1 草薙鎖天は斯く推理す
文字数 3,758文字
夢を見ていた。
それが夢だと明確に分かったのは、もう会えない人間が目の前にいたからだ。小さな足でよちよちと、不器用なステップを踏む。そういえば、運動神経がいいくせにスキップはできなかったっけ。懐かしい記憶が蘇り、俺は思わず微笑んでいた。
『おにいちゃんっ』
弾む声を上げながら、彼女は。
草薙環は。
ぎゅうっ、と俺に抱きついてきた。
背の低い妹は、すぐ近くに寄ってきても俺の胸くらいにしか届かない。鼻息がへそに当たり、仄かにくすぐったい。ぐりぐりと頭を押しつける無邪気な振る舞いは、本当に、心の底から可愛らしかった。
目に入れても痛くないとは、こういうことなんだろう。
俺も環に倣い、彼女のことを強く抱き締めた。
もう二度と離れないように。
いなくならないように。
もう誰にも奪われないように。
なのに――――儚い夢は、それさえ許してくれなくて。
『――――』
なにか言った、気がした。
それが俺の声だったのか、それとも環の声だったのか、それさえ分からない。
言葉を宙に残して、環はふっと、手から力を抜いた。
いや、違う。
手が、なくなったのだ。
腕が、根元からごっそりとなくなっていた。
躓くように後ずさった環は、ぼろぼろとその身体を崩していく。
いつものような、柔和な笑みを浮かべたまま。
欠片となって、落ちていく。
やめろ。
やめてくれ。
こんなの、あんまりじゃないか。
返せ、返せ、返してくれ。
俺の可愛い妹を。
自慢の妹を。
愛すべき妹を。
どれだけ手を伸ばしても、届かない。
粉々になっていく環を、止められない。
俺は、夢中になって手を伸ばしていた。
力の限り、走っていた。
なのに、近づけば近づくほど、その距離は遠ざかっていくようで。
やがて、環の身体は首から上以外、なくなっていて。
最期に、はにかむように微笑んで。
環の顔が、鏡のようにひび割れて――
「やめろ……やめてくれよぉ!」
むにゅうっ、と。
柔らかく、弾力に富んだものが、指を埋もれさせた。
自分の声で、俺は目を覚ました。荒い息遣いが聞こえ、胸が激しく上下している。上に見えるのは、煤けた天井。拠点にしている廃ビルに間違いなかった。
そして、真上に向けて伸ばされた右腕。
それが掴んでいたのは――――顔ほどの大きさに肥大化した、舞沙の胸だった。
むにゅうっ、と柔らかいそれは、いつもの脆さを感じさせず、温かさも柔らかさも人間のそれと同じようだった。
……っ、じゃなくて!
「う、おぉっ⁉」
咄嗟に手足をかさかさ動かし、その場から逃走する。
反射的な行動だったので、自分がどう動いたのかもよく分かっていない。気づいたら舞沙と距離を取っていた。俺よりもややすると高身長になった舞沙は、床に正座したまま、動かない。頓狂な声を上げた俺に、視線すらくれない。
それどころか、こっくりこっくりと、船を漕いでいるようでさえあった。
……眠っている?
舞沙が?
というか、【蟲】って眠るのか?
「ま、舞沙……?」
「ん……ぅ……鎖天……?」
呼びかけると、舞沙は眠たげに目をこすりながら応えた。
どうやら、本当に眠っていたらしい。
「……どうして、そんなところにいるの? 膝、使ってもいいのに」
「いや、まぁ、うん……舞沙。なんでそんな身体になってんだ? なんか、その……目のやり場に困るというか、けしからん身体というか……」
「あぁ、これ? ひざまくらするなら、甘えられるおねえさんの方がいいかと思って。ダメだったかしら?」
「ダメじゃないんだが……寧ろご馳走様というか……ごめんなさいというか……」
「?」
「っ、い、いや、なんでもない。……俺、どのくらい眠ってた?」
「太陽を見る限りじゃ、ほんの数時間ほどよ。ひざまくらを駆使しても、満足には眠らせられなかったようね。不覚だわ」
悔しげに口を尖らせる舞沙。
見た目は清楚なお姉さんといった趣きだが、外面の変化に伴って内面まで変わることはないようだ。相変わらず変なところで変な対抗心を燃やしている。
「でも、コツは掴んだわ。上手く【蟲】の一部を休眠状態にすれば、鎖天もゆっくりと寝られるわね。私本体まで寝ちゃったのは失敗だったけど、同じ過ちは繰り返さないわ」
「あぁ。確かに静かで、よく寝れた感じはするけど」
というか、本気だったのか。【蟲】を黙らせる努力をするって。
わずか一日でそれを成し遂げてしまうのがすごいな。
「という訳で、鎖天、ほら」
ぽんぽんと、膝を叩いてみせる舞沙。
……もう一度寝ろってか?
うわぁ、すげぇキラキラした笑顔でこっち見てる。鼻息荒く、俺が膝枕に転がり込むのを待っていやがる。
「……せっかくの気遣いありがたいが、もう寝るって気分じゃないんだ。朝だし、そろそろ活動を始めないと」
「寝不足がどれだけ頑張っても、無理を重ねるだけよ。寝転がるだけでもいいから、ね?」
「いや、だって時間的にも……」
「……だめ?」
「…………」
うるうると赤い瞳が見つめてくる。
なんだろう、この、理性が試されている感じ。
蠱惑的な誘惑。それが無邪気に俺を絡め取り、断るという選択肢を潰していく。
「……ちょっとだけな」
「えぇ。ほらほらさぁさぁ。おいでなさいな、鎖天」
うきうきと弾んだ声を上げて、舞沙は膝をぱんぱん叩いていた。
誘惑に負けた俺は、仕方なく膝枕の世話になる。……うわぁ、見上げると視界一面を巨大な胸が占拠している。絶景だが、見れば先程の感触を思い出してしまい、顔が熱くなってしまう。
あぁ、でも本当に静かだ。
沈み込むように頭にフィットするのは変わらないので、寝心地は最高である。
くすくすと、舞沙の笑い声が聞こえる。
「気に入ってもらえたかしら? 鎖天。あなたが望むなら、いつでもひざまくらしてあげるわよ?」
「あぁ、こりゃいいな。ありがとうな、舞沙」
「っふふ。お礼なんていいわ、私が好きでやっていることだし」
舞沙はそう言って、むふーと満足げに鼻息を出した。
ここ数日は硬い床を枕にしていたから、この柔らかさは非常に心地いい。銭湯に入った時以来のリラックス感だ。
頭部が包み込まれ、ぽかぽかと温かい。肩の力が自然と抜けていき、身体を支配していた緊張が解けていく。
このまま、再び眠ってしまいそうだ。
意識が、うとうとと微睡みに呑まれそうになる――
「……待てよ?」
ふわふわとした意識が、ここ数日の嫌な思い出を奥へ奥へと封じていく最中。
ふと、思いついた。
遅々として事態が進展しない現状を、打破できるかもしれない手を。
それは、見落としていた可能性。
確認を怠っていた、ひとつの糸口。
「鎖天? どうしたの?」
「……なぁ、舞沙。犯人はどうして、俺に関する記憶を、クラスメートから消したんだ?」
「それは……死体の発見を遅らせるためじゃないの? あなたがいないという違和感をなくすことで、発覚を遅らせるつもりだったんじゃ……まぁあの女、氏村笑夢がいたおかげで、徒労に終わったようだけど」
「あぁ、多分そうだ。けど、なら、妹のクラスメートや両親の同僚とかからも、同じように記憶を消さないと、意味がないよな?」
「……そうね。そうなるわね」
「本当に消されてんのかな?」
「記憶が、消されていないかもしれないってこと? ……確かに、確認はしていないわ。あり得ない話ではないかもしれない」
「妹のクラスメートや両親の同僚なんて、俺でも把握しちゃいない。そいつらの記憶が消されてたら、必然的に、犯人はその辺の人間関係を把握できる人物ってことになる。これは相当に絞られるぜ。逆に記憶が消されていなかったら、犯人は俺の人間関係しか知らない――――逆に言えば、俺のことをよく知ってる奴ってことになる。これも、相当数は限られる」
「なるほど……鎖天、少しは寝て頭が冴えたのかしら? いい着眼点だと思うわ」
「あぁ。そうなりゃ、善は急げだ」
背筋をぐっと反らし、バネの力だけで起き上がる。
ずっと廃墟に引きこもって、いい加減イライラしていたところだ。ここらで一丁、盤面を動かしてみようじゃないか。
「行こうぜ、舞沙。まずは妹の通ってた中学校だ」
「えぇ、行きましょうか。鎖天」
脚を動かす素振りもなく、コマ落ちのように立ち上がった舞沙は。
大人びたフォルムから一転し、いつもの人形のような少女の姿へと変じた。
うん、やっぱり舞沙は、この姿が似合っている。
環にも、よく似ている。
「? なにかしら鎖天、なにか言いたげな顔をして。もしかして、大人っぽい姿の方が好みだったかしら? 鎖天も男の子だし、胸は大きい方がお好き?」
「逆だ。今の方がいいよ、あんたは」
「あら、そう。そう言ってもらえると、嬉しいわね」
ふふん、と得意気に笑いながら、ふよふよと移動してくる舞沙。
そんな舞沙を横に従えて、俺は根城の廃ビルから飛び出していくのだった。
それが夢だと明確に分かったのは、もう会えない人間が目の前にいたからだ。小さな足でよちよちと、不器用なステップを踏む。そういえば、運動神経がいいくせにスキップはできなかったっけ。懐かしい記憶が蘇り、俺は思わず微笑んでいた。
『おにいちゃんっ』
弾む声を上げながら、彼女は。
草薙環は。
ぎゅうっ、と俺に抱きついてきた。
背の低い妹は、すぐ近くに寄ってきても俺の胸くらいにしか届かない。鼻息がへそに当たり、仄かにくすぐったい。ぐりぐりと頭を押しつける無邪気な振る舞いは、本当に、心の底から可愛らしかった。
目に入れても痛くないとは、こういうことなんだろう。
俺も環に倣い、彼女のことを強く抱き締めた。
もう二度と離れないように。
いなくならないように。
もう誰にも奪われないように。
なのに――――儚い夢は、それさえ許してくれなくて。
『――――』
なにか言った、気がした。
それが俺の声だったのか、それとも環の声だったのか、それさえ分からない。
言葉を宙に残して、環はふっと、手から力を抜いた。
いや、違う。
手が、なくなったのだ。
腕が、根元からごっそりとなくなっていた。
躓くように後ずさった環は、ぼろぼろとその身体を崩していく。
いつものような、柔和な笑みを浮かべたまま。
欠片となって、落ちていく。
やめろ。
やめてくれ。
こんなの、あんまりじゃないか。
返せ、返せ、返してくれ。
俺の可愛い妹を。
自慢の妹を。
愛すべき妹を。
どれだけ手を伸ばしても、届かない。
粉々になっていく環を、止められない。
俺は、夢中になって手を伸ばしていた。
力の限り、走っていた。
なのに、近づけば近づくほど、その距離は遠ざかっていくようで。
やがて、環の身体は首から上以外、なくなっていて。
最期に、はにかむように微笑んで。
環の顔が、鏡のようにひび割れて――
「やめろ……やめてくれよぉ!」
むにゅうっ、と。
柔らかく、弾力に富んだものが、指を埋もれさせた。
自分の声で、俺は目を覚ました。荒い息遣いが聞こえ、胸が激しく上下している。上に見えるのは、煤けた天井。拠点にしている廃ビルに間違いなかった。
そして、真上に向けて伸ばされた右腕。
それが掴んでいたのは――――顔ほどの大きさに肥大化した、舞沙の胸だった。
むにゅうっ、と柔らかいそれは、いつもの脆さを感じさせず、温かさも柔らかさも人間のそれと同じようだった。
……っ、じゃなくて!
「う、おぉっ⁉」
咄嗟に手足をかさかさ動かし、その場から逃走する。
反射的な行動だったので、自分がどう動いたのかもよく分かっていない。気づいたら舞沙と距離を取っていた。俺よりもややすると高身長になった舞沙は、床に正座したまま、動かない。頓狂な声を上げた俺に、視線すらくれない。
それどころか、こっくりこっくりと、船を漕いでいるようでさえあった。
……眠っている?
舞沙が?
というか、【蟲】って眠るのか?
「ま、舞沙……?」
「ん……ぅ……鎖天……?」
呼びかけると、舞沙は眠たげに目をこすりながら応えた。
どうやら、本当に眠っていたらしい。
「……どうして、そんなところにいるの? 膝、使ってもいいのに」
「いや、まぁ、うん……舞沙。なんでそんな身体になってんだ? なんか、その……目のやり場に困るというか、けしからん身体というか……」
「あぁ、これ? ひざまくらするなら、甘えられるおねえさんの方がいいかと思って。ダメだったかしら?」
「ダメじゃないんだが……寧ろご馳走様というか……ごめんなさいというか……」
「?」
「っ、い、いや、なんでもない。……俺、どのくらい眠ってた?」
「太陽を見る限りじゃ、ほんの数時間ほどよ。ひざまくらを駆使しても、満足には眠らせられなかったようね。不覚だわ」
悔しげに口を尖らせる舞沙。
見た目は清楚なお姉さんといった趣きだが、外面の変化に伴って内面まで変わることはないようだ。相変わらず変なところで変な対抗心を燃やしている。
「でも、コツは掴んだわ。上手く【蟲】の一部を休眠状態にすれば、鎖天もゆっくりと寝られるわね。私本体まで寝ちゃったのは失敗だったけど、同じ過ちは繰り返さないわ」
「あぁ。確かに静かで、よく寝れた感じはするけど」
というか、本気だったのか。【蟲】を黙らせる努力をするって。
わずか一日でそれを成し遂げてしまうのがすごいな。
「という訳で、鎖天、ほら」
ぽんぽんと、膝を叩いてみせる舞沙。
……もう一度寝ろってか?
うわぁ、すげぇキラキラした笑顔でこっち見てる。鼻息荒く、俺が膝枕に転がり込むのを待っていやがる。
「……せっかくの気遣いありがたいが、もう寝るって気分じゃないんだ。朝だし、そろそろ活動を始めないと」
「寝不足がどれだけ頑張っても、無理を重ねるだけよ。寝転がるだけでもいいから、ね?」
「いや、だって時間的にも……」
「……だめ?」
「…………」
うるうると赤い瞳が見つめてくる。
なんだろう、この、理性が試されている感じ。
蠱惑的な誘惑。それが無邪気に俺を絡め取り、断るという選択肢を潰していく。
「……ちょっとだけな」
「えぇ。ほらほらさぁさぁ。おいでなさいな、鎖天」
うきうきと弾んだ声を上げて、舞沙は膝をぱんぱん叩いていた。
誘惑に負けた俺は、仕方なく膝枕の世話になる。……うわぁ、見上げると視界一面を巨大な胸が占拠している。絶景だが、見れば先程の感触を思い出してしまい、顔が熱くなってしまう。
あぁ、でも本当に静かだ。
沈み込むように頭にフィットするのは変わらないので、寝心地は最高である。
くすくすと、舞沙の笑い声が聞こえる。
「気に入ってもらえたかしら? 鎖天。あなたが望むなら、いつでもひざまくらしてあげるわよ?」
「あぁ、こりゃいいな。ありがとうな、舞沙」
「っふふ。お礼なんていいわ、私が好きでやっていることだし」
舞沙はそう言って、むふーと満足げに鼻息を出した。
ここ数日は硬い床を枕にしていたから、この柔らかさは非常に心地いい。銭湯に入った時以来のリラックス感だ。
頭部が包み込まれ、ぽかぽかと温かい。肩の力が自然と抜けていき、身体を支配していた緊張が解けていく。
このまま、再び眠ってしまいそうだ。
意識が、うとうとと微睡みに呑まれそうになる――
「……待てよ?」
ふわふわとした意識が、ここ数日の嫌な思い出を奥へ奥へと封じていく最中。
ふと、思いついた。
遅々として事態が進展しない現状を、打破できるかもしれない手を。
それは、見落としていた可能性。
確認を怠っていた、ひとつの糸口。
「鎖天? どうしたの?」
「……なぁ、舞沙。犯人はどうして、俺に関する記憶を、クラスメートから消したんだ?」
「それは……死体の発見を遅らせるためじゃないの? あなたがいないという違和感をなくすことで、発覚を遅らせるつもりだったんじゃ……まぁあの女、氏村笑夢がいたおかげで、徒労に終わったようだけど」
「あぁ、多分そうだ。けど、なら、妹のクラスメートや両親の同僚とかからも、同じように記憶を消さないと、意味がないよな?」
「……そうね。そうなるわね」
「本当に消されてんのかな?」
「記憶が、消されていないかもしれないってこと? ……確かに、確認はしていないわ。あり得ない話ではないかもしれない」
「妹のクラスメートや両親の同僚なんて、俺でも把握しちゃいない。そいつらの記憶が消されてたら、必然的に、犯人はその辺の人間関係を把握できる人物ってことになる。これは相当に絞られるぜ。逆に記憶が消されていなかったら、犯人は俺の人間関係しか知らない――――逆に言えば、俺のことをよく知ってる奴ってことになる。これも、相当数は限られる」
「なるほど……鎖天、少しは寝て頭が冴えたのかしら? いい着眼点だと思うわ」
「あぁ。そうなりゃ、善は急げだ」
背筋をぐっと反らし、バネの力だけで起き上がる。
ずっと廃墟に引きこもって、いい加減イライラしていたところだ。ここらで一丁、盤面を動かしてみようじゃないか。
「行こうぜ、舞沙。まずは妹の通ってた中学校だ」
「えぇ、行きましょうか。鎖天」
脚を動かす素振りもなく、コマ落ちのように立ち上がった舞沙は。
大人びたフォルムから一転し、いつもの人形のような少女の姿へと変じた。
うん、やっぱり舞沙は、この姿が似合っている。
環にも、よく似ている。
「? なにかしら鎖天、なにか言いたげな顔をして。もしかして、大人っぽい姿の方が好みだったかしら? 鎖天も男の子だし、胸は大きい方がお好き?」
「逆だ。今の方がいいよ、あんたは」
「あら、そう。そう言ってもらえると、嬉しいわね」
ふふん、と得意気に笑いながら、ふよふよと移動してくる舞沙。
そんな舞沙を横に従えて、俺は根城の廃ビルから飛び出していくのだった。