3 草薙鎖天は斯く復讐の炎を燃やす

文字数 6,647文字

「――――あ」

 地面に浮き出た小さな突起。力ない足がそれに引っかかり、俺の身体はなんの抵抗もなく前のめりに転がった。
 手を突き出すこともなく、顔面から地面へと滑り込む。ざりざりと、アスファルトが全身を引っ掻き回す感触。それでも痛みを感じることなく、俺は怠惰に倒れたままだった。
 今、どこにいるのか。
 それさえ分からず、ごろりと横へ転がる。
 仰向けになり、ぼんやりと空を仰ぐ。ビルの狭間から見える夜空は、狭く息苦しく、煤けて見えた。

 ――――霧雨さんと別れた後。
 喫茶店を出た俺は、あてもなく路地裏を彷徨っていた。何度も頭や身体を建物に打ちつけ、その度に視界がチカチカ瞬いた。行く先を定めない放浪は、どのくらい続いたか分からない。気がつけば、もうすっかり夜は更けていて、目視では数メートル先さえ見通せなくなっていた。
 ついさっき、笑夢の死体を見つけた場所にも立ち寄ってきた。
 警察が検分を終え、死体を回収した後だったのだろう。笑夢の身体どころか、流れ出した血の海さえ綺麗に消えていた。まるで何事もなかったかのように、ただの路地裏を構成する一片と化したそこを見て、俺は思わず、涙をこぼしていた。
 なんで泣けてくるのか、自分でも分からない。
 水なんてこの三日間、ほとんど口にしていないのに。
 一体身体のどこから水分が溢れ出してくるのか、不思議だった。
 少し塩辛い雫が、今も顔をぐちゃぐちゃに濡らしている。

「……笑夢」

 名前を呼んでも、もう返事をすることはない。
 妹や、両親と一緒だ。
 もう、死んでしまったから。
 殺されて、しまったから。

「……なんで、だよ……」

 妹を殺された。
 両親を殺された。
 そして今度は、友達を殺された。
 一体、俺がなにをしたというんだ。なんで俺の周りでばっかり、こんなことが起きるんだ。
 誰だ、誰だ、誰なんだ。
 俺をこんなにも苦しめるのは、一体誰なんだ。

「……舞沙……なのか……?」

 さっきの、探偵を名乗る女性から聞いた話。
 俺を生き返らせた奴こそ、俺を苦しめる全ての元凶。
 舞沙こそが、一連の悲劇の犯人。
 もしそうなら、動機以外は説明がつく。
 両親を殺し、妹を殺し、その死体を【蟲】で喰い尽くし、そして笑夢をも殺した。
 笑夢に至っては、動機まではっきりしている。
 殺害方法だって簡単だ。舞沙の身体は【蟲】の集合体だ。そして、【蟲】はいつだって腹を空かしている。人間の生命力を喰いたがっている。生命力に溢れた肉を、喰いたがっている。実際、今朝だってそうだった。腹を減らした【蟲】たちが、きぃきぃ喚いていたじゃないか。
【蟲】を黙らせるよう、努力するとも言っていた。
 空腹を黙らせるには、なにかを喰わせてしまえばいい。
 その餌に、笑夢は選ばれたんじゃないのか?
【蟲】を笑夢の喉元に添わせ、ぐちゃりと首筋を――

「……待て、よ……?」

 なにか、なにかがおかしい
 舞沙が犯人なら、全ての事件に説明がつく筈だ。
 なのに、なんだ? この違和感は。
 なにかひとつ、重大なことを見逃しているような――

『あの女、【蟲】に嫌われているのよ』

 そうだ。
 舞沙が、言っていたじゃないか。
 笑夢は、【蟲】の影響をほとんど受けない、特異体質だと。
 これは、嘘じゃない。だって、クラス中の誰もが俺のことを忘れている中、笑夢ひとりだけが俺を覚えていてくれた。【蟲】に記憶を喰われることなく、俺を忘れないでいてくれた。
 そんな笑夢を、【蟲】を用いて殺すことは、不可能だ。
 扱える凶器が【蟲】しかいない舞沙には、必然的に、犯行が不可能になる。
 なら、同一犯と思しき俺の家族を殺した奴も、舞沙ではなくなる。

 そうだ、やっぱりそうだよ。
 舞沙じゃない。舞沙の筈がない。
 第一、舞沙には動機がない。俺たち家族を殺し、俺だけを生き返らせ、俺に関する記憶を消し、笑夢を殺す理由なんて。
 やっぱり、犯人は別にいる。
 あの探偵の言ってることは、大きな間違いだ。
 だけど。

「じゃあ、一体誰がやったっていうんだよ……」

 嫌な現実が、まざまざと目の前に広がっていく。
 初対面の探偵なんて胡散臭い人間の言を、俺が少しでも信じてしまったのは、舞沙が一連の犯行にもってこいの人物だったからだ。【蟲】を扱え、死体を喰う必然性があり、笑夢を嫌っていた人物。だから俺は、舞沙のことを疑ってしまった。

 けど、じゃあそれが間違いだったとして、誰を疑えばいい?
 疑わしい人物なんて、他にいないじゃないか。
 両親の死体から【蟲】がなくなっていたことから、犯人は【蟲】を扱える人物に限られる。
 けどそんな奴、俺の知っている中にはいない。
 唯一該当するのは、舞沙が語っていた知り合いの人非人くらいだが、死体自体が喰われていることから、その可能性も除外される。かの人非人には、食人の趣味はなかったというから。

 じゃあ、誰だ。
 誰なんだよ。
 次々と俺の周りの人間を殺しているのは、一体誰なんだ――――


「鎖天!」


 声が聞こえて、俺ははっと気がついた。
 いつの間にか、顎の辺りが濡れている。指で掬うと、真っ赤で粘性のある液体がついてきた。
 血だ。
 奥歯を噛み締め、軋ませ過ぎたのだろう。歯茎から夥しい量の血が溢れ出し、口から下を濡らしていた。

「鎖天! やっと見つけた! 今までどこにいたの⁉」

 声が、エコーをかけたように段々と大きくなっていく。
 同時に、俺の腹の上に、白い靄が集まっていく。まるで三日前、俺を喰おうと襲いかかってきた【蟲】の群れだ。けど、あの時とは色が違う。
 この純白を、俺は知っている。
 ほんの数秒で、靄は形を成し、ひとりの少女を作り上げた。
 髪の根元から爪先まで、全てが純白に染められたその姿。
 闇夜に煌めく真っ赤な瞳は、一度見れば忘れられまい。
 身体と同化しているように白いワンピースを纏った――――狂々理舞沙が、そこに現れた。

「……舞沙……」
「この、バカ鎖天!」

 ぱふっ、と。
 舞沙の柔らかい手が、頬に打ちつけられる。
 けど、小さな【蟲】が寄り集まった舞沙の身体は、そんな衝撃にさえ耐えられずに霧散する。痛みはない。きっとそれは、痛覚が生きていても同じだっただろう。
 なんの衝撃も感じなかった頬。だが、俺ははたいてきた舞沙の顔を、まじまじと見つめることになった。
 泣いているように見えた。
 目は鋭く、それでいて怖がるように見開かれている。唇の向こうには震える歯が覗き、焦りを表すように肩で息をしていた。

「バカ! 本当に……バカ……!」

 腹の辺りに跨る舞沙は。
 そのまま倒れ込むように、ぎゅうと俺を抱き締めてきた。

「……舞、沙……?」
「……心配、したのよ……? 拠点に戻っても、あなたがいなくて……どこか、行っちゃったんじゃないかって……連れていかれたんじゃ、ないかって……心配、だったんだから……!」
「…………!」

【蟲】たちは相変わらず、きぃきぃと喧しい。
 それでも、温かな体温が優しく俺を包み込んでくれる。叩けば解けそうな脆い身体を、舞沙は力強く押しつけてきた。
 ……本気で、心配していたのか。
 涙まで流しそうな、そんな顔をして。
 身体を細かい【蟲】にばらして、方々を探し回ってくれていたのか。

 ……俺は。
 俺は、こんな奴のことを、疑っていたのか。
 全ての事件に説明がつくと、勝手に納得して。
 こんなにも真剣に俺の身を案じてくれる舞沙を、疑っていた。
 ……くそ。罪悪感で死にたくなる。申し訳なさで胸が苦しいくらいだ。

「どこ、行ってたのよ……私を、ひとり置いてけぼりで……心配した……。怖かったん、だから…………あなたが、いなくなっちゃうんじゃないかって……!」
「……ごめん、舞沙」

 俺には、それしか言えなかった。
 心配をかけて。
 急にいなくなって。
 ……疑ったりして。
 ごめんと。
 そう謝罪することしか、できなかった。

「ごめん……ごめんな……」
「……約束、して」

 舞沙は、震える声で言った。
 ぐ、と顔が持ち上がる。今にも泣き出しそうな顔で俺を睨みながら、舞沙は続ける。

「もう、私のそばから離れないって。いなくならないって。ずっとそばにいるって、約束して。……でないと私、不安で仕方ないの。あなたが、どこかに行っちゃうんじゃないかって、怖くて、堪らないの。だからお願い、約束して、鎖天……」
「……分かったよ」

 倒れたまま、俺は右腕を持ち上げる。
 舞沙に向けて、小指だけをぴんと伸ばす。舞沙は意味が分かっていないのか、きょとんとした顔をしている。その呆けた顔がまた、環によく似ている。俺がサプライズで誕生日パーティーを開いた時も、そんな顔をしていたっけ。
 懐かしい話だ。
 そして、もう叶わない話か。
 でも、こいつのは。
 舞沙の笑顔くらいは、こんな俺でもまだ、守れるのか。

「約束する。いなくなったりしねぇよ。ちゃんと、あんたのそばにいる」
「……本当に?」
「あぁ、本当さ。ほら、その証拠に、指切りしようぜ?」
「ゆびきり?」
「こうすんだよ」

 空いた左手で舞沙の右腕をひったくると、小さく脆い小指に狙いを定め、自分の指を巻き付ける。
 舞沙は呆気に取られているようだ。俺は構わず、下手くそなリズムに乗せてお決まりの歌を歌う。
 昔から連綿と続く、誓いの儀式を。

「指切りげんまん嘘吐いたら針千本飲ます、ってな。ほら、これで約束できた。破ったら、なんなりと罰を与えて構わないぜ」
「……? 今ので、約束したことになるの?」
「あぁ。絶対に破られない約束だ。なにせ指まで切ったんだからな」
「……そう。なら、いいわ」

 舞沙は呆れたようにくすくす笑う。
 理解ができないと諦めたのだろうか。まぁ、それでもいいさ。約束を交わしたという、その事実こそ重要なんだ。
 舞沙のそばを離れない。
 それを誓うことでこんな風に舞沙が笑ってくれるなら、その方がいい。

「……あの女、殺されたみたいね」
「……笑夢のこと、か」
「えぇ」

 しゅんと落ち込んだ面持ちで、舞沙は呟いた。
 意外な反応だった。
 笑夢を嫌っていた舞沙は、笑夢が死んだことに対して、少なくともマイナスのリアクションは取らないものだと思っていた。大っぴらに喜ぶようなことはないにしても、こんな顔を見せるとは予想外だった。

「あなたを探している途中、警察があの女の死体を運び出しているのを見たわ。きっと、あなたもあれを見ちゃったんだと思って……だから、余計に焦って探したわ。あなたとあの女、仲がいいようだったし……取り乱して、変な行動をしていないかとか、気になって」
「……笑夢は」

 俺は。
 まるで懺悔のように、言葉を吐き出した。

「笑夢は、俺が殺したようなものだ」
「え……どういう、意味?」
「俺が、あいつを巻き込んだ。友達だからって甘えて、事件に巻き込んじまったんだ。だから、誰が殺していようと、あいつは、俺が殺したようなものなんだ。俺の、俺の所為なんだよ……」
「……あなたは、なにも悪くないわ。鎖天」

 くしゃくしゃと。
 小さな手で頭を撫でながら、舞沙は言う。
 言って、くれる。

「あなたは、巻き込まれた被害者でしかないわ。あの女だって、きっとあなたを恨んではいない。憎むべきは、あなたからあの女を奪った犯人でしょう? 自分を、そんなに責めないであげて。自分を大切にしろって、あの女にも言われていたでしょう?」
「……でも」
「でもじゃないわ。あなたが悪いことなんて、ひとつもない。私が保証するわ。あなたは、なにもかもを背負い込み過ぎなのよ」
「…………」
「私も、その重荷を一緒に背負うわ。ひとりで無理しないで。あの女も、あなたのおやもいもうとも、そんなことは望んでいない筈よ」
「……ありがとう……ごめんな……」
「感謝も謝罪もいらないわ。当たり前のことを言っただけだもの」
「……さっき、探偵だっていう人と、会ってきた。俺の周りで起きている事件について、調べているって言っていた」
「探偵……?」
「その人は、笑夢を殺した犯人と、両親を殺した犯人が、同一人物だって、言っていた。……そいつが、俺の仇だって、推理していた」
「…………」
「でも、分からないんだ。そんな奴、思い当たらないんだよ。誰が、誰がみんなを殺したんだ? 父さんを、母さんを、妹を、友達まで! そいつは、俺からどれだけ奪えば気が済むんだよ!」

 途中から、俺は激昴した声を上げていた。
 壁に挟まれた路地裏では、声がよく響く。くわんくわんと反響した自分の声に、ますます激情を掻き立てられていく。
 それを、舞沙は哀れむような目で眺めていた。

「許さない! 許さない許さない許さない許さない! 俺からなにもかもを奪う権利が、誰にあるっていうんだ! もう嫌だ、うんざりだたくさんだ! 死にたいくらい辛い! 俺は今、犯人を殺したいほど憎んでいる!」
「…………」
「殺してやる! 殺してやるよもう! 犯人が俺に対してそうしたように! 俺だって犯人を殺してやる! もうそれでもいい! 殺人犯に堕しても構わない! 俺は、俺は――」
「……可哀想」

 ぎゅうっ、と。
 舞沙が、俺のことを再び抱き締めてきた。
 身体の上で、寝転がるような姿勢を取る舞沙。その小さな身体はぽかぽかと温かく、まるで陽だまりのようだった。
 微かに香る、甘い匂い。
 ふわふわの髪に口が塞がれ、言葉が出なくなる。

「可哀想、可哀想、可哀想な鎖天。身内に留まらず、ともだちまで殺されて……可哀想な鎖天。なんにも悪いことをしていないのに、理不尽な悲劇に巻き込まれて……本当に、可哀想」
「……舞、沙」
「生き返らない方が、よかった?」
「…………」
「私の勝手な都合で生き返らせて、こんなに可哀想な目に遭って……私が、生き返らせない方が、幸せだった? 鎖天」
「……それ、は……」
「もし、本気で死にたくなったら、いつでも言って」
「…………」
「私が、あなたのことを殺してあげる。全ての苦しみから解放してあげる。身体から【蟲】を抜き取って、痛みもなく殺してあげる。あらゆる苦痛と懊悩から、あなたを逃がしてあげる」
「…………」
「だから、安心して」

 舞沙は。
 酔ってしまいそうなくらい優しい声で、そう言った。

「苦しくて辛くて、もう耐えられなくなっちゃったら、私が殺してあげる。あなたにだって、逃げ道はあるの。全部投げ出して、死んじゃえばいい。いつだって、あなたが望むなら、殺してあげるから。だから」

 だからこれ以上、自分を追い詰めないであげて。
 舞沙は、真っ赤な瞳で俺を見つめながら、言ってくれた。
 殺して、あげる。
 それを言うのに、どれほどの勇気が必要だろう。死体が嫌いで、殺人が嫌いな舞沙が、その嫌悪をかなぐり捨ててまで、俺を思って言ってくれたのだ。

 生きるのが、そんなに辛いなら。
 自分が優しく、殺してあげると。

「……ありがとうな、舞沙」

 ゆっくりと起き上がりながら、俺は言った。
 抱きついていた舞沙も、一緒に身体を起こす。全身が鉛のように重い。腕を倦怠感が包み込み、起きるのにさえ一苦労だった。
 けど、もう大丈夫。
 舞沙が、いるから。
 家族が、友達が、妹がいなくなっても、俺にはまだ、仲間がいる。
 舞沙が、いてくれる。
 俺を生き返らせ、俺を殺してくれると言うこいつが。
 だから、俺はまだ諦めない。
 必ず、犯人を捕まえてやる。
 犯人をこの手で、裁いてやる。
 殺してやる。
 もう、法律なんて知ったことか。死人の俺に、今更そんなもの、なんの意味もない。
 今や復讐だけが、俺を突き動かす全てだった。

「鎖天……?」
「もう、大丈夫だよ。舞沙。おかげで、少しは回復した。……やってやるさ」

 家族も、友達も奪われた。
 だったらその分、奪い尽くしてやる。
 より強くなった復讐の炎を胸に、俺はようやく立ち上がるのだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み