3 草薙鎖天は斯く邂逅す

文字数 3,842文字

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 無我夢中で走ってきたのは、通学路の途中にある商店街だった。
 朝の早い時間ではあるが、通勤通学のど真ん中でもある今は、スーツや制服姿の人が行き交い、活気づいている。

 人の流れに逆らうように、俺は歩を進める。
 なにか策があって逃げた訳じゃない。希望や心当たりなんてまるでない。
 ただ、逃げずにいられなかっただけだ。
 人を喰いたいと本気で思い、それを実行しかねない自分がいる――――そのことが、背筋が凍るほどに恐ろしかったから。
 そしてその恐怖は、今も続いている。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 ぼたぼたと、口から涎が垂れる。身体中の水分全てが唾液と化したように、次々溢れ出て止まらない。まるで飢えた犬だ。その様子を見た会社員と思しき男が、俺の前から進路を譲る。しかし、横へと逸れた男のことを、俺はぎょろぎょろと動く眼球で捉えていた。

 ――――あぁ、腹が減った。

 人が、人間が視界に入る度、地鳴りのような腹の音が聞こえる。

 ――――あぁ、喰ってしまいたい。

 恐ろしい欲求が顔を覗かせ、身震いする。津波のように押し寄せる人たち全てが、喰い千切るべき食糧に思えた。
 人が多いところは、ダメだ。
 いつこの衝動を抑え切れなくなって、誰かに襲いかかるか分からない。

 ふらふらとよろめきながら、建物同士の隙間へと潜り込んでいく。もう、人がいないところならなんでもよかった。近くに人間がいる、そう思うだけで空腹を抑え切れそうになかった。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」

 頭ががんがんと痛み、目眩が止まらない。目の前の景色がぐにゃりと歪み、自分がどこを歩いているかさえ判然としない。
 とにかく、人のいない方へ。
 この凶悪な衝動が、他人に牙を剥くことのない方へと。
 路地裏を彷徨って――――気づけば、そこへ辿り着いていた。

「っ……ここ、は……」

 どのルートを通ってきたのかは、まるで分からない。
 けれど、狭い路地裏の奥の方に、まるで人気のないだだっ広い空間が現れたのだ。
 正面には、古びた廃墟がそびえ立っている。
 人から忘れ去られたようなその廃墟には、所狭しとバリケードが組んである。『keep out』と印字されたテープや、工事現場を囲う背の高い柵。その全てが古びて埃に晒されており、触れれば風化して崩れてしまいそうだった。

 聞いたことがある。路地裏の最奥部に、自殺者の絶えない廃ビルがあると。
 かなり昔に造られた建物らしく、今や周りにも大量のビルが建ってしまい、取り壊すことさえ難しいという。今でも年にひとりは、バリケードを乗り越えて投身自殺を果たす人がいるのだとか。
 噂程度に思っていたが……実在していたのか。

 ――――ざわっ、と腹の奥が蠢いた。

「か……は、ぁ……⁉」

 腸がぐるぐると動き出す。同時に、さっき教室で感じたような、途方もない空腹感が脳髄を支配した。
 だらしなく開いた口から、涎が溢れ出して止まらない。
 屈んだ姿勢のまま、本能に抗えず顔を上げると。
 それは、すぐ目の前まで迫っていた。

「……⁉」

 白い、靄に見えた。
 極小の、ひとつひとつを目で捉えられないほどに小さな粒の集合体。靄にしか見えないそれは、まるで意思を持っているように動き、俺の方へと近づいてくる。

 ――――避けなきゃ。

 空腹の片隅で、脳が、本能が危険信号を鳴らす。力の入らない脚を捨て、横合いに転がることでその靄を躱した。

「っ……なんだよ、ありゃ……!」

 身を起こしながら、襲いきた靄を睨む。
 と、途端に唇を唾液が伝った。
 喰いたい、喰いたい、あの靄を喰いたい。
 頭の中でがんがんと欲望が声を上げる。舌がたっぷりの涎で浅ましく濡れ、再び向かってくるそれを、今度は迎え撃とうと立ち上がった。

 あぁ、避けなくては。
 頭では、理性では分かっていても、身体が言うことを聞かない。大口を開け、向かってくる靄を待ち受ける。
 避けなきゃ死んでしまう――――理屈じゃない、生存本能が叫ぶ。
 直感した命の危機に、しかし身体はなんら反応してくれず。
 靄は一気に横へ拡散し、俺のことを呑み込――


「そんなところに突っ立ってたら、危ないわよ?」


 酷く、静かな声だった。
 悲鳴を叫ぶ俺の心中とは真逆の、落ち着いた声音だった。

 声の主は、唐突にそこに現れた。俺と靄との間の、わずか一メートルもないような隙間に。
 まるで、最初からそこにいたかのように。
 ふと気づいたら、立っていた。

「随分【蟲】が多いわね。ここで頻繁に人死にでも起きているのかしら。物騒だわ」

 そう言うと、声の主は――――少女は、ふわりと足元まで伸びる髪を掻き上げた。

 真っ白な、少女だった。
 頭の先から肌、服、靴の先に至るまで、余すところなく純白だった。物憂げに伏せた瞳だけが、血のように赤い。およそ人間らしからぬ色彩が、彼女を路地裏という鬱屈とした空間から浮かび上がらせていた。
 風も吹いていないのに、白い髪が、白いワンピースの裾が、ふわりと揺れる。

 次の瞬間、少女の美しい髪が変貌した。

「……っ⁉」
「残さずいただくわ。不味そうだけど」

 少女の細く滑らかな髪が、蛇のような形にまとまっていく。
 まるでメデューサだ。髪は瞬く間に無数の口だけの蛇へと変わり、白い靄を飲み込んでいく。
 わずか一秒後には、靄は跡形もなく喰い尽くされていた。

 なんだ? なんだ? なんなんだ?
 俺の目の前で、今、なにが起きたんだ?

「あ、あ、あ、あ……」

 動揺と空腹で、言葉が上手く出てこない。
 そんな俺を一瞥して、少女は含むように笑った。

「こんなところにいたのね。探したのよ? 朝行ってみたらいないんだもの。心配したわ」

 純白の少女は、ゆっくりと俺に近づいてくる。
 あぁ、ダメだ。近づかないでくれ。
 今の俺には、人間なんて餌にしか見えない。見ろ。涎が止まらない。真ん前にいる少女を、喰い散らかしたくて仕方ないのだ。
 今の俺に、近づいたら。
 喰ってしまう――――殺してしまう。
 嫌だ、そんなのは、嫌だ――

「怖がることはないわ。さぁ、口を開けて」

 穏やかな声が、耳朶を叩いた。
 何故だろう、初めて聞く声なのに、どこか安心する。身を委ねられると、心が弛緩するのが分かった。
 少女は、ぼたぼたと唾液を漏らす俺の口に。
 自らの、薄桃色の唇を重ねてきた。

「……?」

 妹以外とは、初めて交わす口づけ。
 濃密なそれは、蜜のように甘かった。少女の口内を貪るように、俺は舌を動かしていた。少女の口の中は脆く、ほろほろと解けていく。それを舌で掬い取ると、先端から溶けて滲んでいき、腹の奥底まで染み渡っていく。
 あぁ、充足感とはこれこのことを言うのだと、俺は涙さえ流しながら少女を貪った。
 少女もまた、俺の口へと舌を差し込み、ちろちろと悪戯っぽくつついてくる。舌先がぽろぽろと崩れていき、喉を潤してくれる。
 もはやキスなんて可愛いものではなかった。
 これは、捕食だ。
 少女を喰らうように、夢中になって腹を埋めていく充足感を貪っていった。

 どのくらい、時間が経っただろうか。
 長い、濃厚な口づけだった。
 少女が舌を引き、唇を俺のそれから離す。

「あ……」

 名残惜しさから、思わず声が漏れた。
 できるなら、いつまでも浸っていたい。そう思ってしまうほどに満ち足りた時間だった。
 少女は、薄桃色の唇を小さく歪ませ、ころころと笑った。

「うふふ。貪欲な人ね。どうかしら? お腹の方は収まった?」
「え、あ……」

 言われて、俺は自分の腹をさすった。
 さっきまで痛みさえ引き連れていた空腹が、いつの間にか消えていた。それどころか、腹いっぱいに飯を食ったような、充足感が腹を支配している。
 もう、苦しくない。
 少女を見ても、喰らいたいとは思わない。
 理性が、脳髄を支配しているのが分かる。
 ――――どっと、肩に疲れがのしかかってきた。

「……大丈夫みたいね。安心したわ。昨日はそんなに多く【蟲】をあげられなかったから、あなたの生命を保持するのでギリギリだったの。間に合ってよかったわ」
「な、にを、言って……いや、なんだ? なにが、起きてるんだ? あんたは、一体……?」
「質問が多いわね。まぁそれも、仕方のないことかしら。あなたからしてみたら、分からないことだらけよね。いいわ、片端から質問してちょうだい。その全てに、答えられる範囲で答えるわ。あなたを生き返らせた責任もあるし、ね」

 生き返らせた?
 なんだ、その不穏な単語は。
 まるで、俺が――

「お話するなら、名前が分からないと不便だわ。ねぇ、あなた、名前はなんていうの?」
「な、まえ……? 俺、は……鎖天。草薙、鎖天だ…………あ、あんたは……?」
「私? 私の、名前かぁ……うーん、名前、ねぇ……」

 少女は薄い胸の前で腕を組み、悩むような素振りを見せた。
 やがて、少女は諦めたように溜息を吐くと、渋々といった調子で言ってきた。


舞沙(まいさ)……狂々理(くるくるり)舞沙よ。他に名前なんてないから、そう呼んでちょうだい、鎖天」
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