2 草薙鎖天は斯く朝を過ごす
文字数 2,169文字
この俺、草薙鎖天 には、誰にでも自慢できることがひとつある。
妹、環の存在だ。
現在中学一年生。今年で一三歳。身長は低いが、手足がすらりと長く、はにかむような笑顔が特徴的なとても可愛らしい妹だ。兄としての贔屓目なしでも、彼女はずば抜けて可愛く、群を抜いてお茶目で、頭抜けて愛らしい。世界中のありとあらゆる妹を集めて束にしても、俺の妹には敵わないだろう。
眉目秀麗、純情可憐、謹厳実直とは環のためにある言葉である。少なくとも、俺の辞書にはそう書いてある。成績優秀で、将来を嘱望されている環は、俺みたいな平凡な奴から見れば雲の上の存在だ。にもかかわらず、環は兄である俺によく懐いてくれていて、一般的な兄妹よりはいくらか仲がよいと言えるだろう。それが俺は、素直に嬉しい。
愛しの妹のためなら、俺はきっとなんだってできるだろう。
そんな妹に連れられて、リビングへと歩いていく。結局、五分どころか二〇分近く二人で布団の温もりを楽しんでいたため、髪は寝相でぼさぼさ、欠伸交じりの行進だった。だが、廊下を進む足取りは軽く、今日も希望に満ちた一日の始まりだった。
「あら、おはよう鎖天。遅かったわね」
「おう、おはよう」
リビングで待っていた両親と軽い挨拶を交わす。
四人がけのテーブル、父親の真正面に俺が座り、その右隣に環がちょこんと腰かける。
脚をぷらぷら揺らしながら、環は目の前に用意された朝食を行儀よく食べていく。
美味そうに飯を食う姿を見ていると、俺もなんだか腹が減ってきた。テーブルには目玉焼きとサラダ、トーストしたパンが置いてある。焼けたパンの香ばしい匂いが、なんとも食欲をそそる。手を合わせ、小声で「いただきます」と言って、俺も朝食を食い出した。
のどかな時間が過ぎていく。
いつもと変わらない、朝の風景だ。
母親が家事をこなす音。父親の新聞を捲る音。そして隣で、環が朝食を食べる音。
全てのハーモニーが合わさって、幸せな旋律を奏でている。
きっと何年経っても、この時間は変わるまい。
このゆったりとした時間が、俺はなにより好きだった。
「鎖天。あんた、今日は日直だとか言ってなかった? そんなのんびりしてて大丈夫?」
「え? そうだったっけ? ――――やべぇ」
壁掛け時計を見ると、時刻は七時半を示している。
普段の登校ならなんの問題もないが、日直の仕事がある場合は話が別だ。急がなければ遅刻してしまう。
残った朝食を一気に掻き込み、牛乳を一息で飲み干す。あっという間にテーブルの上の食事を片付けると、俺は急いで着替えに向かった。制服に着替え、鞄を持って家を出るまで五分。まだなんとか間に合う時間だ。
大急ぎで部屋に戻り、すっかり身体に馴染んだ黒の学ランを着込むと、母親が用意してくれていた弁当をひっつかんで、急いで玄関へ――
「おにいちゃん」
と。
慌てて支度をする俺に、環が静かな声で言ってくる。
「いつものあれ、まだしてないよ?」
「――――あぁ、そうだったな。悪ぃ悪ぃ」
しまった、急ぎ過ぎてうっかりしていた。
俺としたことが、こんな大事なことを忘れてしまうとは。
椅子に逆さに座った環が、ぷんぷんと頬を膨らませながら唇を突き出してくる。そこに俺は、自分の唇を優しく重ねた。
いってきますのちゅーだ。
毎朝欠かすことのない、恒例行事。
マシュマロを思わせる、甘い香りと柔らかい感触。睡眠を求めていた脳が完全に覚醒していくのが分かる。まるで、唇伝いに環の元気を分けてもらっているかのようだ。
ちろぉ、と。
環の小さな舌が、唇の隙間から伸びてきた。
俺の口の中へ入り込んだそれは、ちろちろと口内をつついてくる。ぞわぞわと、背筋が震えるような感覚が走った。
反射的に、俺は身を引いていた。
「うぁああ……環。今のぞくぞくして苦手だから、やめてくれって言ったじゃんか」
「えへへへ~。ごめんね、おにいちゃん」
「まぁ、いいけどさぁ。明日からはやめてくれよ? 背筋がこう、ぞくぞくっと震えてふわふわしちまうんだ。なんか怖い」
「は~い。えへへ~、おにいちゃんの味だぁ」
悪戯っぽくはにかみながら、環は舌なめずりをする。
まったく、とんだキス魔な妹だ。
まぁ、俺も嫌じゃないから、いいんだけどな。
「んじゃ、行ってくるよ。今日は少し遅くなる」
「うん、分かった。いってらっしゃい、おにいちゃん」
軽く挨拶を交わして、俺は仏間へと向かった。
いってきますのちゅーもそうだが、もうひとつ、外せない日課がある。
窓から燦々と差し込む日差しを浴びて、煌めく仏壇。そこには小さく、ぽつんと位牌が置かれていた。
りんを鳴らし、手を合わせて目を閉じる。
「行ってくるな、姉ちゃん」
言って、脇に置いていた荷物をひったくると、俺は急いで玄関へと向かった。
今日もいつもと変わらない、平穏な一日が始まるのだ。学校でつまらない授業を受け、級友と馬鹿話をして、帰ったらまた環と抱き合って、一緒に夕飯を食べて、寝る。なにも変わらない、変わり映えしない毎日だ。
少なくとも、俺は。
朝のこの時点では、そう信じて疑わなかった。
妹、環の存在だ。
現在中学一年生。今年で一三歳。身長は低いが、手足がすらりと長く、はにかむような笑顔が特徴的なとても可愛らしい妹だ。兄としての贔屓目なしでも、彼女はずば抜けて可愛く、群を抜いてお茶目で、頭抜けて愛らしい。世界中のありとあらゆる妹を集めて束にしても、俺の妹には敵わないだろう。
眉目秀麗、純情可憐、謹厳実直とは環のためにある言葉である。少なくとも、俺の辞書にはそう書いてある。成績優秀で、将来を嘱望されている環は、俺みたいな平凡な奴から見れば雲の上の存在だ。にもかかわらず、環は兄である俺によく懐いてくれていて、一般的な兄妹よりはいくらか仲がよいと言えるだろう。それが俺は、素直に嬉しい。
愛しの妹のためなら、俺はきっとなんだってできるだろう。
そんな妹に連れられて、リビングへと歩いていく。結局、五分どころか二〇分近く二人で布団の温もりを楽しんでいたため、髪は寝相でぼさぼさ、欠伸交じりの行進だった。だが、廊下を進む足取りは軽く、今日も希望に満ちた一日の始まりだった。
「あら、おはよう鎖天。遅かったわね」
「おう、おはよう」
リビングで待っていた両親と軽い挨拶を交わす。
四人がけのテーブル、父親の真正面に俺が座り、その右隣に環がちょこんと腰かける。
脚をぷらぷら揺らしながら、環は目の前に用意された朝食を行儀よく食べていく。
美味そうに飯を食う姿を見ていると、俺もなんだか腹が減ってきた。テーブルには目玉焼きとサラダ、トーストしたパンが置いてある。焼けたパンの香ばしい匂いが、なんとも食欲をそそる。手を合わせ、小声で「いただきます」と言って、俺も朝食を食い出した。
のどかな時間が過ぎていく。
いつもと変わらない、朝の風景だ。
母親が家事をこなす音。父親の新聞を捲る音。そして隣で、環が朝食を食べる音。
全てのハーモニーが合わさって、幸せな旋律を奏でている。
きっと何年経っても、この時間は変わるまい。
このゆったりとした時間が、俺はなにより好きだった。
「鎖天。あんた、今日は日直だとか言ってなかった? そんなのんびりしてて大丈夫?」
「え? そうだったっけ? ――――やべぇ」
壁掛け時計を見ると、時刻は七時半を示している。
普段の登校ならなんの問題もないが、日直の仕事がある場合は話が別だ。急がなければ遅刻してしまう。
残った朝食を一気に掻き込み、牛乳を一息で飲み干す。あっという間にテーブルの上の食事を片付けると、俺は急いで着替えに向かった。制服に着替え、鞄を持って家を出るまで五分。まだなんとか間に合う時間だ。
大急ぎで部屋に戻り、すっかり身体に馴染んだ黒の学ランを着込むと、母親が用意してくれていた弁当をひっつかんで、急いで玄関へ――
「おにいちゃん」
と。
慌てて支度をする俺に、環が静かな声で言ってくる。
「いつものあれ、まだしてないよ?」
「――――あぁ、そうだったな。悪ぃ悪ぃ」
しまった、急ぎ過ぎてうっかりしていた。
俺としたことが、こんな大事なことを忘れてしまうとは。
椅子に逆さに座った環が、ぷんぷんと頬を膨らませながら唇を突き出してくる。そこに俺は、自分の唇を優しく重ねた。
いってきますのちゅーだ。
毎朝欠かすことのない、恒例行事。
マシュマロを思わせる、甘い香りと柔らかい感触。睡眠を求めていた脳が完全に覚醒していくのが分かる。まるで、唇伝いに環の元気を分けてもらっているかのようだ。
ちろぉ、と。
環の小さな舌が、唇の隙間から伸びてきた。
俺の口の中へ入り込んだそれは、ちろちろと口内をつついてくる。ぞわぞわと、背筋が震えるような感覚が走った。
反射的に、俺は身を引いていた。
「うぁああ……環。今のぞくぞくして苦手だから、やめてくれって言ったじゃんか」
「えへへへ~。ごめんね、おにいちゃん」
「まぁ、いいけどさぁ。明日からはやめてくれよ? 背筋がこう、ぞくぞくっと震えてふわふわしちまうんだ。なんか怖い」
「は~い。えへへ~、おにいちゃんの味だぁ」
悪戯っぽくはにかみながら、環は舌なめずりをする。
まったく、とんだキス魔な妹だ。
まぁ、俺も嫌じゃないから、いいんだけどな。
「んじゃ、行ってくるよ。今日は少し遅くなる」
「うん、分かった。いってらっしゃい、おにいちゃん」
軽く挨拶を交わして、俺は仏間へと向かった。
いってきますのちゅーもそうだが、もうひとつ、外せない日課がある。
窓から燦々と差し込む日差しを浴びて、煌めく仏壇。そこには小さく、ぽつんと位牌が置かれていた。
りんを鳴らし、手を合わせて目を閉じる。
「行ってくるな、姉ちゃん」
言って、脇に置いていた荷物をひったくると、俺は急いで玄関へと向かった。
今日もいつもと変わらない、平穏な一日が始まるのだ。学校でつまらない授業を受け、級友と馬鹿話をして、帰ったらまた環と抱き合って、一緒に夕飯を食べて、寝る。なにも変わらない、変わり映えしない毎日だ。
少なくとも、俺は。
朝のこの時点では、そう信じて疑わなかった。