2 草薙鎖天は斯く復讐を誓う
文字数 6,592文字
携帯で時間を確認すると、もうじき昼時に差し掛かる時刻だった。
学ランのまま表通りを歩くのは、少々憚られた。こんな時間に学生服を着て歩いていたら、目立つことこの上ない。最悪警察にでも捕まって、学校に連絡されたら面倒なことになる。
何故かは知らないが、クラスの連中は揃って俺のことを忘れているのだ。
無理矢理学校に連れ戻されても、またあの冷たい視線に晒されるだけだ。いや、笑夢に襲いかかった一件から、そのまま補導されてしまうかもしれない。
そんなことにかかずらっている時間はないのだ。
俺は一刻も早く、家に帰りたかった。家族の無事を、確かめたかった。
ちなみに、舞沙に俺が教室中から忘れ去られてしまった事変についても聞いてみたが、なにも知らないとのことだった。曰く、記憶を喰う【蟲】も存在するのだという。もしかしたら、俺を殺した犯人が、死体の発見を防ぐために記憶をいじったのかもしれない、とのことだった。
しかし、今の俺にはそんなこと、どうでもよかった。
目下の関心事は、家族の、妹の安否だった。
路地裏を駆使し、なるべく人目につかない場所を選んで家へ帰る最中、俺は胸の中で必死に祈っていた。
どうか無事でいてくれ。
何事も起こっていないでくれ、と。
締めつけられるように痛む胸を押さえながら、普段の倍近くの時間をかけて家に辿り着く。
「あなたは、随分かぞくを愛しているのね」
道中、舞沙はそんなことを言ってきた。
俺の横にくっつくように飛ぶ彼女は、時折不思議そうな表情で俺の顔を覗き込んできた。
「かぞく愛、というのかしら。それときょうだい愛? いもうとのことをやたらと気にかけているものね。そんなに大事なものなの? それは」
「当たり前だ」
人が来ないタイミングを見計らいながら、俺は応えた。
「家族だぞ、大切じゃない訳がないだろ。妹だってそうだ。この世に妹が大切でない兄なんていないんだよ」
俺は自信を持って、そう応えた。
それきり、舞沙は黙ってしまっていたが、早く家に帰りたい俺にとっては好都合だった。
――――閑話休題。
家の周囲に、人はいない。住宅地の昼時は、本当に人が住んでいるのかと疑うレベルで静かだ。皆昼食や昼ドラ鑑賞で引きこもっているのだろう。買い物などで賑わうにはまだ早い。
門扉をくぐり、ドアノブをひねる。今朝慌てて家を飛び出したまま、施錠されていない扉。きぃ、と軽い音を上げて開くと、家の中からむわっと生温い空気が押し寄せてきた。
「…………!」
あの臭いだ。
思わず鼻をつまみたくなる、内臓を裏返されるような悪臭。昨日よりずっと強くなっている。
今朝の時点で気づけなかったのが、不思議なほどに。
「酷い臭いね」
舞沙が、俺と同じように鼻をつまみながら言う。
「死体の臭いだわ。間違いない……発生源はどこかしら」
「…………!」
靴のまま、家へと駆け込んでいく。
最初に見たのはリビングだ。扉を開けて中を覗いても、誰もいない。なにもない。普段と同じ、椅子とテーブルがあるだけだ。
一階の自分の部屋を飛ばして、階段を駆け上がり二階へ急ぐ。
妹の部屋を、ノックも忘れて開ける。いつもなら漂ってくる甘い香りが、死臭にすっかり犯されていて、吐き気を催す臭いとなっていた。
なにもない。
机にもベッドにも、可愛らしい小物たちにも異常はない。
残っているのは、両親の部屋。
この部屋さえ。
この部屋さえ無事なら、なにもなければ。
息を切らし、涙が流れそうになるのを必死に堪えながら、扉を開ける。
荒々しく、勢いのままに。
そこに――――あった。
両親の死体が、並べられていた。
死体、が――――
「うっ……!」
桁違い、だった。
家中に漂っているそれとは、比べものにならない異臭。吸い込むだけで肺が締め上げられるようだ。
脚から力が脱け、その場に座り込む。
――――凄惨の一言に尽きる有様だ。
殺されていた。両親はこれ以上ないほど明確に、殺されていた。
目はカッと見開き、苦悶の表情を今もなお浮かべている。
胸には、恐らく刃物で刺し殺されたのだろう。痛々しい傷痕が刻まれている。
そして、腰から下。
下半身に当たる部分が、ごっそりとなくなっていた。
現状を受け入れることさえ、俺はできないでいた。
両親が、殺されている。
しかも、その死体には下半身がない。
切断面になる腰の部分は、もうぐちゃぐちゃだった。肉がささくれ立ち、てらてらと光っている。すっかり乾いてしまっている血が、べったりと塗りつけられていた。
「なん、で……」
「喰われているわね、この死体」
放心する俺の横を、舞沙が淡々と通り過ぎていく。
死体をじぃっと見つめると、残念そうに溜息を吐いた。
「喰われてるって……これも、【蟲】が……?」
「いいえ、違うわ。【蟲】が死体を喰うっていうのは、肉体に残っている生命エネルギーを喰い尽くして、腐敗させるって意味だもの。そうじゃなくて、この死体は、人間によって喰い千切られているわ」
人間によって。
喰い千切られている、だと?
「は、犯人が、死体を喰ったってこと、か?」
「えぇ。腰の辺りに歯型もついているし、間違いないわね。犯人は食人趣味者かしら」
「そんな……人が、人を喰ったっていうのか……⁉ そんな、そんなことが……」
「あり得ないことじゃないわ」
動揺する俺のことなど構う風もなく、舞沙は冷静に語る。
「人肉食文化は、少数ではあるけど、世界中で見られる風習ではあるもの。この国でも、人肉が薬として珍重された時代があったわ。食人を自身のアイデンティティだと思う人間だっているの。現代日本で、家を突然襲った犯人が食人趣味を持っていても、なんら不思議ではないわ」
知り合いの受け売りだけどね。
舞沙は最後に、吐き捨てるように付け加えた。
けど、俺はその半分も聞いちゃいなかった。
言葉など、頭に入ってこなかった。
「……なん、で……」
ただただ、壊れたおもちゃのように。
譫言みたいに、声を漏らしているだけだった。
「なんで……父さんも、母さんも、死んでんだよ……殺されてるんだよ……なんで、なんでその死体まで、喰われているんだよ……!」
「さぁ。私には分からないわ」
けどひとつだけ、分かることがあるわ。
舞沙は指を一本立て、俺に見せてくる。
こんな非業に満ちた死体を見て、なにが分かるというのだろう。
ひとつだけ、俺に言えることは。
こんなことをする奴は、もう人間じゃない――
「鎖天。あなたが【蟲】によって殺されたのなら――――あなたを殺した犯人と、あなたのおやを殺した犯人は、同一人物である可能性が高いわ」
「え……? どう、して……」
「死体をよく見て。【蟲】がほとんど集っていないわ」
よく見て、と言われても、俺には正視に耐えない光景だ。
だって、両親だぞ?
自分を産み落とし、育ててくれた大恩人の、無残な亡骸。それを注視できる筈がない。
視線を逸らし続ける俺を見ても、舞沙は呆れる風もなく、寧ろ憐憫の目を向けてくる。ふよふよと漂って近づいてくると、優しく頭を撫でてくれた。
何故だろう、彼女に撫でられると、不思議と落ち着く。
「ごめんなさい。配慮が足りなかったわね。人間にとって、おや、というのは大切なものだものね。その死体をよく見ろだなんて、とてもできることじゃなかったわ」
「いや……うん、ごめん」
「あなたが謝る必要はないわ、鎖天」
「……【蟲】が、いなかったら、それがなんなんだ? どうしてそれで、俺と両親を殺したのが、同一犯だって分かるんだ?」
「私もそうだけど、【蟲】を操る人間は、死体から【蟲】を回収するの。生きた人間からは、うまく【蟲】を引き剥がせないのよ。本来は死体に集って、腐敗をさせている筈の【蟲】がいないってことは、殺した人間が【蟲】を操る人間だって証拠になるわ」
「【蟲】を、操る人間……!」
そいつが、こんなことをしたのか。
俺を殺すだけじゃ飽き足らず、両親まで手にかけて、その死体を貪って。
でも、足りない。
ひとつ、ピースが欠けている。
「……妹、は」
そうだ。まだ環がいない。
自室は朝見たし、それ以外の部屋は隈なく探した。
それでも、環だけが見つかっていない。
「いもうと……歳下のきょうだいのことよね。……あまり聞きたくはないけど、鎖天、そのいもうとはいくつくらいなのかしら?」
「一二歳……今年で一三歳になる……中学一年生だ……」
「……言いづらいのだけど」
舞沙が沈鬱な表情を浮かべて、俺の目を見てくる。
なんだよ。今以上の最悪が、まだあるっていうのかよ。死体に物怖じしない舞沙が、わざわざ前置きするほどに。
もう嫌だ。勘弁してくれ。
俺を、どこまで傷つければ気が済むんだ。
「私に名前をつけた、忌々しい知人からの受け売りだけど……そのくらいの年頃の女の子の肉は、食人マニアの間では高級食材として重宝される、らしいわ。……だから、もう……」
もう?
もう、なんだよ。
嫌だ。考えたくない。嘘だろう? 嘘と言ってくれ。
こんな現実、もう見たくない――
「もう……いもうとは犯人によって、喰われている可能性が高い、わ。残念、だけど……」
「――――ぁ」
止め処ない感情が溢れ出て。
心をどす黒く染め上げて。
俺は――――絶叫した。
「あぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!?!???!?!!?!?!?!」
妹が。
環がもう、喰われている?
もう、いない?
なんだよそれ。なんだよそれは!
あり得ない、あり得ないあり得ないあり得ないあり得ない!
最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ――――思い浮かべる限り最悪の事態だ!
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
受け入れられるか、受け入れられる訳がない!
妹が。
この世で最も大切に思っていた妹が、殺された。
あまつさえ、その死体を喰われた。
なんだよそれ。
なんなんだよ、この現実は。
こんなことなら、生き返りたくなかった。
なにも知らぬまま、死んでしまいたかった。
喉が裂けんばかりに声を張り上げる。近所迷惑とか、知ったことか。そんなことに神経を配れる余裕など、とうに失っていた。
「あぁあ! ああああああああ! うあぁあああああああああ!」
「お、落ち着いて鎖天」
「うるさい! あんたに、あんたになにが分かるんだ!」
傍らに寄り添う舞沙の胸倉を掴み、力の限り叫ぶ。
あぁ、みっともない。
分かってるんだ、こんなのは八つ当たりだって。舞沙を責めても、意味なんてないって。
けど、止められなかった。
言葉が、堰を切ったように溢れ出してくる。
ぼろぼろと涙がこぼれた。ぐるぐると視界が回った。呂律の回らない舌が、苦痛にいたぶられた心情を吐き出していく。
「家族だぞ⁉ この世で一番大切な家族が、妹が、殺されたんだ! その死体まで冒涜されたんだ! あんたに分かるのか⁉ 悔しさが、怒りが、悲しさが! 痛いんだよ! 胸が苦しいんだ! なんで、なんで俺を生き返らせたりしたんだよ! こんな現実だったら、見たくなかった! なにも知らないまま死にたかった! なんで、なんで俺を生き返らせたんだよぉ‼」
「……ごめん、なさい」
俺の剣幕に気圧されたのか、舞沙は怯えたような目で俺を見つめてくる。震える声が、細々と言葉を紡いだ。
「私の、勝手な思いで、あなたを傷つけてしまった……謝るわ。……ごめんなさい」
「……誰だ」
しゅんとした舞沙を見ていると、ますます胸が締めつけられる。
あぁ、俺はなにをやってるんだ。
ぎりぃっ、と奥歯を噛み締める。ふつふつと湧いてくるのは、悔しさだ。無力感だ。家族が殺されたのに、なにもできないでいる自分がなにより嫌だった。
「誰が、誰がこれをやったんだ⁉ 父さんを、母さんを殺して、環を殺して! 喰ったのは!どこのどいつなんだよ⁉」
「っ……分からない、わ。現状じゃ、【蟲】を操れる人間、としか言えない。私じゃ、それ以上には分からないわ」
「じゃあどうすればいい⁉ 警察か⁉ 警察に頼めば、犯人を見つけてくれるのか⁉」
「警察……当てにはならないわね。【蟲】という、一部の人間しか知覚できないものが絡むと、彼らの捜査は意味を成さなくなるわ。ミステリーに幽霊や異能者が出てくるようなものだもの。普通の人間である彼らには、この事件は荷が重いわ」
「じゃあ、どうすればいい⁉ 俺は、どうすりゃいいんだよぉ‼」
最早俺の荒れようは、ヒステリーに近かった。
舞沙の胸倉から手を離し、がりがりと頭を引っ掻き回す。生きている人間なら頭皮が裂けて、血が流れてきたことだろう。爪が皮膚を抉る、嫌な感触が伝わってくる。
いてもたってもいられなかった。
家族を、妹を殺されて、なにもできないでいる自分を罰するように傷つける。
どうすればいい?
俺は、家族を殺した犯人を許さない。
妹を殺して喰った奴を、絶対に許さない。
けど、なにをすればいい?
この怒りは、悔しさは、悲しさは、どこにぶつければいい?
俺には――――なにも、できないのか?
「あなたの激情に応える方法が、ひとつだけあるわ」
と。
舞沙の穏やかな声が、頭を掻き毟る音に紛れて聞こえてきた。
反射的に顔を上げる。舞沙は、慈しむような笑みを浮かべて、そこに立っていた。頭にぽんと手を乗せて、うじゅうじゅと【蟲】を這わせていく。裂けた頭皮が、少しずつ塞がっていくのが感覚で分かった。
「方法……なんだ、なんだよそれ! 教えてくれ!」
「落ち着いて、鎖天。私には、あなたの気持ちは分からないわ。【蟲】である私には、おやもきょうだいもいない。身内を失ったあなたの怒りも、悔しさも、悲しさも、分かち合えない。けれど――――協力することはできるわ」
「協、力……?」
「えぇ。私たちふたりで、犯人を捕まえてしまえばいいのよ」
俺たちで。
犯人を捕まえる、だと?
「そんなこと……できるのか?」
「分からないけど、やってみる価値はあると思うわ。私は【蟲】だから、普通の人の目には映らない。【蟲】によって生かされてる、あなたみたいな例外を除けばね。だから、警察署に入って捜査の状況も探れるし、なにより、私には【蟲】に関する知識と、それを操る能力がある。上手くすれば、犯人に近づくことはできるかもしれないわ」
「……本、当に……本当に、犯人を捕まえられる、のか……?」
「やってみないと分からない。けど、あなたを生き返らせて苦しめてしまった以上、その責任は取るわ。約束する」
犯人を、捕まえる。
両親と妹の、仇を取る。
それは、生き返ってしまった、生き残ってしまった意味としては、充分だった。
泣いてる暇などない。悲しむのは後でもできる。
今やるべきことは、家族をこんな目に遭わせた憎き犯人に、鉄槌を下すことだ。
「……舞沙。頼む。俺の家族を、両親を、妹を殺した奴を、捕まえる。仇を取る。復讐する。それを、手伝ってくれないか」
「えぇ、勿論よ。鎖天」
頷きながら、舞沙が手を伸ばしてくる。
差し出されたその手を、俺は強く、崩れてしまいそうなほどに強く握った。
今、俺の顔貌は凶悪に歪んでいるだろう。怒りが全身に漲り、復讐心を滾らせていった。
絶対に、仇を取ってやる。
家族を殺した報いを受けさせてやる。
痛いほどに歯を食い縛りながら、俺はそう誓ったのだった。
学ランのまま表通りを歩くのは、少々憚られた。こんな時間に学生服を着て歩いていたら、目立つことこの上ない。最悪警察にでも捕まって、学校に連絡されたら面倒なことになる。
何故かは知らないが、クラスの連中は揃って俺のことを忘れているのだ。
無理矢理学校に連れ戻されても、またあの冷たい視線に晒されるだけだ。いや、笑夢に襲いかかった一件から、そのまま補導されてしまうかもしれない。
そんなことにかかずらっている時間はないのだ。
俺は一刻も早く、家に帰りたかった。家族の無事を、確かめたかった。
ちなみに、舞沙に俺が教室中から忘れ去られてしまった事変についても聞いてみたが、なにも知らないとのことだった。曰く、記憶を喰う【蟲】も存在するのだという。もしかしたら、俺を殺した犯人が、死体の発見を防ぐために記憶をいじったのかもしれない、とのことだった。
しかし、今の俺にはそんなこと、どうでもよかった。
目下の関心事は、家族の、妹の安否だった。
路地裏を駆使し、なるべく人目につかない場所を選んで家へ帰る最中、俺は胸の中で必死に祈っていた。
どうか無事でいてくれ。
何事も起こっていないでくれ、と。
締めつけられるように痛む胸を押さえながら、普段の倍近くの時間をかけて家に辿り着く。
「あなたは、随分かぞくを愛しているのね」
道中、舞沙はそんなことを言ってきた。
俺の横にくっつくように飛ぶ彼女は、時折不思議そうな表情で俺の顔を覗き込んできた。
「かぞく愛、というのかしら。それときょうだい愛? いもうとのことをやたらと気にかけているものね。そんなに大事なものなの? それは」
「当たり前だ」
人が来ないタイミングを見計らいながら、俺は応えた。
「家族だぞ、大切じゃない訳がないだろ。妹だってそうだ。この世に妹が大切でない兄なんていないんだよ」
俺は自信を持って、そう応えた。
それきり、舞沙は黙ってしまっていたが、早く家に帰りたい俺にとっては好都合だった。
――――閑話休題。
家の周囲に、人はいない。住宅地の昼時は、本当に人が住んでいるのかと疑うレベルで静かだ。皆昼食や昼ドラ鑑賞で引きこもっているのだろう。買い物などで賑わうにはまだ早い。
門扉をくぐり、ドアノブをひねる。今朝慌てて家を飛び出したまま、施錠されていない扉。きぃ、と軽い音を上げて開くと、家の中からむわっと生温い空気が押し寄せてきた。
「…………!」
あの臭いだ。
思わず鼻をつまみたくなる、内臓を裏返されるような悪臭。昨日よりずっと強くなっている。
今朝の時点で気づけなかったのが、不思議なほどに。
「酷い臭いね」
舞沙が、俺と同じように鼻をつまみながら言う。
「死体の臭いだわ。間違いない……発生源はどこかしら」
「…………!」
靴のまま、家へと駆け込んでいく。
最初に見たのはリビングだ。扉を開けて中を覗いても、誰もいない。なにもない。普段と同じ、椅子とテーブルがあるだけだ。
一階の自分の部屋を飛ばして、階段を駆け上がり二階へ急ぐ。
妹の部屋を、ノックも忘れて開ける。いつもなら漂ってくる甘い香りが、死臭にすっかり犯されていて、吐き気を催す臭いとなっていた。
なにもない。
机にもベッドにも、可愛らしい小物たちにも異常はない。
残っているのは、両親の部屋。
この部屋さえ。
この部屋さえ無事なら、なにもなければ。
息を切らし、涙が流れそうになるのを必死に堪えながら、扉を開ける。
荒々しく、勢いのままに。
そこに――――あった。
両親の死体が、並べられていた。
死体、が――――
「うっ……!」
桁違い、だった。
家中に漂っているそれとは、比べものにならない異臭。吸い込むだけで肺が締め上げられるようだ。
脚から力が脱け、その場に座り込む。
――――凄惨の一言に尽きる有様だ。
殺されていた。両親はこれ以上ないほど明確に、殺されていた。
目はカッと見開き、苦悶の表情を今もなお浮かべている。
胸には、恐らく刃物で刺し殺されたのだろう。痛々しい傷痕が刻まれている。
そして、腰から下。
下半身に当たる部分が、ごっそりとなくなっていた。
現状を受け入れることさえ、俺はできないでいた。
両親が、殺されている。
しかも、その死体には下半身がない。
切断面になる腰の部分は、もうぐちゃぐちゃだった。肉がささくれ立ち、てらてらと光っている。すっかり乾いてしまっている血が、べったりと塗りつけられていた。
「なん、で……」
「喰われているわね、この死体」
放心する俺の横を、舞沙が淡々と通り過ぎていく。
死体をじぃっと見つめると、残念そうに溜息を吐いた。
「喰われてるって……これも、【蟲】が……?」
「いいえ、違うわ。【蟲】が死体を喰うっていうのは、肉体に残っている生命エネルギーを喰い尽くして、腐敗させるって意味だもの。そうじゃなくて、この死体は、人間によって喰い千切られているわ」
人間によって。
喰い千切られている、だと?
「は、犯人が、死体を喰ったってこと、か?」
「えぇ。腰の辺りに歯型もついているし、間違いないわね。犯人は食人趣味者かしら」
「そんな……人が、人を喰ったっていうのか……⁉ そんな、そんなことが……」
「あり得ないことじゃないわ」
動揺する俺のことなど構う風もなく、舞沙は冷静に語る。
「人肉食文化は、少数ではあるけど、世界中で見られる風習ではあるもの。この国でも、人肉が薬として珍重された時代があったわ。食人を自身のアイデンティティだと思う人間だっているの。現代日本で、家を突然襲った犯人が食人趣味を持っていても、なんら不思議ではないわ」
知り合いの受け売りだけどね。
舞沙は最後に、吐き捨てるように付け加えた。
けど、俺はその半分も聞いちゃいなかった。
言葉など、頭に入ってこなかった。
「……なん、で……」
ただただ、壊れたおもちゃのように。
譫言みたいに、声を漏らしているだけだった。
「なんで……父さんも、母さんも、死んでんだよ……殺されてるんだよ……なんで、なんでその死体まで、喰われているんだよ……!」
「さぁ。私には分からないわ」
けどひとつだけ、分かることがあるわ。
舞沙は指を一本立て、俺に見せてくる。
こんな非業に満ちた死体を見て、なにが分かるというのだろう。
ひとつだけ、俺に言えることは。
こんなことをする奴は、もう人間じゃない――
「鎖天。あなたが【蟲】によって殺されたのなら――――あなたを殺した犯人と、あなたのおやを殺した犯人は、同一人物である可能性が高いわ」
「え……? どう、して……」
「死体をよく見て。【蟲】がほとんど集っていないわ」
よく見て、と言われても、俺には正視に耐えない光景だ。
だって、両親だぞ?
自分を産み落とし、育ててくれた大恩人の、無残な亡骸。それを注視できる筈がない。
視線を逸らし続ける俺を見ても、舞沙は呆れる風もなく、寧ろ憐憫の目を向けてくる。ふよふよと漂って近づいてくると、優しく頭を撫でてくれた。
何故だろう、彼女に撫でられると、不思議と落ち着く。
「ごめんなさい。配慮が足りなかったわね。人間にとって、おや、というのは大切なものだものね。その死体をよく見ろだなんて、とてもできることじゃなかったわ」
「いや……うん、ごめん」
「あなたが謝る必要はないわ、鎖天」
「……【蟲】が、いなかったら、それがなんなんだ? どうしてそれで、俺と両親を殺したのが、同一犯だって分かるんだ?」
「私もそうだけど、【蟲】を操る人間は、死体から【蟲】を回収するの。生きた人間からは、うまく【蟲】を引き剥がせないのよ。本来は死体に集って、腐敗をさせている筈の【蟲】がいないってことは、殺した人間が【蟲】を操る人間だって証拠になるわ」
「【蟲】を、操る人間……!」
そいつが、こんなことをしたのか。
俺を殺すだけじゃ飽き足らず、両親まで手にかけて、その死体を貪って。
でも、足りない。
ひとつ、ピースが欠けている。
「……妹、は」
そうだ。まだ環がいない。
自室は朝見たし、それ以外の部屋は隈なく探した。
それでも、環だけが見つかっていない。
「いもうと……歳下のきょうだいのことよね。……あまり聞きたくはないけど、鎖天、そのいもうとはいくつくらいなのかしら?」
「一二歳……今年で一三歳になる……中学一年生だ……」
「……言いづらいのだけど」
舞沙が沈鬱な表情を浮かべて、俺の目を見てくる。
なんだよ。今以上の最悪が、まだあるっていうのかよ。死体に物怖じしない舞沙が、わざわざ前置きするほどに。
もう嫌だ。勘弁してくれ。
俺を、どこまで傷つければ気が済むんだ。
「私に名前をつけた、忌々しい知人からの受け売りだけど……そのくらいの年頃の女の子の肉は、食人マニアの間では高級食材として重宝される、らしいわ。……だから、もう……」
もう?
もう、なんだよ。
嫌だ。考えたくない。嘘だろう? 嘘と言ってくれ。
こんな現実、もう見たくない――
「もう……いもうとは犯人によって、喰われている可能性が高い、わ。残念、だけど……」
「――――ぁ」
止め処ない感情が溢れ出て。
心をどす黒く染め上げて。
俺は――――絶叫した。
「あぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!?!???!?!!?!?!?!」
妹が。
環がもう、喰われている?
もう、いない?
なんだよそれ。なんだよそれは!
あり得ない、あり得ないあり得ないあり得ないあり得ない!
最悪だ最悪だ最悪だ最悪だ――――思い浮かべる限り最悪の事態だ!
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
受け入れられるか、受け入れられる訳がない!
妹が。
この世で最も大切に思っていた妹が、殺された。
あまつさえ、その死体を喰われた。
なんだよそれ。
なんなんだよ、この現実は。
こんなことなら、生き返りたくなかった。
なにも知らぬまま、死んでしまいたかった。
喉が裂けんばかりに声を張り上げる。近所迷惑とか、知ったことか。そんなことに神経を配れる余裕など、とうに失っていた。
「あぁあ! ああああああああ! うあぁあああああああああ!」
「お、落ち着いて鎖天」
「うるさい! あんたに、あんたになにが分かるんだ!」
傍らに寄り添う舞沙の胸倉を掴み、力の限り叫ぶ。
あぁ、みっともない。
分かってるんだ、こんなのは八つ当たりだって。舞沙を責めても、意味なんてないって。
けど、止められなかった。
言葉が、堰を切ったように溢れ出してくる。
ぼろぼろと涙がこぼれた。ぐるぐると視界が回った。呂律の回らない舌が、苦痛にいたぶられた心情を吐き出していく。
「家族だぞ⁉ この世で一番大切な家族が、妹が、殺されたんだ! その死体まで冒涜されたんだ! あんたに分かるのか⁉ 悔しさが、怒りが、悲しさが! 痛いんだよ! 胸が苦しいんだ! なんで、なんで俺を生き返らせたりしたんだよ! こんな現実だったら、見たくなかった! なにも知らないまま死にたかった! なんで、なんで俺を生き返らせたんだよぉ‼」
「……ごめん、なさい」
俺の剣幕に気圧されたのか、舞沙は怯えたような目で俺を見つめてくる。震える声が、細々と言葉を紡いだ。
「私の、勝手な思いで、あなたを傷つけてしまった……謝るわ。……ごめんなさい」
「……誰だ」
しゅんとした舞沙を見ていると、ますます胸が締めつけられる。
あぁ、俺はなにをやってるんだ。
ぎりぃっ、と奥歯を噛み締める。ふつふつと湧いてくるのは、悔しさだ。無力感だ。家族が殺されたのに、なにもできないでいる自分がなにより嫌だった。
「誰が、誰がこれをやったんだ⁉ 父さんを、母さんを殺して、環を殺して! 喰ったのは!どこのどいつなんだよ⁉」
「っ……分からない、わ。現状じゃ、【蟲】を操れる人間、としか言えない。私じゃ、それ以上には分からないわ」
「じゃあどうすればいい⁉ 警察か⁉ 警察に頼めば、犯人を見つけてくれるのか⁉」
「警察……当てにはならないわね。【蟲】という、一部の人間しか知覚できないものが絡むと、彼らの捜査は意味を成さなくなるわ。ミステリーに幽霊や異能者が出てくるようなものだもの。普通の人間である彼らには、この事件は荷が重いわ」
「じゃあ、どうすればいい⁉ 俺は、どうすりゃいいんだよぉ‼」
最早俺の荒れようは、ヒステリーに近かった。
舞沙の胸倉から手を離し、がりがりと頭を引っ掻き回す。生きている人間なら頭皮が裂けて、血が流れてきたことだろう。爪が皮膚を抉る、嫌な感触が伝わってくる。
いてもたってもいられなかった。
家族を、妹を殺されて、なにもできないでいる自分を罰するように傷つける。
どうすればいい?
俺は、家族を殺した犯人を許さない。
妹を殺して喰った奴を、絶対に許さない。
けど、なにをすればいい?
この怒りは、悔しさは、悲しさは、どこにぶつければいい?
俺には――――なにも、できないのか?
「あなたの激情に応える方法が、ひとつだけあるわ」
と。
舞沙の穏やかな声が、頭を掻き毟る音に紛れて聞こえてきた。
反射的に顔を上げる。舞沙は、慈しむような笑みを浮かべて、そこに立っていた。頭にぽんと手を乗せて、うじゅうじゅと【蟲】を這わせていく。裂けた頭皮が、少しずつ塞がっていくのが感覚で分かった。
「方法……なんだ、なんだよそれ! 教えてくれ!」
「落ち着いて、鎖天。私には、あなたの気持ちは分からないわ。【蟲】である私には、おやもきょうだいもいない。身内を失ったあなたの怒りも、悔しさも、悲しさも、分かち合えない。けれど――――協力することはできるわ」
「協、力……?」
「えぇ。私たちふたりで、犯人を捕まえてしまえばいいのよ」
俺たちで。
犯人を捕まえる、だと?
「そんなこと……できるのか?」
「分からないけど、やってみる価値はあると思うわ。私は【蟲】だから、普通の人の目には映らない。【蟲】によって生かされてる、あなたみたいな例外を除けばね。だから、警察署に入って捜査の状況も探れるし、なにより、私には【蟲】に関する知識と、それを操る能力がある。上手くすれば、犯人に近づくことはできるかもしれないわ」
「……本、当に……本当に、犯人を捕まえられる、のか……?」
「やってみないと分からない。けど、あなたを生き返らせて苦しめてしまった以上、その責任は取るわ。約束する」
犯人を、捕まえる。
両親と妹の、仇を取る。
それは、生き返ってしまった、生き残ってしまった意味としては、充分だった。
泣いてる暇などない。悲しむのは後でもできる。
今やるべきことは、家族をこんな目に遭わせた憎き犯人に、鉄槌を下すことだ。
「……舞沙。頼む。俺の家族を、両親を、妹を殺した奴を、捕まえる。仇を取る。復讐する。それを、手伝ってくれないか」
「えぇ、勿論よ。鎖天」
頷きながら、舞沙が手を伸ばしてくる。
差し出されたその手を、俺は強く、崩れてしまいそうなほどに強く握った。
今、俺の顔貌は凶悪に歪んでいるだろう。怒りが全身に漲り、復讐心を滾らせていった。
絶対に、仇を取ってやる。
家族を殺した報いを受けさせてやる。
痛いほどに歯を食い縛りながら、俺はそう誓ったのだった。