6 草薙鎖天は斯く喰い千切られる

文字数 11,291文字

 一瞬で、視界が白に染められた。
 脳裏をかすめるのは四日前の記憶。舞沙と出会う直前、群れを成した【蟲】に襲われた感覚。ぞくっ、と背筋が冷える。胸の奥で本能が警鐘を鳴らす。早く逃げろ、とにかく避けろと。
【蟲】は人間の生命力を、そして死体を喰らう。
 生命力を持った死体である俺は――――格好の餌だ。

「う、わぁあああっ!」

 咄嗟に。
 反射的に。
 突然襲いかかられた時の当然の反応として、俺は勢いよく右腕を振るっていた。
 喰らいついてくる【蟲】を払うように。
 だが、それは悪手だった。
 じゅくっ、と齧られるような音がした。一回じゃない。何回も、いくつも、重なり合うように音が響く。

 痛みはなかった。
 だが気づいた時には――――俺の右腕は、根元からごっそりとなくなっていた。
 喰われた、のだ。
【蟲】によって、一瞬で。

「な、ぁああっ⁉」
「あはははっ、あっははははははは! 喰われた! 喰われたねぇ鎖天くん! どうだい? 【蟲】に喰われた気持ちは?【蟲】の糧になれた気分はどうだい⁉」

 狂ったように、霧々須が笑う。
 目を見開き、俺を睨むようにしながら。
 喰われた腕の残した遠心力に負けて、俺は尻餅をついた。ぐじゅぐじゅと、咀嚼音を立てながら【蟲】が俺の腕だったものを貪っている。貪欲な【蟲】たちが、腕一本で満足する訳がない。その場で浮遊しているのはほんの一時だろう。

 左手を不器用に使い、必死に後ずさる。
 喰われた。喰われた。喰われた。
 ほんの瞬きひとつの間に、右腕がごっそりと失われたのだ。
 デタラメだ。どんな武器や兵器より恐ろしい。恣意的に、悪意を持って操られた【蟲】がこれほど恐ろしいとは、思わなかった。
 来るな。来るな。来るんじゃない。

「ゲームの答えは出たかい? 鎖天くん」

 破れた皮袋のようにズタズタになった右腕を揺らしつつ、霧々須が訊ねてくる。
 ゲームだと? そんなの、考える余裕なんてない。
 俺の脳内を占めていたのは、圧倒的な恐怖だけだった。
 ガチガチと歯を打ち鳴らすのが止められない。涙で視界が滲み、【蟲】たちの輪郭すら朧気になってきた。
 それでもなお鮮明に映る霧々須の顔は、嘲笑一色に染まっていた。

「君が死んだら、舞沙は、環ちゃんは、どう思うだろうね――――私の答えはこうさ。舞沙は勿論怒り狂う。環ちゃんも同様だ。ふたりは、手を下した私のことを憎むだろう、恨むだろう。殺してやると殺意を抱くだろう。そして私を殺そうと、私の隙を窺ってくれる。四六時中復讐のために、私のことを考えてくれるだろうさ! あぁ、なんて素敵なんだ! 憎悪と愛、そのふたつはどこが違う⁉ こんなにも一途な憎悪は、もはや愛と変わらない! 舞沙から、環ちゃんから、無上の愛を向けられる! それに勝る恍惚はないね! 私の理想通りだ! 白状しよう、鎖天くん! 私はね、環ちゃんと出会った最初の最初から、君を殺すためだけに協力を惜しまなかったんだ! そう! 全ては愛のためさ!」
「あ、い……⁉」

 この人は。
 この人は、なにを言っているんだ?
 なにひとつ理解できない。理論を、理屈を並べられても、脳が理解を拒絶する。
 愛? 愛だって? 霧々須を突き動かす動機の、どこに愛があるというんだ?
 環に協力したのも、俺を殺すため?
 俺を殺して、環に憎まれるため?
 環に、愛されるため?
 ……狂ってる。イカれている。
 破綻している。ぶっ壊れてる。
 俺は、俺はこんな狂った奴の暴走で、殺されるのか?
 理不尽で身勝手な、意味不明な理由で殺されるのか?
 そんなの、嫌だ。
 誰か、誰か助けて――

「あぁ、あぁ胸が躍る。生娘のように、処女のように胸が弾けそうだ。君を殺せば、私はどれだけ憎まれるだろう。どれだけ恨まれるだろう。どれだけ――――愛されるだろう! 想像するだけで達しそうだよ! 舞沙に、そして環ちゃんに! 私は愛される! ふたりとも私のそばから離れない! 歓喜だ喝采だ狂喜だ乱舞だ! 私の念願は今こそ叶う! だから――――君にはとっとと死んでもらおうか、鎖天くん。お預けをくらい過ぎて、もうびしょ濡れなんだよ。それじゃあ、さようなら」

 白が、迫る。
 なにかを堪えるように前屈みになった霧々須が、無慈悲に腕を振るう。それを合図に、【蟲】の大群は一斉に俺へと向かってきた。俺の身体など、軽く呑み込んでしまうだろう【蟲】の掌。ただただ理不尽な暴力と化したそれが一気に迫りきていた。
 無意識に、身体は動いた。
 ただ喰われるだけの運命に、抗おうとした。

「来るな――――来るんじゃ、ねぇっ!」

 咄嗟に俺は、近くにあった教卓を掴み、【蟲】の群れめがけて投げつけた。
 ひと塊となっていた【蟲】の大群、そのど真ん中に教卓が突っ込み、亀裂が入る。勢いに押され、【蟲】は四方へと吹き飛ばされていった。
 隙ができた。早く、早くここから、離れないと――

「甘いんだよ、鎖天くん」

 立ち上がって逃げようとした、その矢先だった。
 ざくぅっ、と音を立てて。
 首筋が、脇腹が、膝が、両脚の腱が。
 弓矢のように飛来した【蟲】によって、喰い千切られた。

「な――――」

 視界の端に覗く、真っ赤な肉。
 血の出ない歪な傷口を見ながら、立ち上がりかけた身体は呆気なくバランスを失った。無様に背中から転げ落ち、衝撃が内臓を直撃する。

「まだまだ、【蟲】に対しての認識が甘いね、鎖天くん。【蟲】は食欲の権化だよ? 少し散らされた程度で、獲物を諦めはしない。寧ろ君がいたずらにばらつかせたことで、掌だった【蟲】は五指となり、君を鋭く喰らうことに成功したようだ。自分から苦しむ時間を増やすだなんて、君は性的倒錯者なのかい?」

 ききききっ、と【蟲】の笑うような声が聞こえた。
 首を喰われ、ひゅーひゅーと傷口から空気が漏れる。
 脇腹の傷口からは、内臓がいくつもこぼれ出ていた。
 腱を喰われた脚に、力が入らない。立ち上がれない。
 もう、動けない。
 既に死んでいる死体でありながら、俺は今更になお、殺されていた。
 喰い、殺されていた。

「あ……あ……」
「やれやれ、思ったより手間をかけさせてくれたね。さぁ、これで最後だ、鎖天くん」

 ぽた、ぽた、と胸に雫が垂れる。
 霧々須が。
 霧々須心愛が、倒れた俺の上半身を跨ぐようにして、立っていた。
 左手で下腹を押さえる彼女は、笑っていた。嘲笑っていた。ぐにゃぐにゃに歪んだ唇で笑みを湛え、ぐるぐると狂った瞳で俺を見つめている。
 破れてぼろぼろになった右腕に、【蟲】が集う。
 無数の白い粒たちは、寄り集まって形を成していった。鋭い牙に、大きな口。細かい鱗まで再現されたそれは。

 蛇だ。
 白い、蛇だ。
 人ひとり丸呑みにできそうな、巨大な蛇が出来上がった。
 大口を開けたそれは、俺の方を見ている。見つめている。睨んでいる。凝視している。
 本物の蛇ならきっと、涎を垂らしていただろう。目の前に獲物がいるのだから。
 にたぁ、と笑う霧々須が、舌舐めずりと共に口を開いた。

「最後に教えてあげるよ、鎖天くん。この教室の惨状。中学校の方も見てきたんだっけ? これは君の所為だ。君が昨日、自分を生き返らせた奴を、舞沙を、知らないだなんて嘯いたから、こうなったんだ。君の妹が何十人という人数を殺した契機は、君の嘘だ」
「っ……どう、いう」
「本当は昨日で終わらせる筈だったのさ。環ちゃんから氏村笑夢ちゃんを殺したと聞かされた時に、一連の流れを思いついた。君に探偵として接触し、舞沙の元へ案内させる。そして、舞沙の目の前で、君を殺してあげるつもりだった。そうすれば、私は舞沙からちゃんと恨まれる(愛される)だろう? 環ちゃんには後で、死体の一部でも見せてあげればいい。彼女もそれで私を憎んで(愛して)くれる筈だった。なのに――――君が知らないなんて言うから、環ちゃんの恋心は、独占欲は暴走した。いや、最初から暴走はしていたんだっけ? っははは、挙句がこの大量殺戮さ。まぁ私も、大量の【蟲】を確保できたんだし、この展開はこの展開で美味しかったんだけどねぇ」
「…………!」
「あははっ、いい顔をするねぇ、鎖天くん。そういう顔、私は大好きなんだ。悲哀で、痛苦で、悔恨で、絶望で打ちひしがれた顔――――この学校でも、たくさん見ることができたよ。だから、君にはお礼を言わなくちゃね。ありがとう、鎖天くん」

 そして、さようなら。
 私の愛の糧になっておくれ。
 囁くように言うと、霧々須は腕に――その残骸に――巻きついていた蛇を解き放った。
【蟲】の寄り集まってできた蛇は、真っ直ぐに俺の頭部へと向かってきた。巨大な口を開けて、鋭い牙を煌めかせて、ぐしゃりと顔面を喰い千切らんと。

 ――――俺の、俺の所為で。
 俺の所為で、みんな死んだ。
 環に、殺人を犯させた。
 こんなにも多くの、無辜の命を奪わせた。
 俺が昨日、あの時、嘘を吐いたから。
 舞沙の存在を、霧々須に隠したから。
 俺が、俺が悪いんだ。
 笑夢が、枝垂が、みんなが死んだのも。
 全部、俺の所為なんだ。
 こんな、こんな俺は。
 何十人も、何百人も殺させた俺は。
 こんな罪深い俺は――――死んだ方がいいんじゃないか。
 この【蟲】たちの、大蛇の毒牙にかかって。
 喰われて死んだ方がいいんじゃないか。
 これから死ぬ人を、少しでも減らせるんじゃないか。
 これまで死んだ人への、償いにはなるんじゃないか。
 そんな考えが脳裏に浮かんで、俺は、反論ができないでいた。
 いるだけで、周りの人間を殺してしまう俺は。
 生きていちゃいけないんじゃないか――

 蛇が、迫る。
 すぐ、すぐ眼前に。
 あと一秒も経たない内に、俺は顔面を噛み砕かれるだろう。
 脳を、心臓を、飛び出した内臓を残さず喰い尽くされ、命を失うだろう。
【蟲】で繋がれた偽りの命を。
 死にたくない――――そんな当たり前と同時に。
 死んでしまえと。
 いなくなってしまえと。
 俺みたいな奴は、死んだ方がいいと――――脳が囁く。俺と同じ声で、呟く。
 こんなにも多くの命を奪わせた俺に。
 生きている意味なんてない――

「っ、霧々須、心愛ぁっ‼」

 鼓膜を撃ち抜くように響いたのは、怒声の織り成す絶叫だった。
 ひらひらと、白い裾がはためく。視界を占拠するそれは、現状の認識を拒むかのように白以外を目に映させない。
 死んで、ない。
 喰われて、いない。
 目も見えるし、耳も聞こえる。顔面を、喰われてはいない。

 なにが、起こった?
 鉛のように重い身体を左手で動かし、なんとか持ち上げる。
 なにが、なにが起こったのか。
 把握しなくちゃいけない――――そんな気がした。
 死んだ方がいいと。
 生を諦めた俺に、なにが起こって生き残っているのか――


 真っ先に目に映ったのは――――あまりにも痛々しい、舞沙の背中だった。


「舞、沙……⁉」

 それは、凄惨の一言に尽きる有様だった。
 左半身が、ほぼ失われている。頭部さえ、半分程度しか残っていない。腕も肩も胸も腹も、足の付け根に至るまで無残に喰い千切られていた。
 その傷口に、心臓を食むように蛇が噛みついている。
 ぎちぎちと、牙を舞沙の身体に食い込ませている。
 恐らく、半身を失ったのは環との戦いのさなか。
【蟲】である彼女は容赦なく、喰われたのだろう。【蟲】を喰うという、環の稀代の異能によって。
 身体を、ここまで削られたのだろう。
 それでいてなお、そこまで傷ついてなお。

「なん、で……?」

 なんで、俺を助けたんだ。
 なんで、俺を守ったんだよ。
 俺なんかを。
 こんなにも多くの命を奪う、そのきっかけになった俺を。
 生きている価値なんてなにもない、こんな俺を。
 身を挺して、身を傷つけてさえ。

「なんで……なんで、だよ、舞沙……! 俺、は――」
「死なせない……! あなたのことは、死んでも死なせない!」

 きっと、半分も残っちゃいない唇で。
 舞沙は、俺の言葉なんて聞かずに、声を紡いだ。

「殺されて堪るものですか。死なれるなんて冗談じゃないわ。鎖天、あなたは私が生き返らせたのよ。望むなら、それ以外にないのなら、喜んで殺してあげる。けれど、他人に――――ましてやこいつに、霧々須心愛に! 殺されるなんて! 許さない、許さないわ!」

 きぃぃっ、と絹を裂くような悲鳴が響いた。
 叫びを上げたのは、舞沙に噛みついている大蛇だった。びくびくと巨体を痙攣させ、がくがくと牙を動かす。【蟲】の集まりである蛇は、苦しげに呻いていた。

 そして、次の瞬間。
 大蛇の身体を貫くように、無数の白い腕が大蛇の体内から飛び出してきた。

 きぃぃぃぃぃっ、と苦悶の声が上がる。
 蛇から生えるように出てきた腕たちは、それぞれが蛇を押さえつけるように蠢いている。がしゅっ、がしゅっと音を立て、見る見る内に蛇の身体が齧られていく。
 喰って、いるのだ。
 蛇を貫いた手が。
 触れるだけで、無数の【蟲】が寄り集まった蛇の身体を削っていく。

 そうだ。環だけじゃなかった。
 狂々理舞沙もまた、【蟲】を喰う能力を持っている。
【蟲】の集合体である舞沙は、自分の身体を維持するために【蟲】を必要とする。
 こんな巨大な蛇、格好の獲物だろう。
 蛇は噛みついた牙に縛られ、自分で逃げ場を封じていた。ばたばたと尾を振るが、もう遅い。舞沙に噛みついた時点で、勝負は決していた。

「鎖天は私が生き返らせた! だから鎖天は私のもの! 誰にも渡さない、誰にも殺させない! 鎖天を奪おうとする奴は、私が許さない!」

 吼える舞沙が、眩い光に包まれる。
 蛇は、光に呑まれて消えていった。恐らく、完全に喰われたのだろう。
 極光は、ほんの一瞬。
 光が収まり、次に舞沙が現れた時。

「…………!」

 舞沙の姿は、様変わりしていた。
 簡素なワンピースだった服装は、豪奢なドレスに変わっていた。背中が大きく開き、恐らく胸元も大きく開いているだろう。スカートは何重にも襞が刻まれ、足元を完全に隠していた。髪は足の先を超えて床に伸びており、美しい銀の煌めきを放っている。
 頭には、小さなティアラが光る。
 それもまた、蠢く【蟲】でできていた。

「……舞沙……!」
「私は醜い【蟲】の女王――――霧々須心愛。あなたのことを、私は許さない。あなたは今ここで、私が殺してあげる」
「……あっは」

 殺気で、背中が凍るようだった。
 舞沙の全身から放たれる敵意。害意。その全てが霧々須に向けられていた。きっと彼女は今、霧々須を凄まじい形相で睨んでいるだろう。

 そんな舞沙を目の前にして。
 霧々須心愛は――――笑っていた。

「あっははははは! あはははははははははははははは! なんだいその姿は! 見たことない、聞いたこともない! そんな姿になれるんじゃないか! 正に【蟲】の王に相応しい! いいなぁ、いいなぁ、羨ましいなぁ! 姿形さえ自由自在なんて、なんて君が羨ましいんだ! いや、妬ましい! 狂おしい! まったくもって気が狂いそうだ! やはりいいなぁ! 君が、君がいい! 狂々理舞沙! 私はやはり君が欲しい! 君がいい! 君になりたい! 私は、私は――――」

 霧々須の言葉は、そこで途切れた。
 前のめりになり、夢中で言葉を紡いでいた霧々須は、それにまったく気づかなかった。気づけなかった。
 環が。
 草薙環が。
 渾身の右ストレートを横合いから顎めがけて放ってくるのに――――だから、咄嗟に受けることすら、彼女にはできなかった。

 軽々と、霧々須が吹き飛ばされる。黒板から凄まじい音が鳴り、霧々須はその場に崩れ落ちる。
 その、その顔は。

「あっははははは……酷いなぁ環ちゃん。いきなり殴ってくるだなんて」

 朗らかに、和やかに笑うその顔は。
 ズレていた。
 文字通りの意味で、ずるりと。
 顔の皮がずれ、目や鼻の穴から内部が覗いていた。

 うぞうぞと蠢く、無数の【蟲】たちが。
 赤い肉の代わりに、霧々須の顔を作っていた。

「……あなた、おにいちゃんになにをしようとしたの。わたしのおにいちゃんを、殺そうとしたでしょ! ねぇ! 霧々須心愛!」
「あぁそうだよ。だって、仕方ないじゃないか。そうでもしないと、君や舞沙は私に愛を向けてくれない。必要な犠牲なんだよ、彼は。私にとって、草薙鎖天は不倶戴天の仇敵だ」
「ふざけないで! ふざけないでふざけないでふざけないでふざけないで! わたしのおにいちゃんに! 手を出さないでよっ!」

 何度も。
 何度も、環は拳を繰り出した。
 麻薬中毒者のように座り込む霧々須に馬乗りになり、顔を右から左から、ひたすら殴打していく。その度に、顔の皮は無残にズレていき、おどろおどろしい中身を見せつけてくる。

【蟲】。
【蟲】だ。
 霧々須心愛の顔面は、【蟲】で構成されていた。

「あっはははは、いいねぇ。こうやって殴られるのも新鮮だ。相手が環ちゃんという美少女だから、より一層そう感じるのかもね」
「うるさいうるさいうるさいうるさい! 気持ち悪いよ、あなたは! あなたなんて、大っ嫌いなんだから!」
「あっはははは、ツンデレという奴かい? やっぱり君は可愛いね、環ちゃん」
「あぁもううるさいっ! あなたなんか、あなたなんか――」

 あなたなんか。
 喰い殺してやる。
 そう言わんばかりに、環は口を大きく開き、霧々須の喉元に噛みついた。
 ぶちぃっ、と皮膚が破れる音がする。だが、血は出てこなかった。代わりに傷口からこぼれ出てきたのは、やはり【蟲】だった。

 なんだ? どうなってるんだ?
 霧々須心愛は、人間でさえないのか?
 舞沙と同じ、意思を持った【蟲】なのか……?

「あっはは、痛い、痛いなぁ。そうか、喰われるというのはこういう感覚なのか。んん、いいねぇ。癖になる。美少女に喰われるだなんて、考えてみればいいシチュエーションだよ」
「……終わりね、霧々須心愛」

 音もなく、舞沙が霧々須に寄っていく。
 環は舞沙が近づくのも意に介さず、じゅるじゅると【蟲】を啜り上げていく。その度に少しずつ、ほんの少しずつ霧々須の顔が小さくなっていく。
 どんどん皮と、【蟲】でできた肉との解離が進んでいく。顔の皮がぐにゃぐにゃ歪み、奇妙な笑い顔を浮かべていた。

「しばらく見ない間に、随分人外じみた格好になったものね。肉体を【蟲】に置換するだなんて……でも、それが仇になったわね。草薙環は【蟲】を喰う特殊体質。あなたはそのまま喰われてお終いよ」
「残念ながらそれは叶わないよ」

 喰われているのに。
 自分の身体を、生きながらにして喰われているのに。
 霧々須は寒気を覚えるほど冷静に、穏やかな声を発した。

「私の最終目標は存在そのものを【蟲】に置換することだが……残念ながらまだ道半ばでね。置換に成功しているのは三割ほどだ。全て喰い尽くされても、生命維持に支障はない」
「そう――――なら、今この場で私が喰らってあげるわ。あなたの七割しかない、人間の部分をね」

 言うと、舞沙は高々と右腕を掲げた。
 途端、右腕が泡立ち変化する。きぃきぃと喚く声の中、舞沙の右腕は瞬く間に巨大な剣のような形に変貌した。
 あぶくが浮かぶ、歪な剣。
 禍々しいそれを、霧々須の脳天めがけて振り下ろす――

「待った」

 ばっ、と。
 霧々須が手を翳すと、舞沙の振るった剣は中心から爆散する。
 しかし、さっきの二の舞にはならない。
 剣の中から出てきたのは、おどろおどろしく肥大化した舞沙の右腕だった。きぃきぃと、呻く口が無数に生えている。きっとこちらこそが本命。霧々須を喰らうための奥の手。

 だが。

「その手を下ろしなよ、舞沙。でないと、環ちゃんを殺しちゃうよ?」

 弾け飛んだ【蟲】たちが、環の首に巻きついていく。
 きぃきぃ、きぃきぃと声がする。
 腹が減ったと、主張しているようだ。
 そして、獲物は目の前にある。
 一心不乱に【蟲】を吸い尽くそうとする、環が――

「いいのかい? この娘を殺しちゃっても」
「っ、そんなのど――」


「ダメだ! やめろ、やめてくれ! 頼む! お願いだから……やめて、くれよ!」


 ひゅー、と喉の穴から空気が抜けた。
 俺は、咄嗟に声を出していた。後先なんて考えず、反射で言葉を出していた。
 環が、死ぬ。
 殺される。
 それは、それだけは、受け入れられなかった。
 せっかく、生きていたのに。
 奪われてはいなかったのに。
 俺の目の前で死なれるなんて、そんなの、容認できるか――

「頼む、舞沙……やめて、くれ。腕を、下ろしてくれ……環を、俺の大切な妹を……死なせないでくれ……!」
「鎖天……!」

 振り返った舞沙は、ぐしゃぐしゃに顔を歪めていた。
 怒っているような、憐れんでいるような。
 震えているような、悲しんでいるような。
 ふぅっ、と舞沙の腕から力が抜けていった。だらりと下ろされた腕は、歪な変化を遂げたものではない。背格好に似つかわしいたおやかな細腕だった。

「ふむ、交渉成立かな。いやぁ助かったよ、そろそろお暇しないといけない頃合だからね――――ほら、いつまでハグしているんだい環ちゃん。そろそろ、離れなよ!」
「っ、ぐぅ⁉」

 霧々須の左手が、環の腹にねじ込まれる。
 完全に不意をついた一撃は、環の小さな身体を簡単に吹っ飛ばす。仰向けに倒された環は、しかし痛がる素振りも見せずに立ち上がり、歯を剥いて霧々須を睨んでいた。

「殺してやる……喰い殺してやるわ、あなた……!」
「あははっ、そんな熱視線を向けられるのも悪くはないが――――今はそんな場合じゃない。聞こえるかい? 私の嫌いな、奴らがやってきた」

 奴ら?
 そう言われて、はっと気がついた。耳に微かに聞こえてくる、サイレンの音。
 パトカーが、警察が近づいてきている。
 霧々須心愛の嫌いな、警察が。

「今回はここまでとしよう、舞沙、鎖天くん。その命、預けておくよ。次会った時には必ず奪ってあげる。――――ほら、環ちゃんも行くよ。警察に見つかったら不味いだろう?」
「っ、なんでわたしがあなたと一緒に……! わたし、おにいちゃんと一緒がいい! おにいちゃんを殺そうとしたあなたなんか、絶対に御免だよ!」
「おやぁ、いいのかい? 私を止められる君が、私を喰い止められる君が私を見張っていないと、私は、いつの間にか大事なおにいちゃんを殺しちゃうかもしれないよ?」
「…………!」

 立ち上がり、顔の皮を直した霧々須が、歪な笑みを浮かべながら言う。
 脅迫だ。
 環の中で、俺の命は大きな比重を占めている。俺への想いひとつだけで、何百人もの人間を手にかけるほどに。
 その命を、人質に取られた。
 ぎりっ、と歯軋りの音が聞こえてくる。

 やがて環は、霧々須の方へととぼとぼと歩き出した。
 行って、しまうのか。
 俺を守るために。
 俺を殺させないために。
 自ら犠牲になろうというのか――――環。
 せっかく、また出会えたのに。
 せっかく、生きていたのに。
 また、奪われてしまう――――

「狂々理舞沙」

 と。
 環は振り向くこともないまま、強張った声で言った。

「おにいちゃんは、あなたに一旦預けておくわ。あくまで一旦、一時的なものだから。勘違いしないでね。おにいちゃんは――――わたしだけのおにいちゃんなんだから」

 いつか、絶対に。
 おにいちゃんを、奪ってみせるから。
 言い残して、環と霧々須は教室から出ていった。
 カツカツと足音が廊下に響いて、それも、すぐに聞こえなくなっていく。この体たらくじゃ、今から追うのは不可能だ。

 警察に見つかったら不味いのは、俺も同じだ。警察からしてみたら、俺も環と同じ、重要な容疑者なのだから。
 早く、ここから出ていかないと。
 分かってはいるのに、身体が動いてくれない。
 鉛のように重苦しい倦怠感が、全身を支配していた。

 環。環。環。
 また会えたのに。
 いなくなってしまった。
 胸に、ぽっかりと穴が空いたようだった。ズキズキと、動いていない心臓が痛む。自然と涙がこみ上げてきて、俺は嗚咽もなく泣いていた。

「……ごめんなさい、逃がしたわ。あなたを、殺される訳にいかなかったから……ごめんなさい」

 ドレスをくるりと回してこっちを向いた舞沙は、恭しく頭を垂れて謝ってきた。
 真っ赤な瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。
 ……謝ることなんかない。
 舞沙は、俺のことを助けてくれた。守ってくれた。
 なのに謝られちゃ、こっちの立つ瀬がないじゃないか。

「……急いで、ここから脱出しましょう。傷は……治している時間はないわね。私があなたを運ぶわ。人通りの少ない道を選んで――」
「なぁ……舞沙」

 屈み込む舞沙を前にして、俺は、涙を止められなかった。
 喉の穴から不規則に空気が漏れる。辛うじて成り立っている嗚咽をこぼしながら、俺は続けた。

「なんで……なんで、俺なんか……助けたんだよ。守ったんだよ。……生き返らせたんだよ……」
「鎖天……?」
「全部……俺の所為なんだ……」

 俺が、俺が悪いんだ。
 全部、全部、なにもかも。
 俺さえいなければ、こんな事件は起こらなかった。

「環があんなになったのも、学校中の人間を殺したのも……全部、俺が悪いんだよ……! 俺の所為で、俺の所為で何人も、何人も何人も何人も何人も! 何人も、殺されたんだ……。そんな俺に……守ってもらう価値なんて、救ってもらう意味なんて、ないんだよ……なのに、なんで……どうして――」

 俺があの日、おとなしく死んでいれば。
 笑夢も枝垂も、みんなも、死なずに済んだ。
 俺が、みんなを殺したんだ。
 俺の、俺の所為で。
 全部、俺の所為で。
 償いようのない過ち。取り戻しようのない失態。
 いくら嘆いても、嘆き切れない。
 俺なんか、俺なんか。
 死んでしまっていればよかったのに――


「鎖天はなにも悪くない!」


 ぱぁんっ、と。
 頬に強い衝撃を感じ、ぐきりと首が斜めを向いた。
 叩かれたのだ。
 じんじんと遠ざかっていく衝撃の名残りが、それを告げていた。

 舞沙が。
 舞沙が、今にも泣きそうな顔をして、俺の頬を張っていた。

 なんで。
 なんで、そんな顔をしているんだよ。
 なんで、俺なんか庇ってくれるんだよ。
 なんで、なんで――

「鎖天は、なにも悪くないわ……あなたは、なにも悪くない……! 悪くなんか、ないんだから……!」
「舞沙……?」

 ぎゅうと、強く抱き締められる。
 腕に、力がこもっている。痛みはないが、少し苦しい。まるで弱音など吐けないように、喉を締め上げられているようだった。

「認めない……絶対に認めない……鎖天が悪いだなんて、そんなことない……私は、絶対に認めないから……! 許さない、から……!」

 端正な顔が、真っ赤な瞳が、どう歪んでいるのか、俺には見えない。
 譫言のように呟く舞沙の背中に、手を回すこともできず。
 俺は悪くない――――そんな言葉に一抹の慰みを覚えて、俺は、癒された気になってしまうのだった。
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