癒着していく。
 ただ、一箇所を除いて。

「…………」
「……ごめんなさい、鎖天。さすがに、腕を生やすことはできないわ。不便でしょうけど、我慢してちょうだい」
「……あぁ」

 ただ一箇所、右腕については。
 切断されていたなら、話は違っていただろう。舞沙が出会った時に見せてくれたように、くっつけることもできただろう。
 けど、俺の右腕はもう、存在しないのだ。
 けしかけられた【蟲】の大群によって、跡形もなく喰われてしまった。
 剥き出しになった肉と骨を隠すために、皮膚を伸ばして癒着させる。

 ――――そんな満身創痍な己の身が、どうでもよかった。
 修復の進捗状況にも、生返事を返すだけ。そのくらい、興味がなかった。
 身を入れることが、できなかった。
 どれだけ傷が塞がっても、どれだけ惨い傷跡が残っても。
 今も胸を苛むこの空虚とは、比べるべくもないだろうから。

「……環」

 名前を呟いても、返される言葉はない。
 環は、行ってしまった。
 あの女の元へ。
 霧々須心愛の元へ。
 俺を、守るために。
 俺が、殺されないように。

 せっかく、せっかくまた会えたのに。
 生きていたのに。
 またいなくなった。いなくなってしまった。
 絶望的な空白が、脳髄を刺激する。吐き気が込み上げてきて、息が苦しい。

 あぁ、環。環。環。
 環に、会いたい。
 環と、話したい。
 環と、触れ合いたい。
 環と、通じ合いたい。
 環と、環と、環と――

「……本当に、大切なのね。草薙環が。いもうとが」

 呆れたような溜息が、鼻をくすぐってきた。
 顔を覗き込んできた舞沙が、肩を落としながら言ってきたのだ。目は半開きで、俺のことをじとーっと見つめている。なにか言いたげな、憂いを帯びた表情で、舞沙は再び溜息を吐いた。

「りょうしんを殺されて、ともだちを殺されて、くらすめーとを殺されて、自分自身さえ殺されてなお、いもうとのことが大事なの?」
「……大事だよ。大切だ。世界でたったひとりの、愛しい妹なんだからな」
「けど、今の草薙環は、あなたの知っている草薙環ではないわ。既に数百人もの犠牲者を生み出した、恐るべき殺人鬼よ。あなたの知っている、可愛らしい無邪気ないもうととは、なにもかも違う。幾多の罪を犯した、罰せられるべき存在よ」
「……あいつは、環は、悪くない」

 数百人を殺した。
 恐るべき殺人鬼。
 いや、違う。それは、環の本質じゃない。
 本当の環は、そんなんじゃないんだ。

「悪いのは……あいつに道を誤らせたのは、霧々須心愛だ。あいつが、あいつが環を唆したんだ。あいつが環を操って、あんなことをさせたんだ」

 そうだ、そうだ、そうに違いない。
 環は、本当は優しい子だ。
 虫も殺さない可憐な少女だ。
 無邪気で愛しい天使のような娘だ。
 あんな、あんな大惨事を引き起こすような奴じゃない。

「霧々須が……あいつが、悪いんだ。あいつが、環を凶行に走らせた。あいつさえいなければ、環は今まで通り、可愛らしい女の子でいられたんだ。あいつが、あいつが、あいつが……!」
「…………」
「俺は、霧々須心愛を許さない」

 許さない。許せない。
 俺から全てを奪った、その元凶を。
 環を凶行に駆り立てた、諸悪の根源を。
 人を人とも思わない人でなし、霧々須心愛こそが俺の怨敵だ。

「霧々須心愛を捕まえる。殺す。罰する。誅する。どんな手を使ってでも、あいつから環を取り返す。環は、俺の妹だ。あいつの人形じゃない。絶対に、絶対に取り戻してみせる……!」
「……仮に、霧々須心愛から草薙環を取り返したとして、その後はどうするの? 草薙環は、既に数百人を殺害しているのよ? お咎めなしって訳にはいかないと思うけど」
「それは……取り返してから考えるさ」
「そう……悠長ね」
「環は、確かに悪いことをした。けど、本当に悪いのは霧々須だ。純真な環を唆し、悪の道へ引きずり込んだ霧々須心愛だ。あいつだけは、許しちゃおけない」

 霧々須心愛を打倒し。
 環を、妹を取り返す。
 それが、俺の使命だ。生き返った意味だ。
 俺の命は、妹を救うためにあるんだ。

「舞沙……協力、してくれるか?」
「…………」
「俺ひとりじゃ、霧々須には対抗できない。今日みたいに、無様に喰われるだけだ。【蟲】を操るあいつと戦うには、【蟲】を喰えるあんたの協力が必要なんだ。なぁ、頼むよ、舞沙……俺の妹を、助けてくれ……!」
「……あなたのいもうとのことは、正直どうでもいいのだけど」

 けど、目的は一致しているわ。
 さわさわと、今にも解けそうな脆い手が頬を撫でる。

「私も、霧々須心愛を放置してはおけないわ。【蟲】を好き勝手に人殺しの道具として使うあいつを、私は許せない。殺してでも止める、その覚悟を持っているわ。それに……あなたを生き返らせたのは、私だしね。あなたが自分の命にそういう意味を与えるなら、生き返らせた本人である私も、追従するべきだと思うわ」
「舞沙……!」
「あなたに協力する。出し惜しみはしないわ、なんでも言ってちょうだい。それが、あなたを生き返らせた私の、果たすべき責任だもの」
「……ありがとう。恩に着る」

 ぐ、と強く左の拳を握り締める。
 傷が癒えたら、やることは山のようにある。霧々須を、環を探さなければ。
 これ以上の凶行を犯させないために。
 環がこれ以上、罪を重ねないように。
 兄として、俺が守ってやらないと。
 妹を愛する、ひとりの兄として。
 目に入れても痛くない妹のために。
 殺されても許してしまう、愛しい妹のために。
 俺はこの仮初の命を使い切ろう。
 固く、固く、決して揺るがないように強く、俺は誓う。
 他でもない俺自身に。
 決意し、そして、ゆっくりと目を閉じる。

 全ては、傷が治ってからだ。
 今は、少し眠ろう。
 今日は――――疲れた。

「おやすみ、舞沙」
「えぇ、おやすみなさい、鎖天。起きる頃には、修復は終わっているわ」

 舞沙の声が、朧気に聞こえる。
 意識は微睡みの中に容易く落ちていき、俺は意識を手放した――
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