1 草薙鎖天は斯く聴衆と化す

文字数 7,000文字

「狂々理……舞沙……?」

 奇妙な名前だった。
 聞き覚えのない、恐らく勝手に作られたのだろう胡散臭い名字。下の名前が比較的普通なのも相まって、全体的に不穏な感じがまとわりつく響きだった。
 少女は――――舞沙は目線を逸らしながら続けた。

「はぁ……だから嫌なのよね、この名前。名乗る機会自体少ないけど、名乗れば必ずそんな顔されるんだもの。こんな名前をつけた奴、私は大嫌いだわ」
 まぁどのみち、あんな奴嫌いなのだけど。

 今にも唾を吐き捨てそうな勢いで、舞沙は言った。苛立っているのか、さわさわとそよ風に靡く髪を掻き毟っている。本当に、自分に名前をつけた親のことが嫌いなのだろう。
 いや、この少女の場合、親、というのも違うかもしれないが。
 だって、彼女は――

「ほら、こっちよ。鎖天」
「え?」

 手招きをしながら、舞沙は静かに移動していた。向かう先にあるのは、例の廃ビルだ。
 足が、地面についていない。
 地面から数センチ浮いて、彼女は浮遊していた。だから、動く際も足は動かさない。まるで彼女だけが見えないエスカレーターに乗っているかのようで、違和感を抑え切れない。

「? どうしたの、鎖天。そこじゃ声が響いて、表に聞こえちゃうわ。私はいいけれど、見知らぬ他人から変人扱いはされたくないでしょう?」
「……あ、あぁ」

 言われるがまま、俺は舞沙に従った。ふらつく足を踏ん張って立ち上がり、よろよろと廃ビルに向かっていく。
 張り巡らされたバリケード。舞沙はふっと姿を消したかと思うと、バリケードの向こうで手を振っていた。今の一瞬で、向こう側に移動したのだ。

 やはりこの少女、人間ではない。
 幽霊かなにか、分からないけど、人外の存在であることは確かだ。
 けど、今の俺には、彼女に従う以外に選択肢がない。
 なにが起こっているのか、まったく分からない現状において、頼れるのは彼女だけなのだ。
 全ての疑問に、答えられる範囲で答えると言ってくれた。
 苦悶さえ伴った飢えを渇きを、癒してくれたあの少女にしか。
 俺は、頼れない。

 バリケードを押し倒して、強引に中へと進んでいく。光もロクに入らない薄暗闇の中、舞沙の真っ白な姿だけが浮かび上がって見えた。
 少し進んだところで、舞沙は虚空に腰掛けるような体勢を取る。そこは風通しがいいのか、他のところと比べて埃が少なかった。咳き込みながらついていってたのだが、今は喉がだいぶ楽だ。

「ここでいいわ。さぁ鎖天、私になんでも訊いてちょうだい。分かる限りは答えるわ」
「なんでもって……」

 床に腰を下ろしながら、俺は悩んでいた。
 なんでも訊いてくれと言われても、こっちは分からないことだらけなのだ。なにから訊くのが正解なのか、まるで分からない。
 俺が頭を抱えていると、舞沙はくすくすと笑った。

「そんな難しく考えなくていいわ。あなた、真面目なのね。分からない時は、とにかく一番気になったことを訊いてみるのがいいわ。そこから話は転がっていくんだもの」
「一番、気になったこと……」

 俺が、一番気になったことは。
 それは、多分。

「……狂々理舞沙。あんた、一体なんなんだ?」

 目の前に座る、否、座ったような姿勢で浮かぶ少女。
 明らかに人間ではない彼女のことが、目下一番の関心事だった。

「私が、なんなのか、かぁ。いい訊き方だわ。私が人外の存在、化生の類であることを下敷きにした訊き方だわ。結構頭は回るみたいね」
「そういうのはいいから、早く答えてくれよ。こっちは分からないことだらけで、気が変になりそうなんだ」
「それは可哀想に……。でも私、そこまで大それたことはしてないわよ? あなたを生き返らせたくらいだし……」
「それも、分からない。生き返らせたって、俺は、死んだのか? どうして? 一体なにが」
「あぁストップストップ。矢継ぎ早に質問されても返答に困るわ。ひとつずつ答えさせて。――――まず、私の正体だけど。鎖天、あなた、【蟲】という存在を知っているかしら?」
「虫?」

 虫って、あの虫?
 蚊とか蟋蟀とか蝉とか、魚類鳥類哺乳類両生類爬虫類を除いた、生物の総称?

「きっと、あなたが想像している虫とは違うわ。【蟲】は人間の中に巣食い、生命力を喰い散らかす存在よ。【蟲】が生命力を喰らうから、人は老い、弱り、病に倒れ、そして死ぬ。人間を生態系のピラミッドの頂点とするなら、【蟲】はそれに寄生しているようなものよ」
「……よく分かんねぇけど、そういうのがいるんだな。で、それがあんたの正体と、なんの関係があるんだ?」
「私も【蟲】よ。正確には、無数の【蟲】が集まって、偶発的に自我を持った存在、だけどね」
「……あんたが、その【蟲】って奴、なのか……?」
「えぇ、そうよ。尤も、普通の【蟲】はさっきあなたが襲われたように、食欲以外の機能を持たないけどね。私に意思があるのは、偶然よ」
「……じゃ、じゃあ、あんたは――」

 背筋がうそ寒くなり、手足が震えてくる。
 まるで極寒の中に放り出されたように――――いや違う、これは恐怖だ。舞沙が語った言葉を、総合して考えられる可能性に、俺は恐怖していた。
 ガチガチと歯を打ち鳴らしながら、俺は怖々と訊いた。

「あんたは……人を、喰うのか?」

 さっきの、教室での俺のように。
 本能に任せ、人を人とも思わずに喰らいつくのか――――

「食べる訳ないじゃない。人間なんて、食べても仕方ないもの」

 舞沙は、少し怒ったように頬を膨らませながら言った。

「私が食べるのは【蟲】だけよ。【蟲】の集合体である私は、身体を維持するために【蟲】の摂取が必要なの。人間は食べないわ」
「……本当、に?」
「なによ、しつこいわね。もしそうなら、昨日あなたを見つけた時に食べちゃってるわ。私、そういうの嫌いなの。人喰いだの人殺しだの……理解ができないわ。だって、人間は死んじゃったら終わりじゃない」
「……本当に、人を喰ったりは、しないんだな……?」
「えぇ、そんな趣味はないわ。だから安心して。怯えないで。私は怖くないわ」

 とんっ、と跳ねるように近づいてきた舞沙が、たおやかな手で頭を撫でてくる。
【蟲】の集合体、と言うだけあって、手の感触は人間のそれとはだいぶ違っていた。まるで綿飴で頭を叩かれているようだ。

「よしよし、いい子いい子」
「……っ、こ、子供扱いはしないでくれ」
「あら、ごめんなさいね。なんだか鎖天、私のことを随分怖がっていたみたいだから、可哀想になっちゃって」
「いや、俺の方こそ、ごめん。人を喰うのかとか疑って、悪かった」
「ふふふ、構わないわよ。私の説明を総合すれば、そういう考えになるのもやむなしだもの。それに、寧ろよかったわ」
「? なにがだ?」
「私を怖がったってことは、食べられるかも、って思ったんでしょう? それを怖がるのなら、あなたの生への執着が強いってことだわ。あなたのこと、生き返らせてよかった」
「……さっきから、それを言ってるよな。生き返らせたって、どういうことなんだ?」
「言葉の通りよ。昨日、あなたは死んだの。それを私が生き返らせているわ」

 死んだって……そんなあっさりと言われても、理解が追いつかない。

「嘘だと思うなら、証拠を見せましょうか? 鎖天、左腕を出してちょうだい」

 自分が死んでいると告げられて、俺は半ば放心状態だった。
 言われるがまま、左腕を差し出す。注射を打つ時みたいに、学ランの袖を捲り上げ、地肌を露わにする。

「驚かないで見ていてね」

 言うと、舞沙は手を掲げ、指をわきわきと動かし始めた。
 変化は、あっという間だった。
 揺れる度に波打つ指は、瞬く間に牙のような形へと変じた。鋭く蠢くそれが、俺の左腕にあてがわれる。

 ざくっ、という音と共に。
 俺の左腕の、肘から先が、ぼとり、と落ちた。

「な……っ⁉」

 既にいっぱいいっぱいだった頭が、一瞬にしてパニックを引き起こす。
 俺の、腕が。
 切れた。取れた。落ちた。
 なんで、なんでいきなりこんなことを、舞沙、なんで、え、俺は、どうすれば――

「落ち着きなさい、鎖天」

 ふわぁ、と。
 綿毛のように柔らかい手が、叫び声を上げかけた俺の口を塞いだ。
 ひんやりと冷たい感触が、頬まで冷やしていく。

 舞沙の表情は、あくまで冷静だった。
 だが、俺の方はそうもいかない。なにせいきなり左腕を切断されたのだ。ばくばくと心臓が早鐘を鳴らし、大量の出血で意識が朦朧と――
 ――しなかった。

「…………⁉」
「もう。だから驚かないでって言ったのに。よく見てみてよ、切り落としたあなたの腕を」

 口を塞がれたまま、俺は視線だけを動かして転がった腕の欠片を見る。
 歪な肉塊と化したそれは、一滴も血を吹き出していなかった。
 ただありありと、肉が、骨が、覗いて見えている。真っ赤なそれは弾力に富んだ輝きを放っており、窓から差し込む薄明かりを反射していた。
 なんで、血が出ていないんだ?
 それに、痛くもない。毛程も痛みを感じない。
 こんなにパニクっているのに、心臓の音も聞こえない。
 なんで、どうして――

「これで分かったかしら? 鎖天。あなたはもう、死んでいるのよ」

 死んで、いる。
 そうだ、それなら全ての説明がつく。
 血が出ないのは、血液が流れていないから。
 痛くもないのは、神経が働いていないから。
 嫌に静かなのは、心臓が動いていないから。
 全部――――俺が、死んでいるから。

「俺は……本当に、死んでるのか……!」
「えぇ」

 舞沙が落ちた左腕を拾い上げ、切断面同士をくっつけながら応えた。
 死んでいる……。
 俺が、既に死んでいるなんて……。
 にわかには信じ難い、けれど紛れもない現実だ。切り落とされた左腕が、なによりの証拠だった。
 舞沙が傷口を指でなぞる。真っ直ぐ刻まれた切断痕が、白いなにかで埋められていく。治療、してくれているのだろうか。ぴくんっ、と左手の指が反応する。

「でも、なんで……なんで俺、死んでるんだよ。意味が分かんねぇよ……舞沙、狂々理舞沙! 俺は、俺はどうして死んでるんだよ!」
「そこまでは知らないわ。私が昨日の夜、あなたを見つけた時にはもう、あなたは死んでいたもの。首があらぬ方を向いて、胸が弾けて、心臓を【蟲】に喰われた状態で」

 胸が弾けて、心臓を喰われていた?
 それって、昨日の夢のことじゃないか。
 じゃああれは、夢じゃなくて、現実だったのか?

「そうだ……あの時、見えないなにかに胸を押されて……階段から落ちる途中で、胸が爆ぜて……」
「……あなたがどうして死んでいたかまでは、私は知らないわ。さっきも言った通り、私は自分の身体を保持するために【蟲】の摂取を必要とするの。死んだ人間からは【蟲】を回収しやすいから、あなたの死体を喰おうとしていた【蟲】をいただこうと思ったの。けど……私は、逆にあなたに【蟲】を注いで、命を繋ぐことにしたの」
「どうして……っていうか、【蟲】って人間を喰うんだろ? そんなのを死体に注入したら、喰われる速度が上がるだけなんじゃ……」
「【蟲】が喰うのは、人間の生命エネルギーよ。死体を喰うのは、生命エネルギーを喰えないから代替にしているに過ぎないの。寧ろ【蟲】は生命力の宝庫よ。死体に大量に注げば、擬似的な命の代わりをしてくれるほどに」

 つまり、今の俺は、人の生命力を喰う【蟲】によって生かされているのか。
 じゃあ、さっき教室で笑夢を襲って、喰おうとしたのも……それが理由か。
 俺の中の【蟲】が、生命エネルギーを欲して暴走したのか。

「でも……どうして、俺は死んでたんだ……?」

 昨日は、そう、確かなにかに胸を押された。その所為で、階段から落ちたのだ。
 心臓を齧ったのは、きっと【蟲】の仕業だろう。
 なら、階段から突き落とした、見えないなにかの正体も――

「それは、どうかしら」

 ぶつぶつと呟く俺の言葉に、舞沙が割り込んできた。

「【蟲】は本来、人には知覚されないものなの。触るなんて以ての外よ。触られても気づくことさえない。さっきあなたに群がってきた【蟲】も、あなたの体内に入り込んで喰い荒らそうとしただけなのよ。そんな【蟲】に押されるなんて、普通はあり得ない。誰かが、意志を持って【蟲】を操らない限りは」
「っ……【蟲】を操るって、そんなことができるのか……?」
「えぇ、素質を持っている人間は滅多にいないけどね。【蟲】は普通、人間に触れても気づかれない。人間に外的な力を加えることはできないわ。けど、大量の【蟲】を一気に操った場合は別。私だって、あなたに触れられるでしょう? 同じことよ」

 それじゃあ俺は、誰かが意志を持って操った【蟲】によって。
 殺されたのか。
 階段から突き落とされ。
 心臓を喰い破られ。
 誰かによって、意図的に――

「っ!」
「待って」

 可能性が頭をよぎった瞬間、俺は反射的に立ち上がっていた。
 廃ビルの出口へ向かおうとする俺の手を、舞沙が掴み止める。左腕がぎちぎちと悲鳴を上げ、いまにも千切れ落ちそうだった。

「どこへ行くの? 左腕だって、まだ完全にはくっついていないのよ? 私は、壊すのは得意でも、治すのは不得手なの。無理に動かしたりしたら、千切れてしまうわよ?」
「……環は」

 口に出した声まで、焦りの色に染まっていた。
 そうだ、こんなところで長々と話している場合ではない。

「環は、俺の妹はどうなった⁉ 舞沙、あんたが家に来た時、妹はいなかったのか⁉」
「いもうと……? さぁ、知らないわ。私が見つけたのは、事切れていたあなただけ。部屋の中までは見ていないし、あなた以外の人間も見てはいないわ」
「っ、じゃあ……!」

 俺が【蟲】によって、それを操る誰かによって殺されたということは。
 同じ家にいた家族も、妹も、その被害に遭った可能性がある。
 昨日、家に入った時に感じた異臭。
 あれが、あれが死体の発していた腐敗臭だとしたら――

「早く……早く、帰らないと。家に、家族が……妹が、いるかもしれないんだ……!」
「かぞく? いもうと? ……よく分からないけど、あの家にあなた以外の死体があるっていうこと?」
「まだ死体って決まった訳じゃない!」

 思わず、俺は怒鳴り声を上げていた。
 まだ、そうだ、可能性の段階なんだ。
 家族が死んでいると、決まった訳じゃない。
 朝、誰にも会わなかったのだって、妹が起こしに来なかったのだって、偶然かもしれない。
 舞沙が俺を生き返らせた後、何事もなく帰ってきたかもしれない。
 だから、確かめに行かないと。

「……ごめんなさい。軽率な発言だったわ」
「いや……俺の方こそ、怒鳴ったりして、ごめん。……舞沙、俺は家に帰る。あんたは、どうする?」
「あなたについていくわ。私があなたを生き返らせたのだし、その行動に責任を持つのは当然でしょう?【蟲】が切れそうだったら、さっきみたいに補充してあげなきゃいけないしね」

 さっきって……あのキスのことか。
 あれをしてもらってから、凶暴な衝動はなりを潜めている。恐ろしいほどの空腹感にも苛まれない。あの行動は、【蟲】を直接口移しで与えてくれていたのか。
 まるで鳥の雛に、半ば消化した餌を与える親鳥のように。

「……どうして、あんたは俺を生き返らせてくれたんだ? 俺は、あんたみたいな奴は知らない筈だ。あんたもそうだろう?」
「えぇ、そうね。私もあなたのことはなにも知らないわ。正真正銘初対面よ。でも――――生き返らせちゃった。あなたが、【蟲】によって殺されていたのが、分かったから」
「【蟲】によって……?」
「本来、【蟲】は人間の内側に巣食い、生命力を喰らうものよ。死ぬ原因のひとつではあっても、人殺しの手段ではない。……同じ【蟲】として、人殺しの道具に使われるのは我慢できないのよ。だから、あなたの死を、私は受け入れられなかった。だから、生き返らせた…………私の、勝手な都合よ。迷惑だったかしら?」
「……さぁな」

 ふっと、舞沙が俺の腕から手を離した。
 指はもう、思った通りに動く。無茶をしなければ、落ちることもないだろう。左手の感触を確かめた俺は、そのままバリケードの張られた出口へと歩き始める。
 その後ろを、舞沙が静かについてくる気配がした。

 そういう気分だった、か。
 感謝の言葉は、まだ言わない。気まぐれで生き返らされた俺は、死なないでよかったかどうか、まだ分からないから。
 なにも知らないまま、死んだ方が幸せだったかもしれない。
 けど、もしかしたら、生き返ってよかったかもしれない。
 家族が、妹が、もしかしたら無事かもしれないのだから。

「頼む……思い過ごしであってくれ」

 天にも祈るようなその声は。
 埃臭い風に巻かれ、誰の耳にも届くことなく消えていった。
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