4 草薙鎖天は斯く言葉を失う
文字数 7,309文字
「はろはろー。今日も元気に笑夢っちの登場だぜーいぇいっ」
朝の日差しを避けるように建物の影に入っていた俺のところに、笑夢がぶんぶんと手を振ってやってきた。
一体なんの薬をキメたらそこまでハイテンションで生きられるのかと、そう問い質したくなるご機嫌模様。駆け寄ってくる度にセーラー服をぱつんぱつんにしている胸が大きく揺れ、目のやり場に困ってしまう。
「おはよう、笑夢。今日も朝から元気だな」
「そう言う鎖天っちは今日も元気なさそうだね。昨日より目の下、真っ黒になってるよ。ちゃんと寝てる?」
腰を曲げた笑夢に下から覗き込まれて、俺は思わず目を逸らす。
――――一連の悲劇が俺を襲ってから、もう三日が経っている。
昼間はまだ我慢が利くのだが、夜になると、どうしても感情を抑え切れず、眠ろうとしても起きてしまう。額にびっしりと脂汗を掻いて、飛び起きるなんてしょっちゅうだ。一緒の部屋にいる舞沙を、何度驚かせたか分からない。
三日分合わせて、まだ一日分も寝れていないだろう。隈が濃く刻まれるのも当然だった。
「ご心配には及ばねぇよ。どうせもう死んでる身だしな。それより、ニュースでなにか新しい情報はあったか?」
「特にはないねー。まぁ、こんな片田舎で起きた事件だし、一気に鎖天っち、有名人になっちゃったけどね」
言いながら、笑夢は鞄と一緒に持っていたビニール袋から、新聞を取り出して渡してきた。
笑夢に頼んだこと――――それは情報の差し入れだ。
舞沙が最寄りの警察署に忍び込めるから、捜査情報を手に入れるのには困らない。困らないが、それと同時に、この事件が世間にどう報道されているのか知りたかった。
巷への報され方で、俺の身の振り方は多少変わってくるからだ。堂々と表通りを歩いていいのか、それとも身を隠し続けるべきなのか。
……不幸にも、この三日間で得られた情報を総合すると、俺は後者の動き方を余儀なくされている。
「地方紙とはいえ、一面を堂々占拠か。もう三日も経っているのにな」
「それだけセンセーショナルな事件だってことだよ。ニュースもそればっかり。で、新聞でもニュースでもなんだけど」
笑夢が新聞を上から覗き込むような格好で、溜息混じりに言う。
「鎖天っちと妹ちゃん、完全に犯人扱いされてるね。学校にもテレビの人がいっぱい来て、もうめちゃくちゃ。授業にならないって、先生キレてたもん」
「そうか……まぁ、そうなるよなぁ……」
「おまけにみんな、鎖天っちのこと忘れてるしね」
「ややこしいことになってそうだな、学校」
「さすがに笑夢っちでも面白がれないレベルでね」
がっくりと肩を落とす笑夢。
俺が疑われるのは、舞沙も予見していた通りだったが……まさか環まで犯人候補に入れられるとは思わなかった。
警察の情報によると、外部から第三者が侵入してきた形跡はないらしい。
死体がふたつ転がってて、同居しているふたりの子供が見当たらないのだ。そりゃ、俺たち兄妹を疑うのも当然か。
舞沙の見立てじゃ、環も既に殺されている可能性が高い。
だが、警察がその線を切って捜査しているということは、家の中に、環を殺害した形跡が見当たらないのだろう。それは俺にとって、一縷の希望たり得た。
もしかしたら、環は連れ攫われただけで。
まだ、どこかで生きているかもしれない。
犯人の下で、今も生きているかもしれない。
尤も、それを舞沙に伝えたら、「……あまり楽観的な見方はやめた方がいいわ。違った時、辛いだけよ」と冷たく言われてしまったが。
「とはいえ……今日も特に進展はなしか。新しい情報も特に載ってないみたいだし」
「うん。ニュースで言ってたこと的には、やっぱり、死亡推定時刻がネックらしいよ」
死亡推定時刻。
死後硬直や死体の腐敗状況、胃の内容物の状態などから割り出される、故人の死んだと思しき時間帯だ。
父さんと母さんの死体も、当然ながら警察によって解剖され、死亡推定時刻を算出されている。だが、その時刻が問題だったのだ。
殺されたのは、俺が死体を発見する一日前。つまり俺が死んだ日の、昼頃と推定されたのだ。
これは、いくらなんでもおかしい。昼頃に何故、両親揃って家にいたのだ? うちの家族は両親共働きだ。昼頃に家にいるような事情もなかったし、ニュースやワイドショーでも話題として取り沙汰されているようだ。
唯一、舞沙だけはこの問題を重視していなかった。
「身体から【蟲】が失われた状態だと、死体は通常通りの死後反応を示さなくなるわ。警察が弾き出した死亡推定時刻は、あまり当てにしない方がいいわよ」
ここでもまた、【蟲】が出てくる。
【蟲】が絡むと、警察の捜査は意味を成さなくなる……悲しいかな、納得せざるを得ない。実際、捜査の基本情報のひとつとなる死亡推定時刻がでたらめに近いのだ。そんなんじゃ、まともな結果など期待できまい。
「ん、ありがとうな。笑夢。おかげで変に浮世離れせずに済む」
「いえいえー。でも、本当にいいの? こんなことで」
「あぁ、充分だ。充分過ぎる。情報は鮮度が命だからな。生のニュースを直に入手できるってだけでかなりありがたいよ。助かってる」
まぁ、舞沙の受け売りなのだが。
その舞沙も、誰かからの受け売りだと言っていた。だから、言葉の意味をしかと噛み締められているかは、正直分からないのだけど。
「そう? それならいいんだけど……あ。ちゃんと夕刊も買ってくるからね。ちょっと遅くなっちゃうけど」
「? なにかあるのか?」
「日直。朝はテキトーな理由つけてサボれるけど、放課後はそうはいかないでしょ? 相方は枝垂っちだから、逃がしてはもらえなさそうだしさー」
「そりゃ災難だな。頑張ってくれ」
「ういー。頑張る、頑張るよー。笑夢っちは頑張り屋さんだからね」
言うと。
笑夢はするりと近づいてきて、ぽん、と俺の両肩に手を置いた。
丁度、新聞で笑夢の身体がすっぽりと隠れてしまう。視界を遮るそれをくしゃくしゃと避けると、笑夢は、俺の目を凝視していた。
じぃっと、睨みつけるように。
「え、笑夢?」
「……鎖天っちがどのくらい辛くて、どんな気持ちで過ごしているのか、私は所詮部外者だから、分かんないけど」
肩を掴む両手に、力が込められる。
死んだ身体じゃ、痛みは感じられない。けれど、容易に振りほどけるようなものではないと分かった。爪が肉に食い込み、掻痒を感じさせる。
「でも、心配してるんだよ。友達だもん。鎖天っち、どんどん窶れていってる。そんなんじゃ、いつか壊れちゃうよ」
「…………」
「もう死んじゃった鎖天っちには、犯人を探す他にないって、分かってはいるよ。けれど、無理はしないでね? 自分のことを、一番大事にしてあげて」
「…………分かってるよ」
逡巡しながら、ぎこちなく頷く。
自分のことを一番大事に、か。
どうなんだろう。俺は、自分を粗末に扱っているのだろうか。そんな自覚は、ないのだけど。
無理も、きっとしていない。警察にマークされている以上、表立っては歩けないのだ。情報収集も舞沙に任せ切りだし、自分じゃなにもしていない。できていない。
やることといえば、こうして笑夢が差し入れてくれた新聞を読むことくらい。
……本当に、復讐に向かっているのかと、時折不安になる。胸が圧迫されるような感覚が、じくじくと痛ませてくる。
「まーたごちゃごちゃ考えてるでしょ、鎖天っち」
ぱちんっ、と。
額を指でつつかれ、俺は朧気だった視界を取り戻す。
笑夢が、どこか怒ったような顔をして、俺のでこを弾いていた。痛くはないが、少し後ろへ押されたような衝撃に、思わず後ずさる。
「そういうところだよ、心配してるのは。忘れろっていうのは無理だろうけど、少しは気にしないでいられる時間は必要だよ。ちゃんと寝なさい。しっかり休みなさい。事件から頭離して。身体の方がもたなくなっちゃうよ。いいね? 友達命令」
「……気にするなって、言われてもな……」
「ほんのちょっとでいいの。どうせロクに寝れてないんでしょ? ――――あ! そうだそうだ、いひひひっ。笑夢っちってば名案を思いつきましたぞ」
「名案?」
急に悪戯っぽい笑みを浮かべてくる笑夢。
名案……嫌な予感しかしない。こいつがこんな顔で考えつくことといえば、きっと益体もないことに違いない。
そんな俺の不安をよそに、笑夢は豊満な胸を張りながら続けた。
「放課後夕刊届けに来た時、この笑夢っちが鎖天っちに膝枕をしてしんぜよう! こんな廃墟で寝ようとするからダメなんだよ。笑夢っちの柔らかあったか膝枕なら、鎖天っちも快眠できるっしょ?」
「……………………」
思わず天を仰ぐ。ビル群に遮られた空は、思ったよりも狭かった。
やっぱりか。
案の定ロクでもない提案だった。
というか、さすがにそれは友達相手にするものじゃないだろ。距離感どこいった。
それに……そんなところを見られたら、笑夢を蛇蝎の如く嫌っている舞沙になにをされるか、分かったものじゃない。
三日前には顔を合わせただけで殺されかけたのだ。膝枕なんてシーンを目撃されたら、マジで殺されかねん。
「どう? 鎖天っち。ナイスな提案っしょ?」
「却下だ却下」
「えー、つれないなぁ。現役JKの生膝だよ? 友達じゃなかったらお金取れるよ?」
「スカートを捲るな。太腿を見せつけてくるな。……膝枕なら前に妹にやってもらったことがあるが、そんなにいいものじゃないぞ。言っても人間の身体だし、存外硬い。位置が高過ぎて寝づらい。寝返りが打てない。やってる側の足が痺れるっていうデメリットがでかい。膝枕が天国なんて、そんなの漫画の中だけの話だ」
「経験者は語るねー。むー、そっかー。なら残念だけど見送りで。でも、そしたらどうしようかなー。鎖天っち安眠計画。早くも頓挫しそう」
「そこまで気を回さなくていい。夜寝られないなら、昼の内に寝りゃいいだけの話だ。おまえが学校に行ったら、少し寝れるよう頑張ってみるよ」
「真昼間からお寝んねなんていいご身分ですなー。ニートめー」
「放っとけ。自分を大切にするためだ」
まぁ実際、ここのとこまともに眠れていないので、眠気だけはばっちりある。少し寝れるように努めてみるのも悪くはあるまい。
「それより笑夢。だいぶ話し込んでるが、時間は大丈夫なのか?」
「ん? んー、んーんーんー、まぁぼちぼちやばいかなー、って時間。取り敢えず、枝垂っちに怒られることは確定かなー」
「なにをのほほんと言ってんだよ。さっさと学校へ行け」
「ちぇー。時間が過ぎるのは早いなー。そんじゃ、行ってくるね。夕方また会おうね」
「あぁ、よろしく頼む」
「はいはーい」
大きく手を振りながら、笑夢は駆け足で遠ざかっていく。
薄暗い路地裏の奥で、俺はすぐにひとりになった。さっきまで賑やかだった反動か、いやに静かに感じる。埃臭い空気に咳き込みながら、拠点となる廃墟へと戻っていく。
有言実行。笑夢に宣言した通り、少しは眠れるように頑張ってみよう。
死んでいるこの身でも、疲れは感じる。倦怠感は残る。眠れていないのが身体に響いているのは、ひしひしと感じていた。
あいつの言う通り、少しは自愛しよう。
全ての悲劇を一旦横に置いて、意識せずに眠ってみよう。
さすがにそうしないと、倒れてしまいそうだ。
「やっと行ったのね、あの女」
と。
バリケードを押しのけて、廃墟の中へと入っていくと、忌々しげに響く声がした。
降ってきた。
反射的に上を向く。煤けた天井にはなにもない。次いで聞こえた溜息で、発声源の位置がはっきりした。転びかけながら後ろへ振り向くと、廃墟の入口のすぐ上に、舞沙が座った姿勢で浮かんでいた。
じとーっ、と細めた目で俺のことを睨んでいる。小柄な少女の姿だが、真っ赤なその視線は鋭い。
……今日も結局、見ていたのか。俺と笑夢が会っていたところを。
「やっぱり、無理よ。無理無理。生理的に受け付けないわ。いえ、生物的に受け付けないわ」
「言い直して酷くしてやるなよ。っていうか、そんなに嫌いなら見なけりゃいいだろって、昨日も一昨日も言ったろ? なんで律儀に覗いてるんだよ」
「だって……あなたとあの女が、どんな話をしているのか気になるじゃない」
「大した話はしてねぇよ。友達だし、こんな物騒な案件に巻き込む訳にいかないしな」
「……隠れて私の悪口を言ってないか、とか」
「言わねぇよ。舞沙、俺はあんたに対して不満に思うことはなにもない。あるのは、感謝だけだ。何回も言ってるだろ?」
「……聞いてるけど」
「生き返らせてくれたのだってそうさ。あんたが生き返らせてくれなかったら、俺は家族を奪われた上に死んで泣き寝入りするところだったんだ。犯人を探させてくれることは、ありがたいと思ってるよ」
「……それも、聞いてるけど」
「んじゃ明日から覗くのやめろよ」
「……やだ。やめないわ」
「なにをムキになってんだか……」
舞沙は時折、こんなふうに子供っぽく頑固だ。
なにか心の内に、譲れない一線でもあるのだろうか。その琴線が読めないから、頭を抱えてしまう。
「……ひざまくら」
「ん?」
入口のところに浮かんでいた舞沙が、ふよふよと近づいてきた。
膝枕?
あぁ、そういえばさっき、笑夢とそんな話をしていたっけか。
「鎖天、眠れていないのでしょう? 夜も、ずっと見ているもの。知ってるわ」
「……まぁ、そうだな。ここのところ上手く寝れてはいない。死んでる身だから大丈夫かと思ってたんだが、そういう訳にもいかないみたいだな。正直、体調は芳しくない」
「……私が、ひざまくらすれば、寝られるかしら?」
「……んん?」
「さっき、あの女と話していたでしょう? いもうとやあの女じゃ無理でも、私ならできるかもしれないわ」
「いや、舞沙、なに言ってんだ?」
どこに対してムキになってるんだ? こいつ。
妙な対抗心を剥き出しにした舞沙は、ぽんぽんと自分の太腿を叩いてみせる。朝でも薄暗い廃ビルの中で、舞沙の身体は妖精の粉でもまぶしたように光っていた。
「ものは試しよ。一度やってみない? 私、初めてだけど頑張るわ」
「頑張るって……あのなぁ舞沙。あんたは時々、笑夢とか環に変な対抗心を――」
「お説教は、聞きたくない、わっ」
言うと、舞沙は俺の肩めがけて飛びかかってきた。
まるで重さを感じない、綿毛のように軽い身体。それでも、まったく手応えがない訳ではない。下へ押すような力が確かに感じられ、不意をつかれた俺は思わず膝を折った。
いわゆる、膝カックンを食らったような形。
座り込むように倒れる俺を支柱に、舞沙はぐるりと鉄棒みたいに回った。俺の背後を取ると、そのまま肩を押さえつけ、背中から床に着地させる。
音は大して響かなかったが、無理な体勢で落ちた所為で身体中に衝撃が走った。
だが、一点だけはその衝撃を免れていた。
頭部である。
後頭部だけは、なにやら柔らかいものに包まれ、衝撃を回避していた。
これは――
「どうかしら? 鎖天。ひざまくらって、こうするのよね?」
むふー、と満足気な鼻息が聞こえる。
ぱちくりと視界を更新すると、すぐ真ん前に舞沙の童顔があった。しかも上下逆さまに。
となると、頭を包んでいるのは、舞沙の太腿か。
絵に描いたような、膝枕の姿勢――――俺の体勢がややおかしなことになっているが、間違いなくそうだった。
……無理矢理にでも膝枕に持ち込みやがった、こいつ。
「……強引なのはやめてくれ。突然はビビる」
「次回から善処するわ」
当てにならない台詞だった。
それはさておき寝心地だが……正直、かなりいい。
【蟲】の集合体である舞沙の身体は、触れれば解けてしまうほどに柔く脆い。膝枕では、それが良い方向に発揮されていた。骨や筋肉のない太腿が、頭に合わせて沈み、全体を優しく包んでくれるのだ。それに温かい。子供の体温みたいな、心地よい温かさがある。
今まで体験した膝枕の中で、ダントツの心地よさだ。
だが。
「それより、どうかしら鎖天。気持ちいい? 眠れそうかしら?」
「……舞沙」
「うん?」
期待に胸を膨らませているのだろう、うきうきとした笑顔で覗き込んでくる舞沙。
俺は、そんな舞沙に残念な報告をしなければならなかった。
きぃ、きぃ、と。
きぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃ、と。
「……多分、【蟲】が鳴いてるんだと思うが……きぃきぃうるさくて眠れそうにない」
絶えず両耳に聞こえてくる、黒板を引っ掻いたような音。
食欲の権化である【蟲】が、餌を求めて鳴いているのだろう。睡眠導入に有効とはとても言えないその音が、寧ろ目を冴えさせてしまう。
「……そう……」
目に見えて表情を暗くし、がっくりと項垂れる舞沙。
寝心地自体は非常にいい分、若干残念な気がしないでもないのだが、まぁこればかりは仕方ない。
起き上がり、寝袋の準備に取り掛かる。万年床のように敷きっ放しでもいいとは思うのだが、癖で毎朝片付けてしまう。丸めて袋に詰めていた寝袋を引っ張り出し、眠る準備を進める。
「……私、【蟲】を黙らせられるよう、努力するわ。鎖天、あなたに最高のひざまくらを提供してあげるから、少し待っていなさい」
「あー……うん、その、無理はしないようにな?」
完全に方向音痴な努力を宣言した舞沙だったが。
なにやら固い決意を秘めた顔をしていたので、俺はそれ以上、なにも言えなかった。
朝の日差しを避けるように建物の影に入っていた俺のところに、笑夢がぶんぶんと手を振ってやってきた。
一体なんの薬をキメたらそこまでハイテンションで生きられるのかと、そう問い質したくなるご機嫌模様。駆け寄ってくる度にセーラー服をぱつんぱつんにしている胸が大きく揺れ、目のやり場に困ってしまう。
「おはよう、笑夢。今日も朝から元気だな」
「そう言う鎖天っちは今日も元気なさそうだね。昨日より目の下、真っ黒になってるよ。ちゃんと寝てる?」
腰を曲げた笑夢に下から覗き込まれて、俺は思わず目を逸らす。
――――一連の悲劇が俺を襲ってから、もう三日が経っている。
昼間はまだ我慢が利くのだが、夜になると、どうしても感情を抑え切れず、眠ろうとしても起きてしまう。額にびっしりと脂汗を掻いて、飛び起きるなんてしょっちゅうだ。一緒の部屋にいる舞沙を、何度驚かせたか分からない。
三日分合わせて、まだ一日分も寝れていないだろう。隈が濃く刻まれるのも当然だった。
「ご心配には及ばねぇよ。どうせもう死んでる身だしな。それより、ニュースでなにか新しい情報はあったか?」
「特にはないねー。まぁ、こんな片田舎で起きた事件だし、一気に鎖天っち、有名人になっちゃったけどね」
言いながら、笑夢は鞄と一緒に持っていたビニール袋から、新聞を取り出して渡してきた。
笑夢に頼んだこと――――それは情報の差し入れだ。
舞沙が最寄りの警察署に忍び込めるから、捜査情報を手に入れるのには困らない。困らないが、それと同時に、この事件が世間にどう報道されているのか知りたかった。
巷への報され方で、俺の身の振り方は多少変わってくるからだ。堂々と表通りを歩いていいのか、それとも身を隠し続けるべきなのか。
……不幸にも、この三日間で得られた情報を総合すると、俺は後者の動き方を余儀なくされている。
「地方紙とはいえ、一面を堂々占拠か。もう三日も経っているのにな」
「それだけセンセーショナルな事件だってことだよ。ニュースもそればっかり。で、新聞でもニュースでもなんだけど」
笑夢が新聞を上から覗き込むような格好で、溜息混じりに言う。
「鎖天っちと妹ちゃん、完全に犯人扱いされてるね。学校にもテレビの人がいっぱい来て、もうめちゃくちゃ。授業にならないって、先生キレてたもん」
「そうか……まぁ、そうなるよなぁ……」
「おまけにみんな、鎖天っちのこと忘れてるしね」
「ややこしいことになってそうだな、学校」
「さすがに笑夢っちでも面白がれないレベルでね」
がっくりと肩を落とす笑夢。
俺が疑われるのは、舞沙も予見していた通りだったが……まさか環まで犯人候補に入れられるとは思わなかった。
警察の情報によると、外部から第三者が侵入してきた形跡はないらしい。
死体がふたつ転がってて、同居しているふたりの子供が見当たらないのだ。そりゃ、俺たち兄妹を疑うのも当然か。
舞沙の見立てじゃ、環も既に殺されている可能性が高い。
だが、警察がその線を切って捜査しているということは、家の中に、環を殺害した形跡が見当たらないのだろう。それは俺にとって、一縷の希望たり得た。
もしかしたら、環は連れ攫われただけで。
まだ、どこかで生きているかもしれない。
犯人の下で、今も生きているかもしれない。
尤も、それを舞沙に伝えたら、「……あまり楽観的な見方はやめた方がいいわ。違った時、辛いだけよ」と冷たく言われてしまったが。
「とはいえ……今日も特に進展はなしか。新しい情報も特に載ってないみたいだし」
「うん。ニュースで言ってたこと的には、やっぱり、死亡推定時刻がネックらしいよ」
死亡推定時刻。
死後硬直や死体の腐敗状況、胃の内容物の状態などから割り出される、故人の死んだと思しき時間帯だ。
父さんと母さんの死体も、当然ながら警察によって解剖され、死亡推定時刻を算出されている。だが、その時刻が問題だったのだ。
殺されたのは、俺が死体を発見する一日前。つまり俺が死んだ日の、昼頃と推定されたのだ。
これは、いくらなんでもおかしい。昼頃に何故、両親揃って家にいたのだ? うちの家族は両親共働きだ。昼頃に家にいるような事情もなかったし、ニュースやワイドショーでも話題として取り沙汰されているようだ。
唯一、舞沙だけはこの問題を重視していなかった。
「身体から【蟲】が失われた状態だと、死体は通常通りの死後反応を示さなくなるわ。警察が弾き出した死亡推定時刻は、あまり当てにしない方がいいわよ」
ここでもまた、【蟲】が出てくる。
【蟲】が絡むと、警察の捜査は意味を成さなくなる……悲しいかな、納得せざるを得ない。実際、捜査の基本情報のひとつとなる死亡推定時刻がでたらめに近いのだ。そんなんじゃ、まともな結果など期待できまい。
「ん、ありがとうな。笑夢。おかげで変に浮世離れせずに済む」
「いえいえー。でも、本当にいいの? こんなことで」
「あぁ、充分だ。充分過ぎる。情報は鮮度が命だからな。生のニュースを直に入手できるってだけでかなりありがたいよ。助かってる」
まぁ、舞沙の受け売りなのだが。
その舞沙も、誰かからの受け売りだと言っていた。だから、言葉の意味をしかと噛み締められているかは、正直分からないのだけど。
「そう? それならいいんだけど……あ。ちゃんと夕刊も買ってくるからね。ちょっと遅くなっちゃうけど」
「? なにかあるのか?」
「日直。朝はテキトーな理由つけてサボれるけど、放課後はそうはいかないでしょ? 相方は枝垂っちだから、逃がしてはもらえなさそうだしさー」
「そりゃ災難だな。頑張ってくれ」
「ういー。頑張る、頑張るよー。笑夢っちは頑張り屋さんだからね」
言うと。
笑夢はするりと近づいてきて、ぽん、と俺の両肩に手を置いた。
丁度、新聞で笑夢の身体がすっぽりと隠れてしまう。視界を遮るそれをくしゃくしゃと避けると、笑夢は、俺の目を凝視していた。
じぃっと、睨みつけるように。
「え、笑夢?」
「……鎖天っちがどのくらい辛くて、どんな気持ちで過ごしているのか、私は所詮部外者だから、分かんないけど」
肩を掴む両手に、力が込められる。
死んだ身体じゃ、痛みは感じられない。けれど、容易に振りほどけるようなものではないと分かった。爪が肉に食い込み、掻痒を感じさせる。
「でも、心配してるんだよ。友達だもん。鎖天っち、どんどん窶れていってる。そんなんじゃ、いつか壊れちゃうよ」
「…………」
「もう死んじゃった鎖天っちには、犯人を探す他にないって、分かってはいるよ。けれど、無理はしないでね? 自分のことを、一番大事にしてあげて」
「…………分かってるよ」
逡巡しながら、ぎこちなく頷く。
自分のことを一番大事に、か。
どうなんだろう。俺は、自分を粗末に扱っているのだろうか。そんな自覚は、ないのだけど。
無理も、きっとしていない。警察にマークされている以上、表立っては歩けないのだ。情報収集も舞沙に任せ切りだし、自分じゃなにもしていない。できていない。
やることといえば、こうして笑夢が差し入れてくれた新聞を読むことくらい。
……本当に、復讐に向かっているのかと、時折不安になる。胸が圧迫されるような感覚が、じくじくと痛ませてくる。
「まーたごちゃごちゃ考えてるでしょ、鎖天っち」
ぱちんっ、と。
額を指でつつかれ、俺は朧気だった視界を取り戻す。
笑夢が、どこか怒ったような顔をして、俺のでこを弾いていた。痛くはないが、少し後ろへ押されたような衝撃に、思わず後ずさる。
「そういうところだよ、心配してるのは。忘れろっていうのは無理だろうけど、少しは気にしないでいられる時間は必要だよ。ちゃんと寝なさい。しっかり休みなさい。事件から頭離して。身体の方がもたなくなっちゃうよ。いいね? 友達命令」
「……気にするなって、言われてもな……」
「ほんのちょっとでいいの。どうせロクに寝れてないんでしょ? ――――あ! そうだそうだ、いひひひっ。笑夢っちってば名案を思いつきましたぞ」
「名案?」
急に悪戯っぽい笑みを浮かべてくる笑夢。
名案……嫌な予感しかしない。こいつがこんな顔で考えつくことといえば、きっと益体もないことに違いない。
そんな俺の不安をよそに、笑夢は豊満な胸を張りながら続けた。
「放課後夕刊届けに来た時、この笑夢っちが鎖天っちに膝枕をしてしんぜよう! こんな廃墟で寝ようとするからダメなんだよ。笑夢っちの柔らかあったか膝枕なら、鎖天っちも快眠できるっしょ?」
「……………………」
思わず天を仰ぐ。ビル群に遮られた空は、思ったよりも狭かった。
やっぱりか。
案の定ロクでもない提案だった。
というか、さすがにそれは友達相手にするものじゃないだろ。距離感どこいった。
それに……そんなところを見られたら、笑夢を蛇蝎の如く嫌っている舞沙になにをされるか、分かったものじゃない。
三日前には顔を合わせただけで殺されかけたのだ。膝枕なんてシーンを目撃されたら、マジで殺されかねん。
「どう? 鎖天っち。ナイスな提案っしょ?」
「却下だ却下」
「えー、つれないなぁ。現役JKの生膝だよ? 友達じゃなかったらお金取れるよ?」
「スカートを捲るな。太腿を見せつけてくるな。……膝枕なら前に妹にやってもらったことがあるが、そんなにいいものじゃないぞ。言っても人間の身体だし、存外硬い。位置が高過ぎて寝づらい。寝返りが打てない。やってる側の足が痺れるっていうデメリットがでかい。膝枕が天国なんて、そんなの漫画の中だけの話だ」
「経験者は語るねー。むー、そっかー。なら残念だけど見送りで。でも、そしたらどうしようかなー。鎖天っち安眠計画。早くも頓挫しそう」
「そこまで気を回さなくていい。夜寝られないなら、昼の内に寝りゃいいだけの話だ。おまえが学校に行ったら、少し寝れるよう頑張ってみるよ」
「真昼間からお寝んねなんていいご身分ですなー。ニートめー」
「放っとけ。自分を大切にするためだ」
まぁ実際、ここのとこまともに眠れていないので、眠気だけはばっちりある。少し寝れるように努めてみるのも悪くはあるまい。
「それより笑夢。だいぶ話し込んでるが、時間は大丈夫なのか?」
「ん? んー、んーんーんー、まぁぼちぼちやばいかなー、って時間。取り敢えず、枝垂っちに怒られることは確定かなー」
「なにをのほほんと言ってんだよ。さっさと学校へ行け」
「ちぇー。時間が過ぎるのは早いなー。そんじゃ、行ってくるね。夕方また会おうね」
「あぁ、よろしく頼む」
「はいはーい」
大きく手を振りながら、笑夢は駆け足で遠ざかっていく。
薄暗い路地裏の奥で、俺はすぐにひとりになった。さっきまで賑やかだった反動か、いやに静かに感じる。埃臭い空気に咳き込みながら、拠点となる廃墟へと戻っていく。
有言実行。笑夢に宣言した通り、少しは眠れるように頑張ってみよう。
死んでいるこの身でも、疲れは感じる。倦怠感は残る。眠れていないのが身体に響いているのは、ひしひしと感じていた。
あいつの言う通り、少しは自愛しよう。
全ての悲劇を一旦横に置いて、意識せずに眠ってみよう。
さすがにそうしないと、倒れてしまいそうだ。
「やっと行ったのね、あの女」
と。
バリケードを押しのけて、廃墟の中へと入っていくと、忌々しげに響く声がした。
降ってきた。
反射的に上を向く。煤けた天井にはなにもない。次いで聞こえた溜息で、発声源の位置がはっきりした。転びかけながら後ろへ振り向くと、廃墟の入口のすぐ上に、舞沙が座った姿勢で浮かんでいた。
じとーっ、と細めた目で俺のことを睨んでいる。小柄な少女の姿だが、真っ赤なその視線は鋭い。
……今日も結局、見ていたのか。俺と笑夢が会っていたところを。
「やっぱり、無理よ。無理無理。生理的に受け付けないわ。いえ、生物的に受け付けないわ」
「言い直して酷くしてやるなよ。っていうか、そんなに嫌いなら見なけりゃいいだろって、昨日も一昨日も言ったろ? なんで律儀に覗いてるんだよ」
「だって……あなたとあの女が、どんな話をしているのか気になるじゃない」
「大した話はしてねぇよ。友達だし、こんな物騒な案件に巻き込む訳にいかないしな」
「……隠れて私の悪口を言ってないか、とか」
「言わねぇよ。舞沙、俺はあんたに対して不満に思うことはなにもない。あるのは、感謝だけだ。何回も言ってるだろ?」
「……聞いてるけど」
「生き返らせてくれたのだってそうさ。あんたが生き返らせてくれなかったら、俺は家族を奪われた上に死んで泣き寝入りするところだったんだ。犯人を探させてくれることは、ありがたいと思ってるよ」
「……それも、聞いてるけど」
「んじゃ明日から覗くのやめろよ」
「……やだ。やめないわ」
「なにをムキになってんだか……」
舞沙は時折、こんなふうに子供っぽく頑固だ。
なにか心の内に、譲れない一線でもあるのだろうか。その琴線が読めないから、頭を抱えてしまう。
「……ひざまくら」
「ん?」
入口のところに浮かんでいた舞沙が、ふよふよと近づいてきた。
膝枕?
あぁ、そういえばさっき、笑夢とそんな話をしていたっけか。
「鎖天、眠れていないのでしょう? 夜も、ずっと見ているもの。知ってるわ」
「……まぁ、そうだな。ここのところ上手く寝れてはいない。死んでる身だから大丈夫かと思ってたんだが、そういう訳にもいかないみたいだな。正直、体調は芳しくない」
「……私が、ひざまくらすれば、寝られるかしら?」
「……んん?」
「さっき、あの女と話していたでしょう? いもうとやあの女じゃ無理でも、私ならできるかもしれないわ」
「いや、舞沙、なに言ってんだ?」
どこに対してムキになってるんだ? こいつ。
妙な対抗心を剥き出しにした舞沙は、ぽんぽんと自分の太腿を叩いてみせる。朝でも薄暗い廃ビルの中で、舞沙の身体は妖精の粉でもまぶしたように光っていた。
「ものは試しよ。一度やってみない? 私、初めてだけど頑張るわ」
「頑張るって……あのなぁ舞沙。あんたは時々、笑夢とか環に変な対抗心を――」
「お説教は、聞きたくない、わっ」
言うと、舞沙は俺の肩めがけて飛びかかってきた。
まるで重さを感じない、綿毛のように軽い身体。それでも、まったく手応えがない訳ではない。下へ押すような力が確かに感じられ、不意をつかれた俺は思わず膝を折った。
いわゆる、膝カックンを食らったような形。
座り込むように倒れる俺を支柱に、舞沙はぐるりと鉄棒みたいに回った。俺の背後を取ると、そのまま肩を押さえつけ、背中から床に着地させる。
音は大して響かなかったが、無理な体勢で落ちた所為で身体中に衝撃が走った。
だが、一点だけはその衝撃を免れていた。
頭部である。
後頭部だけは、なにやら柔らかいものに包まれ、衝撃を回避していた。
これは――
「どうかしら? 鎖天。ひざまくらって、こうするのよね?」
むふー、と満足気な鼻息が聞こえる。
ぱちくりと視界を更新すると、すぐ真ん前に舞沙の童顔があった。しかも上下逆さまに。
となると、頭を包んでいるのは、舞沙の太腿か。
絵に描いたような、膝枕の姿勢――――俺の体勢がややおかしなことになっているが、間違いなくそうだった。
……無理矢理にでも膝枕に持ち込みやがった、こいつ。
「……強引なのはやめてくれ。突然はビビる」
「次回から善処するわ」
当てにならない台詞だった。
それはさておき寝心地だが……正直、かなりいい。
【蟲】の集合体である舞沙の身体は、触れれば解けてしまうほどに柔く脆い。膝枕では、それが良い方向に発揮されていた。骨や筋肉のない太腿が、頭に合わせて沈み、全体を優しく包んでくれるのだ。それに温かい。子供の体温みたいな、心地よい温かさがある。
今まで体験した膝枕の中で、ダントツの心地よさだ。
だが。
「それより、どうかしら鎖天。気持ちいい? 眠れそうかしら?」
「……舞沙」
「うん?」
期待に胸を膨らませているのだろう、うきうきとした笑顔で覗き込んでくる舞沙。
俺は、そんな舞沙に残念な報告をしなければならなかった。
きぃ、きぃ、と。
きぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃきぃ、と。
「……多分、【蟲】が鳴いてるんだと思うが……きぃきぃうるさくて眠れそうにない」
絶えず両耳に聞こえてくる、黒板を引っ掻いたような音。
食欲の権化である【蟲】が、餌を求めて鳴いているのだろう。睡眠導入に有効とはとても言えないその音が、寧ろ目を冴えさせてしまう。
「……そう……」
目に見えて表情を暗くし、がっくりと項垂れる舞沙。
寝心地自体は非常にいい分、若干残念な気がしないでもないのだが、まぁこればかりは仕方ない。
起き上がり、寝袋の準備に取り掛かる。万年床のように敷きっ放しでもいいとは思うのだが、癖で毎朝片付けてしまう。丸めて袋に詰めていた寝袋を引っ張り出し、眠る準備を進める。
「……私、【蟲】を黙らせられるよう、努力するわ。鎖天、あなたに最高のひざまくらを提供してあげるから、少し待っていなさい」
「あー……うん、その、無理はしないようにな?」
完全に方向音痴な努力を宣言した舞沙だったが。
なにやら固い決意を秘めた顔をしていたので、俺はそれ以上、なにも言えなかった。