1 草薙鎖天は斯く言葉を交わす

文字数 4,223文字

 氏村笑夢との出会いは、高一の春にまで遡る。

 満開の桜に見送られての入学式。ある種の緊張と気だるさが綺麗に両立した心持ちで臨んでいたさなか、俺はうっかり、生徒手帳の入ったパスケースを落としてしまった。
 近くに立っていたひとりの女子が、ひょいとそれを拾い上げてくれた。
 俺は礼を言おうとそいつへ手を伸ばしたのだが、そいつはじぃっと、俺の生徒手帳を見つめていた。そして、パスケースに挟まった写真を指さして、俺に問いかけてきた。

『彼女さんかな? それとも妹ちゃん?』

 式の真っ最中だというのに、声のボリュームに遠慮がなかったのを覚えている。
 周囲が顰め面で睨んでくるのをお構いなしに、そいつはキラキラした笑顔で俺の顔を覗き込んできた。あぁ、こいつは人の話とかどうでもいいタイプなんだな、というのが、今から思えば第一印象だっただろう。

『……妹だよ』
『へー。可愛いね、うん、可愛いじゃん。んでんで? そんな可愛い妹ちゃんの写真を肌身離さずなんて、もしかして君はシスコンさんなのかな?』
『断じて違う!』

 思い返してみれば、あの時の俺はどうかしていた。
 周りの新入生たちが、遠巻きにそれを囲む教師たちが、一斉に俺へと目を向けていた。校長の演説なんか、一時中断していたかもしれない。だが、そんな視線も静寂も、俺を止めるには至らなかった。それくらい、シスコン呼ばわりは俺にとって許し難い侮辱なのだった。

『俺は妹を愛しているだけだ! 断じてシスコンではない! あんな精神病質と一緒にしないでくれ! 不愉快だ!』
『……いひひっ』

 俺の怒号を聞いて。
 そいつは、実に楽しそうな笑顔を浮かべていた。

『いひひひひひっ、そっかそっか、シスコンじゃないさんなのか。おっけーおっけー、分かったよん。君はシスコンじゃない、私の失言だったね。ごめんごめん』

 言いながら、そいつは手を差し出してきた。
 握手を求める形のそれに、俺は一瞬、ぽかんとした表情を返していた。

『君、面白いね。私さ、面白い人は大好きなんだ。だから友達になろうよ。ね? 私は氏村笑夢。これからよろしくね。えーっと……』
『……草薙、鎖天だ』
『へぇ、変わったお名前。まぁいいや。よろしくね、鎖天っち』
『……よろしくはいいんだが』

 衆目の注目が俺たちに集まっているのに、俺は遅ればせながら気がついた。好奇の視線に晒されるのは、正直心地が悪い。針のむしろに座らされたような居心地の悪さを感じつつ、俺は続けた。
 握手するより、ひとつ前に。
 友達と呼ぶことの、一歩前に。

『俺の生徒手帳、返してくれないか?』
『いひひー、友達になってくれるなら返してあげなくもないぜー』

 ――――今から思えば、かなり素っ頓狂な。
 いや、いつ思い出しても、なんなら当時でさえ奇矯な奴と出会ったものだと思う。
 底抜けに明るくて。
 邪気なんてものに縁がなくて。
 人の心の奥にずかずかと入り込んでくるくせに、不思議と人を傷つけない。
 距離感の測り方が上手かったのかもしれない。
 多少人騒がせではあったが、俺と笑夢は、そうして出会い、そして友達になった。

 その友情さえ、消え失せたものだと思っていた。
 記憶と共に、【蟲】に喰われてなくなったものだと。
 なのに。
 なのに、そいつは。

「笑夢……おまえ、俺を、覚えてるのか……⁉」

 笑夢は、いつもと同じ笑顔で。
 いつもと同じ声で。
 いつもと同じように、俺の名を呼んだ。
 夕陽に照らされ、伸びた影が俺を日陰に追いやる。表情が影に隠れ、ぼんやりと見えなくなっていく。
 俺を。
 草薙鎖天を、覚えているのか?

「いひひっ。もう噛みついてはこないみたいだねー。安心安心」

 笑夢は。
 影に埋もれても分かるくらい、けらけらと声を上げて笑った。
 あぁ、いつもの笑夢だ。
 昨日までと同じ、下らないことでふざけ合った、氏村笑夢だ。
 もう二度と言葉を交わすことが叶わないと思っていた――――じん、と胸が熱くなる。思わず涙腺が緩んでいき、今にも涙をこぼしそうだった。

 覚えていてくれている。
 俺のことを、忘れないでくれている。
 そのことが、とめどなく嬉しかった。

「笑夢、おまえ……俺のことが、分かるのか? ちゃんと、覚えていてくれたのか?」
「あったり前じゃーん。友達のことだよ? 忘れる訳ないって」
「……本当、に……?」
「しつっこいなぁ。そんな疑わなくてもいいってば。……いひひっ、なんかその分じゃ、随分大変なことになってるみたいだね。鎖天っち」
「……分かる、のか?」
「なにが起きてるのかは、私にも分かんないよ。けど、なんだか鎖天っちが困ってるっていうのは分かる。友達だからね。笑夢っちはそんな友達のことを放ってはおけないのさ」

 ふざけた調子で笑うと、笑夢はその場でくるくると回った。

 友達だから分かる――――強がりだ。
 笑夢は今も、怖がっている。
 はしゃぎ回る脚の動きが、精彩に欠ける。脚に比して腕が動いていない。こいつは、赤ん坊がそのままでかくなったような奴だ。賑やかな時は手脚をとにかくばたつかせる。包帯を巻いた右腕を庇うようにしているのは、まだ俺のことを恐れている証だろう。
 俺が、不意に牙を剥かないか。
 朝のように襲いかかってこないか、怖がっているのだろう――

「ごめんね、鎖天っち」

 と。
 笑夢は直角に腰を曲げ、深々と礼をしてきた。
 そして、謝ってきた。
 謝ってきた?

「お、おいなにやってんだよ笑夢。ごめんって言うなら、俺の方だろ? 朝、いきなり襲いかかったりして……謝っても、謝り切れない……」
「様子が変だな、とは、最初から思ってたんだ」

 頭を伏せたまま、笑夢は続ける。

「鎖天っちのことに、枝垂っちが触れてこないし、妙な空気はあったんだ。だけど、まさか、みんなが、鎖天っちのことを忘れてるなんて、そんな大事になってるとは思わなかったんだ。あの時は……上手くフォローしてあげらんなくて、ごめん」
「や……やめてくれよ。頭を上げてくれ、笑夢。そんなこと、謝られたって……」

 あの時、俺の体内の【蟲】は餌を欲していた。目の前にいたのがたまたま笑夢だったから、無我夢中に噛みついただけだ。笑夢があの時、記憶から失われた俺のことをどうフォローしたとしても、結局行き着く先は変わらなかっただろう。笑夢か、或いは他の誰かに噛みついて、騒ぎを大きくしていただろう。
 だから、謝らないでくれ。
 そんなことまで謝られたら、申し訳なさで死にたくなる。

「ん、まぁ意味がないのは分かってるんだけどね。私が謝りたいから謝った、ただの自己満足。いひひっ。そんなんでもちゃんと受け止めてくれる、真面目な鎖天っちは好きだよー。勿論、友達としてだけど、ね」

 ひょい、と顔を上げると、笑夢はいつも通り笑っていた。
 悪戯っぽく、なにか企んでいるような笑みを。

「……ごめんな、笑夢」
「んー? なにが?」
「その、腕……いきなり、噛みついたりして」
「あー、うん。びっくりしたよ。痛いとかそういうの吹っ飛んで、ただただびっくりしちゃった。人間に噛みつかれるなんて、想像だにしてなかったからね。鎖天っち、狂犬病? それとも過激なキスマーク? マーキング? 鎖天っちってば私にマーキングなの?」
「いや、違……なんて言ったらいいか。なにより、おまえがそれで納得してくれるかどうか……信じて、くれるかどうか」
「信じるよ。鎖天っちの言うこと、全部信じたげる」

 ふんすっ、と荒く鼻息を吐きながら、笑夢は豊満な胸を張った。はち切れんばかりに強調された胸は、今にもセーラー服を破り捨ててしまいそうだった。

「し、信じるって……自分で言うのもなんだが、すごい荒唐無稽な話だぞ? 常識とか隅に追いやった、意味不明な夢物語だ。それを、信じるって……」
「いやー、寧ろ荒唐無稽な方が理解できるよ。だって、クラス中のみんなが鎖天っちのことを綺麗さっぱり忘れてるっていう、非現実的なことが起きちゃってんだもん。今更常識さんに説明は求めないよ。意味不明な方が意味が通ると思うし」

 ……確かに、その通りだ。
 理由は分からないが、笑夢だけが俺のことを覚えてくれている。【蟲】に記憶を損なわれず、俺に関する記憶を保持している。
 けどそれは、逆に言えば周りのみんなが俺のことを忘れている、ということで。
 そんな異常事態の中に身を置いていた笑夢は、どれだけ不安だっただろう。
 異常事態には、異常な道理の方が適う。
 俺の目には、笑夢が、この異常な状況に説明をつけてほしいと、訴えてるように見えた。

「……少し、長い話になるぞ。俺自身も、詳しくは把握していないから、歯切れの悪い説明になっちまうが……」
「うん。それでもなにも分かんないよりはずっとマシだよ。あ、長話になるなら、どっかでお茶でもしよっか。いい雰囲気の喫茶店知ってるんだ」
「あ、で、でも……」
「奢るよ? 今朝なにもできなかったお詫びにさ。あ、あんま高いのは勘弁ね?」
「……それは、助かるが……」

 お詫びと言うなら、俺の方こそだ。笑夢の身体に、深い傷を刻んでしまったことは、どれだけ謝っても償い切れるものではない。
 だが、懐事情が寂しいのは、無視できない事実だった。
 衆目のある場所に出るのは抵抗があったが、奢りという言葉は、如何とも抗い難い魅惑的な響きを持っていた。
 道端で、立ち話で済ませられるような内容でもないし……。

「うい、じゃあ決まりだね。ほら、こっちだよ鎖天っち。善は急げってね。あ、いま笑夢っち、頭いいこと言っちゃった? 言っちゃったかなー。いっひひひ」
「ちょ、引っ張んなよ笑夢!」

 俺の返事を待つことなく、笑夢は強引に俺の腕を引っ張っていく。唐突なそれに、俺は抵抗することができず、引き摺られるようにして笑夢の後をついていった。

 あぁ、そうだよ。こいつは、こういう奴だ。
 人の都合なんてお構いなしで、自分の気持ちにひたすら素直。見ていて気持ちのいい奴だ。
 昨日までと、なにも変わっていない。
 そんな笑夢の姿を見て、俺は薄く笑みを浮かべるのだった。
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