2 草薙鎖天は斯く地獄を目撃す
文字数 4,544文字
感想を端的に言うなら、大変に苦労した。
舞沙は大抵の人間には見えないからいいとして、問題は俺だ。表通りを堂々と歩く訳にもいかない、警察とすれ違うなんて以ての外だ。だからこの四日間、廃ビルに引きこもっていたのだ。道中見つかって、これまでの潜伏生活を無駄にすることだけは避けたかった。
故に俺たちが取った行動は、酷く手間のかかる移動だった。
まず、俺は物陰に隠れ、舞沙を数メートルだけ先行させる。舞沙が安全を、つまりは人通りの有無などを確認したらGoサインを出し、俺はまた次の物陰までそそくさと小走りで駆けていく。その繰り返しだ。まさか学校の近くまで路地裏が続いてる訳がなかったので、こんな迂遠な方法を取る他なかったのだ。
「着いたわね」
「あぁ……すっげぇ疲れた」
汗ひとつ掻いてはいないが、既に身体は疲労困憊だった。肩がどっと重く、思わず溜息が漏れる。
私立蜜浪 中学。
地元じゃ有名なお嬢様学校だ。学費もそれなりだが、進学率は地元はおろか日本単位で見てもトップレベルだし、生活指導の面でも評判はいい。環がここに合格した夜は、家族全員でパーティーを開いたほどだ。
どことなく近寄り難い、静謐な空気が流れている。
ブロック塀に寄りかかり、校舎を遠目に眺めてみる。合格発表の日以来来たことはなかったが、やはり公立とは佇まいが違う。校舎ひとつ取って見ても、気品が漂っている。荘厳なレンガ造りの校舎からは、きっと授業中なのだろう、喧騒などはまるで聞こえない。
あの中に、環の学友もいるのだろう。
その子たちに、話を聞いてみれば、一歩先に進めるんだ。
「で、意気揚々と来てはみたけど、この後どうするの? 鎖天」
「そりゃ決まってる。環のクラスの子たちに、話を聞いてみなくちゃな。環のことを覚えていれば、俺のことをよく知ってる奴に犯人が絞れる。覚えていなかったら、俺だけじゃなく環のことまでよく知ってる奴が犯人ってことだ」
「それは分かるけど、どうやって話を聞くの?」
「どうやってって……普通に」
「鎖天、あなたとあなたのいもうとは、警察に追われている身なのよ? 当然、学校にも連絡がいってる筈。あなたが真正面から訪ねたら、即通報されるわよ」
「…………」
「……もしかして、考えていなかったのかしら? そこまで」
考えていなかった。
犯人を絞り込む方法を思いついて、分かりやすく浮かれていた。
「……下校時刻まで待つか? いや、誰が環のクラスメートか分かんねぇから、それじゃ意味ねぇか……ってか舞沙。そこまで言うってことは、あんた、最初から気づいていたんじゃねぇか? なんで止めてくれなかったんだよ」
「最初からなんて気づいてないわ。ここに来る途中で、あれもしかしてこのまま行ったら不味いんじゃ? ってふと気がついたのよ」
「クールに語ってらっしゃいますがねぇ舞沙さん、気づいた時点で言ってくれよ……」
とんだ無駄足じゃねぇか。
舞沙の奴、頼りになるはなるんだが、肝心なところでポンコツな疑惑が湧き起こったぞ。
「まぁここは、私が行くのが妥当かしら。教室に忍び込んで、あなたのいもうとの話をしていないか、聞いてくればいいんでしょう?」
「大雑把な方法だなぁ。あんたが教室にいる間に、環の話をする保証なんてないんだぜ? 事件から四日も経ってるし」
「まだ四日しか経っていないもの。話題の端には上がる筈よ。とにかく、物は試しね。行ってみるわ。鎖天は拠点に戻っていていいわよ?」
そう言うと、舞沙は重力を無視して浮かび上がり、後者の方へと飛んでいった。
……膝枕の件といい、行動力に溢れる奴だ。どこが環の在籍クラスかも分からないというのに。それにこんなに静かなのだ。授業中じゃ私語は禁止の筈。合間の休み時間じゃ突っ込んだ話はしないだろうし、最悪昼休みまで待たなきゃいけない可能性だってある。
さて、俺はどうするか。
白昼堂々こんなところで待っている訳にもいくまい。かといって、拠点に戻るのもなんだか憚られた。帰るのにもひと苦労するというのもあるが、自分じゃなにもできていないというのが嫌だった。
しかし、他にやれることも見当たらない。
どうしようかと途方に暮れていると――――舞沙が、空中を泳ぐようにして帰ってきた。
帰ってきた?
いくらなんでも早過ぎないか? 学校へ向かっていって、まだ一分も経っていないぞ?
「どうしたんだ? 舞沙。なにかあったのか?」
「……っ、口じゃ、説明しづらいわ。とにかく、こっちへ来て、鎖天」
「来てったって、校門から堂々と入る訳にもいかねぇだろ。こんな時間に――」
「っ、いいから早く来て!」
舞沙が。
あの舞沙が、取り乱していた。
足元まで伸びる髪をぶんぶんと振り回し、目はわなわなと震えながら見開かれている。怒気さえ含んだ表情は、しかしまるで相反する、一種の恐怖に塗り潰されているように見えた。
四日間、少なくない時間こいつと一緒にいたけど。
こんな顔は、見たことがない。
なにがあった? なにが起こっていた?
――――ざわざわと、胸騒ぎがした。
「……っ、分かった。すぐ行く」
「えぇ。……覚悟だけ、しておいて」
言うと、舞沙は俺を先導するように再び校舎へ向かって飛んでいった。
周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから、舞沙に追従する。校庭を取り囲むようにそびえ立つフェンスをよじ登っていく。着地のことまでは考えていなかったが、どうせ痛みを感じない身体だ。転がるように着地して、すぐさま起き上がって校舎へと走っていった。
嫌な予感がした。
ここまで近づいてもなお、学び舎は静かだ。静か過ぎる。
自分で言うのもなんだが、俺という不審者が侵入してきたのだ。少しは騒ぐ声があったっていい筈だ。
なのに、不気味なくらいに静まり返っている。
まるで、騒ぐような人がひとりもいないみたいに。
「ここでいいわ。ここで充分。鎖天……見てみて」
舞沙が指差したのは、一階の教室だった。
窓は開いている。カーテンが風に靡いて、外と中の空気を入れ替えている。
ふぅっ、と、それは鼻をついてきた。
悲しいことに嗅ぎ慣れてしまった――――血の臭いが。
教室の中にあったのは。
全身を喰い千切られて死んでいる、大量の女子中学生の死体たちだった。
「な……ぁ……⁉」
思考がフリーズする。
目の前に広がる光景は、正に地獄絵図だった。
生きている人間がひとりもいない。
みんな、死んでいる。
教室の中は血の海だった。比喩じゃない。本当に床が血で埋め尽くされており、床本来の色が分からなくなっていた。
そしてそれ以上に、死体で埋め尽くされている。
床が、空気が、空間が。
死一色で、塗り潰されている。
夥しい数の死体は、もはや感覚を麻痺させるに充分だった。平素なら目を逸らしていただろう。なのに、視界がどこを映そうが、死体が、死体が入り込んでくる。喰い千切られた喉笛の肉が、流れ出す血が、剥き出しになった気道が、傷口から覗いた骨が、眼球を支配していく。
赤い。赤い。赤い。赤い。
吐き気を催すほどの赤の奔流。
血の臭いにむせ返り、俺は思わず腰を曲げた。
「あ、あぁぁ……⁉」
なにも食べてない胃から吐き出されるのは、濃度の薄い胃液だけ。地面をわずかに黄色く染めるそれの臭いも、瞬く間に呑まれていく。
これはもはや、暴力だ。
死と血と赤と肉の、邪悪な色彩の暴力だった。
なんだ。
なんだよ、これは。
クラスまるまるひとつ分、人が死んでいる。
教室が、まるで手を抜かれた棺桶のようだ。よく見れば窓や天井、廊下に続く扉にも、べったりと血が付着している。無数の赤い手形が、事の悲惨さに拍車をかけていた。どうにか逃げようとしたのだろう。生きようとしたのだろう。襲いきた命の危機から、なんとか逃走を図ったのだろう。
しかし、それは叶わなかった。
数を数えるのさえ嫌になるほどの死体に、酔ってしまいそうだ。
「なんだよ、これ……なにが、なにが起きたんだ……⁉」
「ここだけじゃないわ。この建物中から同じ気配を感じる。きっと、生き残っている人間は誰もいないわね。この建物には、もう死人しかいないわ」
教室中の人が死んでて、誰もそれを騒いでいない。
ならば、それが答えなのだろう。
教室どころじゃない。学校中の人間が、残らず死んでいる。
殺されている。
こんな、こんな異常事態があるか?
言葉を失う他になかった。この惨状を言い表せる語彙など、きっと存在しない。血の海にたゆたう死体たちを、俺は呆然と眺めるしかなかった。
「誰が……誰が、こんなことを……」
「犯人なら分かり切っているわ。鎖天、あなたのかぞくを、あなた自身を殺したのと、同じ人物よ」
舞沙は、忌々しげに断言する。
世界中の不愉快を凝縮したような、怒りにさえ似た形相だった。
「あなたのりょうしんの死体についていた歯型と、この死体たちについた歯型が一致するわ。氏村笑夢の死因になった歯型ともね。それに、死体から【蟲】がなくなっている。こんな痕跡、他に残す輩がいるなら見てみたいわ」
「……でも、なんでこんな……」
最早、手段と目的が矛盾している。
俺たち家族を殺したことを感づかれないように、記憶を消したんじゃないのか?
草薙家の事件は既に、全国区で有名になってしまっている。今更、俺たちを覚えているかもしれない人間を殺すことに、なんの意味がある。それも、こんな大量に、際限なく。
これじゃ、闇雲に罪を重ねているだけだ。
なんだ、なんだ、なんなんだ。
犯人は一体、なんの目的でこんなことを――
「呆けている時間はないかもしれないわよ、鎖天」
なんだよ。
これ以上、なにがあるっていうんだよ。
死んでいるのは誰も彼も、見も知らぬ赤の他人だ。だけど、彼女たちが殺された原因は、俺たちなんだ。俺たちを殺した奴が、これをやったんだ。
嘆くくらい、許してくれてもいいじゃないか。
だが、舞沙は焦りを滲ませた声で、早口に続けた。
「あなたのいもうとのくらすめーとが、殺されているのよ? 鎖天。あなた自身のくらすめーとも、危ないかもしれないわ」
「…………!」
そうだ。
環のクラスメートが殺されているなら。
俺たち家族にとって同じ立ち位置にいる、俺のクラスメートも危ない。
もしかしたらもう、殺されているかもしれない。
笑夢の時と、同じように――
「っ!」
「鎖天⁉ どこへ」
「決まってるだろ! 俺の学校だよ!」
ここから籠網高校までは、走って一時間もかからない。
人目を気にしなければ、もっと早く着く。
まだ、まだ間に合うかもしれないんだ。
もううんざりだ。懲り懲りだ。
友達まで失うなんて――――もう、嫌だ!
舞沙がついてきているかも確認しないまま、俺は全速力で走り始めた。
舞沙は大抵の人間には見えないからいいとして、問題は俺だ。表通りを堂々と歩く訳にもいかない、警察とすれ違うなんて以ての外だ。だからこの四日間、廃ビルに引きこもっていたのだ。道中見つかって、これまでの潜伏生活を無駄にすることだけは避けたかった。
故に俺たちが取った行動は、酷く手間のかかる移動だった。
まず、俺は物陰に隠れ、舞沙を数メートルだけ先行させる。舞沙が安全を、つまりは人通りの有無などを確認したらGoサインを出し、俺はまた次の物陰までそそくさと小走りで駆けていく。その繰り返しだ。まさか学校の近くまで路地裏が続いてる訳がなかったので、こんな迂遠な方法を取る他なかったのだ。
「着いたわね」
「あぁ……すっげぇ疲れた」
汗ひとつ掻いてはいないが、既に身体は疲労困憊だった。肩がどっと重く、思わず溜息が漏れる。
私立
地元じゃ有名なお嬢様学校だ。学費もそれなりだが、進学率は地元はおろか日本単位で見てもトップレベルだし、生活指導の面でも評判はいい。環がここに合格した夜は、家族全員でパーティーを開いたほどだ。
どことなく近寄り難い、静謐な空気が流れている。
ブロック塀に寄りかかり、校舎を遠目に眺めてみる。合格発表の日以来来たことはなかったが、やはり公立とは佇まいが違う。校舎ひとつ取って見ても、気品が漂っている。荘厳なレンガ造りの校舎からは、きっと授業中なのだろう、喧騒などはまるで聞こえない。
あの中に、環の学友もいるのだろう。
その子たちに、話を聞いてみれば、一歩先に進めるんだ。
「で、意気揚々と来てはみたけど、この後どうするの? 鎖天」
「そりゃ決まってる。環のクラスの子たちに、話を聞いてみなくちゃな。環のことを覚えていれば、俺のことをよく知ってる奴に犯人が絞れる。覚えていなかったら、俺だけじゃなく環のことまでよく知ってる奴が犯人ってことだ」
「それは分かるけど、どうやって話を聞くの?」
「どうやってって……普通に」
「鎖天、あなたとあなたのいもうとは、警察に追われている身なのよ? 当然、学校にも連絡がいってる筈。あなたが真正面から訪ねたら、即通報されるわよ」
「…………」
「……もしかして、考えていなかったのかしら? そこまで」
考えていなかった。
犯人を絞り込む方法を思いついて、分かりやすく浮かれていた。
「……下校時刻まで待つか? いや、誰が環のクラスメートか分かんねぇから、それじゃ意味ねぇか……ってか舞沙。そこまで言うってことは、あんた、最初から気づいていたんじゃねぇか? なんで止めてくれなかったんだよ」
「最初からなんて気づいてないわ。ここに来る途中で、あれもしかしてこのまま行ったら不味いんじゃ? ってふと気がついたのよ」
「クールに語ってらっしゃいますがねぇ舞沙さん、気づいた時点で言ってくれよ……」
とんだ無駄足じゃねぇか。
舞沙の奴、頼りになるはなるんだが、肝心なところでポンコツな疑惑が湧き起こったぞ。
「まぁここは、私が行くのが妥当かしら。教室に忍び込んで、あなたのいもうとの話をしていないか、聞いてくればいいんでしょう?」
「大雑把な方法だなぁ。あんたが教室にいる間に、環の話をする保証なんてないんだぜ? 事件から四日も経ってるし」
「まだ四日しか経っていないもの。話題の端には上がる筈よ。とにかく、物は試しね。行ってみるわ。鎖天は拠点に戻っていていいわよ?」
そう言うと、舞沙は重力を無視して浮かび上がり、後者の方へと飛んでいった。
……膝枕の件といい、行動力に溢れる奴だ。どこが環の在籍クラスかも分からないというのに。それにこんなに静かなのだ。授業中じゃ私語は禁止の筈。合間の休み時間じゃ突っ込んだ話はしないだろうし、最悪昼休みまで待たなきゃいけない可能性だってある。
さて、俺はどうするか。
白昼堂々こんなところで待っている訳にもいくまい。かといって、拠点に戻るのもなんだか憚られた。帰るのにもひと苦労するというのもあるが、自分じゃなにもできていないというのが嫌だった。
しかし、他にやれることも見当たらない。
どうしようかと途方に暮れていると――――舞沙が、空中を泳ぐようにして帰ってきた。
帰ってきた?
いくらなんでも早過ぎないか? 学校へ向かっていって、まだ一分も経っていないぞ?
「どうしたんだ? 舞沙。なにかあったのか?」
「……っ、口じゃ、説明しづらいわ。とにかく、こっちへ来て、鎖天」
「来てったって、校門から堂々と入る訳にもいかねぇだろ。こんな時間に――」
「っ、いいから早く来て!」
舞沙が。
あの舞沙が、取り乱していた。
足元まで伸びる髪をぶんぶんと振り回し、目はわなわなと震えながら見開かれている。怒気さえ含んだ表情は、しかしまるで相反する、一種の恐怖に塗り潰されているように見えた。
四日間、少なくない時間こいつと一緒にいたけど。
こんな顔は、見たことがない。
なにがあった? なにが起こっていた?
――――ざわざわと、胸騒ぎがした。
「……っ、分かった。すぐ行く」
「えぇ。……覚悟だけ、しておいて」
言うと、舞沙は俺を先導するように再び校舎へ向かって飛んでいった。
周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから、舞沙に追従する。校庭を取り囲むようにそびえ立つフェンスをよじ登っていく。着地のことまでは考えていなかったが、どうせ痛みを感じない身体だ。転がるように着地して、すぐさま起き上がって校舎へと走っていった。
嫌な予感がした。
ここまで近づいてもなお、学び舎は静かだ。静か過ぎる。
自分で言うのもなんだが、俺という不審者が侵入してきたのだ。少しは騒ぐ声があったっていい筈だ。
なのに、不気味なくらいに静まり返っている。
まるで、騒ぐような人がひとりもいないみたいに。
「ここでいいわ。ここで充分。鎖天……見てみて」
舞沙が指差したのは、一階の教室だった。
窓は開いている。カーテンが風に靡いて、外と中の空気を入れ替えている。
ふぅっ、と、それは鼻をついてきた。
悲しいことに嗅ぎ慣れてしまった――――血の臭いが。
教室の中にあったのは。
全身を喰い千切られて死んでいる、大量の女子中学生の死体たちだった。
「な……ぁ……⁉」
思考がフリーズする。
目の前に広がる光景は、正に地獄絵図だった。
生きている人間がひとりもいない。
みんな、死んでいる。
教室の中は血の海だった。比喩じゃない。本当に床が血で埋め尽くされており、床本来の色が分からなくなっていた。
そしてそれ以上に、死体で埋め尽くされている。
床が、空気が、空間が。
死一色で、塗り潰されている。
夥しい数の死体は、もはや感覚を麻痺させるに充分だった。平素なら目を逸らしていただろう。なのに、視界がどこを映そうが、死体が、死体が入り込んでくる。喰い千切られた喉笛の肉が、流れ出す血が、剥き出しになった気道が、傷口から覗いた骨が、眼球を支配していく。
赤い。赤い。赤い。赤い。
吐き気を催すほどの赤の奔流。
血の臭いにむせ返り、俺は思わず腰を曲げた。
「あ、あぁぁ……⁉」
なにも食べてない胃から吐き出されるのは、濃度の薄い胃液だけ。地面をわずかに黄色く染めるそれの臭いも、瞬く間に呑まれていく。
これはもはや、暴力だ。
死と血と赤と肉の、邪悪な色彩の暴力だった。
なんだ。
なんだよ、これは。
クラスまるまるひとつ分、人が死んでいる。
教室が、まるで手を抜かれた棺桶のようだ。よく見れば窓や天井、廊下に続く扉にも、べったりと血が付着している。無数の赤い手形が、事の悲惨さに拍車をかけていた。どうにか逃げようとしたのだろう。生きようとしたのだろう。襲いきた命の危機から、なんとか逃走を図ったのだろう。
しかし、それは叶わなかった。
数を数えるのさえ嫌になるほどの死体に、酔ってしまいそうだ。
「なんだよ、これ……なにが、なにが起きたんだ……⁉」
「ここだけじゃないわ。この建物中から同じ気配を感じる。きっと、生き残っている人間は誰もいないわね。この建物には、もう死人しかいないわ」
教室中の人が死んでて、誰もそれを騒いでいない。
ならば、それが答えなのだろう。
教室どころじゃない。学校中の人間が、残らず死んでいる。
殺されている。
こんな、こんな異常事態があるか?
言葉を失う他になかった。この惨状を言い表せる語彙など、きっと存在しない。血の海にたゆたう死体たちを、俺は呆然と眺めるしかなかった。
「誰が……誰が、こんなことを……」
「犯人なら分かり切っているわ。鎖天、あなたのかぞくを、あなた自身を殺したのと、同じ人物よ」
舞沙は、忌々しげに断言する。
世界中の不愉快を凝縮したような、怒りにさえ似た形相だった。
「あなたのりょうしんの死体についていた歯型と、この死体たちについた歯型が一致するわ。氏村笑夢の死因になった歯型ともね。それに、死体から【蟲】がなくなっている。こんな痕跡、他に残す輩がいるなら見てみたいわ」
「……でも、なんでこんな……」
最早、手段と目的が矛盾している。
俺たち家族を殺したことを感づかれないように、記憶を消したんじゃないのか?
草薙家の事件は既に、全国区で有名になってしまっている。今更、俺たちを覚えているかもしれない人間を殺すことに、なんの意味がある。それも、こんな大量に、際限なく。
これじゃ、闇雲に罪を重ねているだけだ。
なんだ、なんだ、なんなんだ。
犯人は一体、なんの目的でこんなことを――
「呆けている時間はないかもしれないわよ、鎖天」
なんだよ。
これ以上、なにがあるっていうんだよ。
死んでいるのは誰も彼も、見も知らぬ赤の他人だ。だけど、彼女たちが殺された原因は、俺たちなんだ。俺たちを殺した奴が、これをやったんだ。
嘆くくらい、許してくれてもいいじゃないか。
だが、舞沙は焦りを滲ませた声で、早口に続けた。
「あなたのいもうとのくらすめーとが、殺されているのよ? 鎖天。あなた自身のくらすめーとも、危ないかもしれないわ」
「…………!」
そうだ。
環のクラスメートが殺されているなら。
俺たち家族にとって同じ立ち位置にいる、俺のクラスメートも危ない。
もしかしたらもう、殺されているかもしれない。
笑夢の時と、同じように――
「っ!」
「鎖天⁉ どこへ」
「決まってるだろ! 俺の学校だよ!」
ここから籠網高校までは、走って一時間もかからない。
人目を気にしなければ、もっと早く着く。
まだ、まだ間に合うかもしれないんだ。
もううんざりだ。懲り懲りだ。
友達まで失うなんて――――もう、嫌だ!
舞沙がついてきているかも確認しないまま、俺は全速力で走り始めた。