1 草薙鎖天は斯く起床す

文字数 1,467文字

「おにいちゃ~ん。朝だよ~、起きなきゃな時間だよ~」

 鈴が転がるような、可愛らしい声が耳朶を叩いた。
 朗らかに間延びした声。脳にその信号が届くと同時に、俺の意識はまどろみから拾い上げられる。うっすらと開いた目には、麗らかな朝の日差しが差し込み、覚醒を促してくる。
 もぞもぞとベッドの中で身体を揺らして、俺は枕元に置いてある目覚まし時計を手に取った。針が示す時刻は、朝の六時五五分。学校へ行くには、少し早い時間だ。

「んー……あと五分……」
「ダメだよ~。おにいちゃん、そう言って二度寝したら三〇分は起きないんだもん。ほら、お母さんが朝ごはんの用意してくれてるよ~。早く行かないと、怒られちゃうかもだよ~」

 ゆさゆさと、布団ごと身体が揺さぶられる。
 寝惚けた頭は、それを揺りかごのような安らかさと誤認する。再び眠気が押し寄せてきて、俺は大きな欠伸をした。枕にゆっくりと頭が沈んでいく。

「も~。おにいちゃんったら寝ぼ助なんだから。起きないと、(たまき)は最終手段に打って出るよ~」
「んー……なんだって……?」
「ぶー。人の話を聞かないおにいちゃんは、お仕置きなんだよ~」

 そう言って。
 ぽふっ、と布団が大きく跳ねた。ぼやけた視界には、俺の上に馬乗りになった奴の姿が見える。軽い。まるで綿毛だ、重さなんてまったく感じない。
 マウントポジションを取ったそいつは、俺の肩を掴み、上半身を持ち上げにかかる。惰眠を貪りたがっている身体は、ぐにゃりと曲がったまま、込められる力に逆らわない。
 やがて、腰から上が持ち上げられると。
 そいつは迷いなく、俺の唇に自分のそれを重ねた

「…………」
「…………」

 沈黙が重なり合い、静かな時間が流れる。
 柔らかく温かくて、それでいて弾力がある。いつまでも触れていたくなるような触り心地の唇に、俺は酔い潰れたように吸い付いた。
 ふたりして肩を抱き合い、互いの唇の感触を確かめる。
 呼吸さえ忘れてしまう瞬間。
 やがて満足したのか、そいつは唇を離し、にぃっと笑った。

「えへへ~。おはよう、おにいちゃん」
「……あぁ、おはよう。環」

 朝の挨拶を返すと、そいつは――――妹の草薙(くさなぎ)環は、もう一度強く俺の身体を抱き締めた。
 互いの身体が密着し、体温が行き来する。環の小さな身体はぽかぽかと温かく、まるで陽だまりのようだ。あぁ、ダメだ。また眠くなってきてしまう。
 環の背に腕を回したまま、俺は後ろへと倒れ込んだ。環もそのまま、抵抗なく布団の中へ転がっていく。抱き枕のように環を抱き締めると、仄かに甘い香りが鼻腔をくすぐった。
 その匂いを嗅ぐだけで、堪らなくなってきてしまう。
 細い身体が折れてしまうんじゃないかってくらい、力強く環を抱き締める。腕に力を込めれば込めるほど、環の柔らかな肢体が俺の胸へと擦りつけられる。

「も~。おにいちゃん、起きたんじゃなかったの?」
「……ごめん。あと五分だけ、な?」
「も~、しょうがないんだから。五分だけ、だよ?」

 そう言うと、環は俺の胸に顔を埋め、ぐりぐりと顔を押しつけてくる。
 俺はそれに応えるように、環の髪を優しく撫でた。烏の濡れ羽色をした、しなやかな髪。指を通すだけで、さらさらとしたそれが解けていくようで、くすぐったく、気持ちがいい。
 もう環は中学の制服に着替え、登校する準備は万端だというのに。
 俺はこのまま、時が止まればいいのにと夢想しながら、意識を甘い匂いの中へと放り投げた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み