狂々理舞沙は斯く裂き笑う
文字数 3,163文字
「……眠っているわね、鎖天」
問いかけるように、或いは独り言のように、狂々理舞沙は呟いた。
彼女の身体以外光源のない、月明かりさえ避けて通るような廃墟の内。彼女の問いに応える声はない。代わりに聞こえるのは、小さな吐息たち。規則的に聞こえるそれは穏やかで、とても悲劇の渦中にいる人物が発するものとは思えない。
草薙鎖天は、眠っていた。
舞沙の折り畳んだ膝を枕にし、寝返りさえも打てないほどに疲れ切って、熟睡している。ちょっとやそっとの刺激では起きそうにない。
その寝顔を見て、舞沙は薄く微笑んだ。
「ちょっと、出かけてくるわね。大丈夫、【蟲】を探しに出るだけだから、すぐに戻るわ。それまで、ちゃんと寝ているのよ?」
その声に、やはり応えはない。
だが、舞沙は言ったことで既に満足したのか、ほろほろと膝を構成する【蟲】たちをばらけさせていった。徐々に鎖天の頭が下がっていき、やがて音もなく床に着地する。柔らかな温もりは失われたが、それでもやはり、起きはしない。
立ち上がった舞沙は、そのまま廃墟の出口へと向かう。ふよふよと浮かびながら移動するその様は、まるで幽霊のようだった。
――――本当は、最初から全部、分かっていた。
「……っふふ、うふふ」
【蟲】の気配を手繰りながら、舞沙は思い返す。
草薙環が、自身の両親を、そして鎖天を殺した犯人であることを、舞沙は最初から看破していた。
四人の家族がいて、内三人が殺されていてひとりがいなくなっているのなら、残ったひとりを疑うのは常道だろう。警察も、死体に残された歯型や唾液から、犯人が環だという真相には辿り着いている。
だが、舞沙はそれを敢えて言わなかった。
鎖天に、匂わせさえもしなかった。
理由は簡単だ――――鎖天に、幻滅してほしかったから。
草薙環に対して、鎖天に、絶望してもらいたかったから。
「っふふ、うふふふふふ」
最初から犯人が環であることを正直に言っても、鎖天は信じなかっただろう。それどころか反発していただろう。それも酷い剣幕で。そんなことで舞沙に対する信頼度を下げたくはなかったし、険悪な関係にもなりたくなかった。
舞沙の目的は、至極単純だから。
舞沙はただ――――草薙鎖天の、唯一無二になりたかった。
「ふふふっ、うふふふふふふふふふ」
初めて彼を見た時の衝撃を、舞沙は忘れない。
首があらぬ方向へ曲がり、心臓を剥き出しにして。
明らかに、あからさまに絶命している、鎖天を見た時。
狂々理舞沙は、これまで感じたことのないような胸の高鳴りを覚えた。
思考のベクトルが全てそちらを向いた。感性の方向性がまとめて定まった。自分の今までの生は、この少年と出会うためにあったのだと確信できた。
彼女は一瞬で、恋に落ちたのだ。
物言わぬ死体と化した、草薙鎖天と。
いてもたってもいられなくなった彼女は、衝動をそのまま行動に移した。
彼と見つめ合いたかった。
彼と語り合いたかった。
彼と抱き合いたかった。
だから――――無理矢理に、強引にでも生き返らせた。
【蟲】を殺しの道具に使われるのが嫌だなんて、咄嗟に吐いた出任せだ。確かに嫌悪感はあるが、だからといって【蟲】によって殺された人間を、いちいち生き返らせたりはしない。
生き返らせたら生き返らせた分だけ、責任が生じるから。
面倒が生じるから。
だが、それらも全て抱え込めるだけの自信があった。こと草薙鎖天に関しては、あらゆる常道から例外だった。
彼と共にあれるのなら。
他になにもいらないと、胸を張って言えるほどに。
「ふふふ、うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
だが、弊害もあった。
草薙鎖天には、舞沙 よりも、自分自身よりも大切なものがいたのだ。
草薙環――――忌々しい女。鎖天の妹。【蟲】を喰う前代未聞の少女。
彼女のことが、邪魔だった。目障りだった。耳障りだった。彼女についての話を聞くだけで、胸がじくじくと痛んだ。そんな話はしないでほしいと、何度喉から言葉が出かけただろう。それでも舞沙は、必死に耐えてきた。
だって草薙環は、明らかなる人殺しだ。
その現実を突きつければ、いくら鎖天でも、妹に幻滅するだろうと。
妹を嫌いになってくれるだろうと。
自分だけを見てくれるだろうと――――そう、思っていたから。
なのに、なのに。
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
草薙鎖天は、変わらなかった。
これ以上ない惨劇を見せつけられ、これ以上ない惨状を目の当たりにしてなお。
鎖天の、妹に対する愛は、微塵も揺らがなかった。
それは、計算外だった。
しかし、同時に深く納得する事実でもあった。
たとえ、たとえ鎖天が誰かを身勝手に殺したとしても。
舞沙は、鎖天のことを嫌いにはなれないだろうから。
鎖天と舞沙は、似ているから。
偶然ではなく、必然に。
舞沙が鎖天に惹かれるのと、同じように。
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
――――草薙智恵。
――――鎖天より先に生まれた、そして死んだ、草薙家の長姉。
舞沙は確信していた。鎖天が後生大事に持ってきた位牌。そこに刻まれた名前こそ自分であると。
狂々理舞沙は、草薙智恵なのだと。
根拠はなにもない。しかし、万人がそれを否定しようと舞沙の確信は揺るがない。
舞沙は、草薙智恵の魂を依代として、【蟲】が寄り集まった存在だ。
だから、弟である鎖天にこんなにも惹かれる――――妹と同じように。
けれど、妹のことは、嫌いだった。
草薙環のことが、嫌いだった。
憎んでいるとさえ言えるだろう。
自分から鎖天を奪う彼女のことが――――嫌いで、邪魔で、仕方なかった。
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ――――やっぱり、死んでもらうしかないかしら」
鎖天を自分のものにするには。
やっぱり、環の存在は邪魔だった。
消えてもらうしかないと、結論づけるほどに。
人殺しは嫌いだ。死体だって嫌いだ。
けれど、鎖天に対する独占欲は、そんな嫌悪を激しく凌駕する。
草薙鎖天を自分のものにできるなら。
誰の命だって、刈り取ってしまおう――――そんな物騒な思考を、止められなかった。
「草薙環は、簡単ね。もっともっと、私を喰わせればいい。勝手に臓腑から【蟲】に喰われて自滅してくれるわ。そうしたら本当に、鎖天はひとりになっちゃう。そこに私が優しく手を差し伸べるの。きっと鎖天は、私だけを見てくれるわ。お膳立ては頑張ったのだもの。結果もついてきてくれないと困るわ」
歌うように言いながら、舞沙は進んでいく。
血のように真っ赤な瞳が、爛々と光る。口角が自ずと持ち上がり、笑みを止められなくなる。
思い浮かべるだけで、堪らなくなってしまう。
きゅんきゅんと、下腹の辺りが疼く。
これが、これが愛なのだろうか。
なんとも蠱惑的な感情だ――――ぺろ、と舞沙は唇を舐めた。
身を爆ぜ飛ばさんばかりに激しい愛の情動を、堪えるように。
それでも抑え切れずに、笑みがこぼれ出てしまう。
その様はまるで、口が裂けているようで――
「渡さない……! 鎖天は私の、私だけのものよ……! っふふ、うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ――――」
妖しく光る月を見上げながら。
狂々理舞沙は斯く裂き笑う――――
問いかけるように、或いは独り言のように、狂々理舞沙は呟いた。
彼女の身体以外光源のない、月明かりさえ避けて通るような廃墟の内。彼女の問いに応える声はない。代わりに聞こえるのは、小さな吐息たち。規則的に聞こえるそれは穏やかで、とても悲劇の渦中にいる人物が発するものとは思えない。
草薙鎖天は、眠っていた。
舞沙の折り畳んだ膝を枕にし、寝返りさえも打てないほどに疲れ切って、熟睡している。ちょっとやそっとの刺激では起きそうにない。
その寝顔を見て、舞沙は薄く微笑んだ。
「ちょっと、出かけてくるわね。大丈夫、【蟲】を探しに出るだけだから、すぐに戻るわ。それまで、ちゃんと寝ているのよ?」
その声に、やはり応えはない。
だが、舞沙は言ったことで既に満足したのか、ほろほろと膝を構成する【蟲】たちをばらけさせていった。徐々に鎖天の頭が下がっていき、やがて音もなく床に着地する。柔らかな温もりは失われたが、それでもやはり、起きはしない。
立ち上がった舞沙は、そのまま廃墟の出口へと向かう。ふよふよと浮かびながら移動するその様は、まるで幽霊のようだった。
――――本当は、最初から全部、分かっていた。
「……っふふ、うふふ」
【蟲】の気配を手繰りながら、舞沙は思い返す。
草薙環が、自身の両親を、そして鎖天を殺した犯人であることを、舞沙は最初から看破していた。
四人の家族がいて、内三人が殺されていてひとりがいなくなっているのなら、残ったひとりを疑うのは常道だろう。警察も、死体に残された歯型や唾液から、犯人が環だという真相には辿り着いている。
だが、舞沙はそれを敢えて言わなかった。
鎖天に、匂わせさえもしなかった。
理由は簡単だ――――鎖天に、幻滅してほしかったから。
草薙環に対して、鎖天に、絶望してもらいたかったから。
「っふふ、うふふふふふ」
最初から犯人が環であることを正直に言っても、鎖天は信じなかっただろう。それどころか反発していただろう。それも酷い剣幕で。そんなことで舞沙に対する信頼度を下げたくはなかったし、険悪な関係にもなりたくなかった。
舞沙の目的は、至極単純だから。
舞沙はただ――――草薙鎖天の、唯一無二になりたかった。
「ふふふっ、うふふふふふふふふふ」
初めて彼を見た時の衝撃を、舞沙は忘れない。
首があらぬ方向へ曲がり、心臓を剥き出しにして。
明らかに、あからさまに絶命している、鎖天を見た時。
狂々理舞沙は、これまで感じたことのないような胸の高鳴りを覚えた。
思考のベクトルが全てそちらを向いた。感性の方向性がまとめて定まった。自分の今までの生は、この少年と出会うためにあったのだと確信できた。
彼女は一瞬で、恋に落ちたのだ。
物言わぬ死体と化した、草薙鎖天と。
いてもたってもいられなくなった彼女は、衝動をそのまま行動に移した。
彼と見つめ合いたかった。
彼と語り合いたかった。
彼と抱き合いたかった。
だから――――無理矢理に、強引にでも生き返らせた。
【蟲】を殺しの道具に使われるのが嫌だなんて、咄嗟に吐いた出任せだ。確かに嫌悪感はあるが、だからといって【蟲】によって殺された人間を、いちいち生き返らせたりはしない。
生き返らせたら生き返らせた分だけ、責任が生じるから。
面倒が生じるから。
だが、それらも全て抱え込めるだけの自信があった。こと草薙鎖天に関しては、あらゆる常道から例外だった。
彼と共にあれるのなら。
他になにもいらないと、胸を張って言えるほどに。
「ふふふ、うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
だが、弊害もあった。
草薙鎖天には、
草薙環――――忌々しい女。鎖天の妹。【蟲】を喰う前代未聞の少女。
彼女のことが、邪魔だった。目障りだった。耳障りだった。彼女についての話を聞くだけで、胸がじくじくと痛んだ。そんな話はしないでほしいと、何度喉から言葉が出かけただろう。それでも舞沙は、必死に耐えてきた。
だって草薙環は、明らかなる人殺しだ。
その現実を突きつければ、いくら鎖天でも、妹に幻滅するだろうと。
妹を嫌いになってくれるだろうと。
自分だけを見てくれるだろうと――――そう、思っていたから。
なのに、なのに。
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
草薙鎖天は、変わらなかった。
これ以上ない惨劇を見せつけられ、これ以上ない惨状を目の当たりにしてなお。
鎖天の、妹に対する愛は、微塵も揺らがなかった。
それは、計算外だった。
しかし、同時に深く納得する事実でもあった。
たとえ、たとえ鎖天が誰かを身勝手に殺したとしても。
舞沙は、鎖天のことを嫌いにはなれないだろうから。
鎖天と舞沙は、似ているから。
偶然ではなく、必然に。
舞沙が鎖天に惹かれるのと、同じように。
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
――――草薙智恵。
――――鎖天より先に生まれた、そして死んだ、草薙家の長姉。
舞沙は確信していた。鎖天が後生大事に持ってきた位牌。そこに刻まれた名前こそ自分であると。
狂々理舞沙は、草薙智恵なのだと。
根拠はなにもない。しかし、万人がそれを否定しようと舞沙の確信は揺るがない。
舞沙は、草薙智恵の魂を依代として、【蟲】が寄り集まった存在だ。
だから、弟である鎖天にこんなにも惹かれる――――妹と同じように。
けれど、妹のことは、嫌いだった。
草薙環のことが、嫌いだった。
憎んでいるとさえ言えるだろう。
自分から鎖天を奪う彼女のことが――――嫌いで、邪魔で、仕方なかった。
「うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ――――やっぱり、死んでもらうしかないかしら」
鎖天を自分のものにするには。
やっぱり、環の存在は邪魔だった。
消えてもらうしかないと、結論づけるほどに。
人殺しは嫌いだ。死体だって嫌いだ。
けれど、鎖天に対する独占欲は、そんな嫌悪を激しく凌駕する。
草薙鎖天を自分のものにできるなら。
誰の命だって、刈り取ってしまおう――――そんな物騒な思考を、止められなかった。
「草薙環は、簡単ね。もっともっと、私を喰わせればいい。勝手に臓腑から【蟲】に喰われて自滅してくれるわ。そうしたら本当に、鎖天はひとりになっちゃう。そこに私が優しく手を差し伸べるの。きっと鎖天は、私だけを見てくれるわ。お膳立ては頑張ったのだもの。結果もついてきてくれないと困るわ」
歌うように言いながら、舞沙は進んでいく。
血のように真っ赤な瞳が、爛々と光る。口角が自ずと持ち上がり、笑みを止められなくなる。
思い浮かべるだけで、堪らなくなってしまう。
きゅんきゅんと、下腹の辺りが疼く。
これが、これが愛なのだろうか。
なんとも蠱惑的な感情だ――――ぺろ、と舞沙は唇を舐めた。
身を爆ぜ飛ばさんばかりに激しい愛の情動を、堪えるように。
それでも抑え切れずに、笑みがこぼれ出てしまう。
その様はまるで、口が裂けているようで――
「渡さない……! 鎖天は私の、私だけのものよ……! っふふ、うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ――――」
妖しく光る月を見上げながら。
狂々理舞沙は斯く裂き笑う――――