3 草薙鎖天は斯く絆を結ぶ

文字数 6,728文字

 喫茶店を出て笑夢と別れると、外はすっかり夜になっていた。深い闇がどっぷりと暮れて、緞帳のように辺りを隠す。電灯に乏しい町外れでは、視界の頼りになるのは青々とした月明かりだけだった。

 拙い記憶を頼りに、舞沙との待ち合わせ場所である廃墟を目指す。
 昼間の景色と一変しているからか、何度か道に迷い、引き返してしまった。路地裏は勝手が分からない。どこも似たような風景だから、目印となるようなものに乏しいのだ。ましてや、目指しているのは入り組んだ路地裏の最奥部。ルートを確実に覚えていなければ、今後もこうして迷ってしまうだろう。

 右往左往するさなかでも、心は妙に軽かった。
 間違いなく、笑夢と会えたおかげだろう。
 たったひとりでも、俺を忘れないでくれた奴がいる。そのことが、どれほど心強かったか。誰もいない路地裏のど真ん中で、思わずほくそ笑んでしまうほどに。
 心なしか、足取りも弾むようだった。道に迷っていても、焦りはまるで感じなかった。
 歩いていればその内辿り着くだろうと、楽観的な考えすら脳裏をよぎった。
 浮かれていた、と言ってもいい。
 けど、それくらいは許してほしい。いいじゃないか。両親と妹を殺されて、自分自身も死んでいて、生き返ったと思ったらクラスのほぼ全員から忘れられていて。
 少し浮かれるくらい、そのくらいの権利はあるだろう。
 久しぶりにあった、嬉しい出来事だったのだ。
 だから。


「随分楽しそうね。鎖天」


 だから、俺は忘れていた。
 協力関係を結んでいる少女が、人外の存在で。
 その気になれば、俺の生命を即座に奪い去れる――――そんな存在であることを。

「? ……舞沙?」

 不意に響いた声に、俺は一拍遅れて反応した。
 場所は、ようやく辿り着いた拠点の廃ビル前だった。だだっ広い、ぽっかりと空いた空間で、その声は唐突に聞こえてきた。
 抑揚のない、平淡な声。
 感情の感じられないそれに、俺は、思わず背を震わせた。
 声を聞いた、その瞬間に。
 身震いを禁じ得ないほどの、恐怖に晒されたのだ。
 辺りをきょろきょろと見回す。だが、舞沙の姿はどこにもない。どこにもいないのに、声だけは聞こえてくる。

「そんなに、楽しかったのかしら? あんな女とお喋りするのが……そんなに、楽しかったのかしら?」
「っ、見てたのか――――ぁっ⁉」

 ぐらぁっ、と地面が揺れた。
 いや、違う。足元が揺れたのだ。足が、がくんと力を失い、尻餅をつきそうになる。それを許さないように、ぐい、と首根っこが引っ張られる。
 ほんの数秒で、俺の身体は完全に宙に浮いていた。
 首が、徐々に締め上げられる。
 苦、しい……!

「……っ!」

 首にまとわりつくそれを、俺はがむしゃらに掴んだ。
 柔らかく、力を込めれば霧散してしまいそうなそれは――――【蟲】の感触だった。
【蟲】で俺を持ち上げ、首を締めているのか。
 そんな芸当ができる奴を、俺はひとりしか知らない。

「っ……舞、沙……!」
「楽しそうだったわね。楽しそうだったわ。あなたが、あの女と話している時は……本当に、楽しそうだった」

 目を凝らして、ようやく見える。
 俺を持ち上げる、【蟲】のロープが。
 俺を締め上げる、【蟲】の軍勢が。
 俺の真ん前に立つ、舞沙の姿が。

「私には、あんな顔見せてくれなかったのに」

 俯いている舞沙は、初めて会った時のような少女の姿を取り戻していた。
 か細い腕から、靡くワンピースから、微かに覗く脚から【蟲】が伸びている。俺に絡みつく他に、逃がさないようにだろうか、俺の周りを刺々しく覆っている。まるで氷河に囲まれているようだ。薄く光る真っ白な【蟲】たちが、キィキィ鳴きながら口を開けているのが分かった。

「あんな女には笑ってみせるのに、私には、そんな顔を見せてくれないの? ねぇ、答えなさいよ、鎖天」
「……あんな女って、笑夢の、ことか……?」
「名前なんて知らないわ。知りたくもない。ねぇ、あなたはあんな女に頼るの? 私じゃなくて。私じゃなくて!」

 舞沙は、激昴していた。
 真っ赤な瞳が煌々と光り、俺を睨みつけている。身体全体から伸びる【蟲】の氷壁が、さらに荒々しく刺々しい姿へと変貌していった。
 まるで処刑器具だ。
 無数の【蟲】の棘に覆われて、俺はなす術もなく浮かんでいた。

「ま、舞沙……落ち着、け……」
「あんな女がなに? なんだっていうの? なんの役に立つっていうの? 私の方が、私の方がずっとずっと、あなたの役に立てるわ、鎖天! あなたのかぞくを殺した犯人を見つけてみせる! あなたのいもうとの仇を取ってみせる! その悉くに役立ってみせるわ! 私には【蟲】がある! 知識も、それを操る能力も! だから、だから私の、私の方が、あんな女なんかよりずっとずっと――――!」
「だ、から、落ち着け、よ……舞、沙……!」

 首に巻きつく【蟲】を掴む腕に、力を込める。
 息苦しさを堪えて握り締めると、【蟲】の縄はぶちゅうっ、と音を立てて潰れた。振り払うと、身体は自然と落下する。鋭い霜柱のように屹立する【蟲】を避けるように歩き、舞沙へと近づいていく。

 舞沙は、肩で息をしながらなおも、俺のことを睨んでいた。
 血のように真っ赤な瞳が、真っ直ぐに。
 その視線を受け止めながら、舞沙の矮躯へと肉薄する。

「鎖天……!」
「落ち着けよ、舞沙。あんたらしくねぇぞ」

 ぽん、と。
 舞沙のふわふわとした手触りの髪に、手を置いた。
 頭を押さえるような形だ。そのまま撫でるでもなく、ただ髪に手を埋もれさせる。やがて、舞沙は俺を睨む目を少しだけ和らげてくれた。

「鎖天……」
「……舞沙。あんたには感謝してるんだ。生き返らせてくれて――――家族を殺した犯人を、捕まえる機会をくれて。それに協力してくれて。感謝してるんだ、本当だぜ? だから、こんな物騒なことはしないでくれよ。人殺しは嫌いなんだろう?」
「……そう、だけど」
「なんか怒ってるなら、理由を話してみてくれよ。解決できることなら努力するしさ。せっかく、食欲しかないっていう【蟲】なのに、あんたには知性があるんだ。話し合いができなきゃ損だろ?」
「…………」

 口をへの字に結び、押し黙ってしまう舞沙。
 純白の頬が、わずかに赤みを帯びて見える。すねた子供のように口を動かさなかった舞沙だが、やがて、緩慢な動作で俺の腕を払った。

「……ごめんなさい。取り乱したわ」
「あぁ。驚いたし、正直死ぬかと思ったから、今後はやめてくれよ?」
「勿論よ。私はあなたを、殺すために生き返らせたんじゃないわ。それくらい、弁えてるわよ」

 ただ、と。
 周囲に展開していた【蟲】たちを身体へ戻しながら、舞沙は続ける。
 荒々しい氷河のようだった【蟲】たちが、吸い込まれるように舞沙の中へ溶けていく。手から、脚から、髪から、それは神々しささえ覚える光景だった。全ての【蟲】を回収し終えると、周囲の光量が一気に下がり、自分の身体すら見えない暗闇に包まれる。
 そんな中、ひとりだけぽっかりと浮かび上がった舞沙は、さながら天使のようにも見えた。

「ちょっと、いえ大分、いえかなり、その、我慢ができなかったの。鎖天が、あんな女と仲良くしていて、そして、頼み事までしてたのが……私が、頼りないみたいで」
「……頼りないなんてことはないさ。寧ろ大いに頼りにしてる。俺から家族を奪った奴を見つけてくれるのは、舞沙、あんただって信じてる」
「鎖天……」
「でも、どうして笑夢を――さっき会ってた奴だけど――そんなに敵視するんだ? 笑夢は【蟲】とは関係ない一般人だろ? さすがに友達を『あんな女』呼ばわりは、俺でも苦言を呈するぜ?」
「……あなたの頭は本当に平和ね。鎖天、あの女があなたの記憶を残していたのは、何故だと思うの?」
「何故って言われても……分からないとしか、答えようが」
「あの女が、あなたのくらすめーとから記憶を奪った張本人だから、という考え方はできないの?」
「それ、は……」

 それは、考えたこともなかった。
 だって、そんなの、あり得ないだろ。三年も友達をやっていたあいつを、疑うなんて。
 そんなことは……。

「……安心して。もしもの話よ。あの女はシロね、間違いないわ。あなたのかぞくの殺害にも、あなたに関する記憶が消えた件にも、まるで関係していないわ。完全なる無関係よ」
「え……? わ、分かるのか?」
「えぇ。ふたつの事件、共に【蟲】が絡んでいるのは間違いないわ。でも、あの女には【蟲】が操れない。見ることも叶わないでしょうね」
「そ、そりゃそうだろ。だってあいつは、そういうのに一切関係のない一般人なんだから」
「そういうことじゃないわ。あの女、【蟲】に嫌われているのよ」
「【蟲】に、嫌われている?」

 それは、随分と意外な話だった。
 舞沙から話を聞く限りにおいて、【蟲】というのは人間なら誰でも関係なく、巣食い、生命力を喰い漁るものだと思っていた。
 そんな【蟲】が、笑夢を嫌っている?

「いわゆる特異体質って奴よ。【蟲】を遠ざけ、その影響をほぼ受けない人間。たまにいるのよ、そういう奴が。私も……正直苦手だわ。関わりたくないっていうか、胸の辺りが苦しくなる。身体が、本能的に拒絶するのよ」
「だから、笑夢に対して辛辣なのか」

 そして、もうひとつ謎が解けた。
 笑夢だけが、俺に関する記憶を失っていなかった件だ。
 あれは、記憶を喰う【蟲】の影響を、笑夢が受けない体質だったからなのか。

「うん、なるほど。色々合点がいったよ、ありがとうな、舞沙。けど、笑夢のことを『あんな女』呼ばわりはやめてくれよ。あいつは俺の大事な友達だ。唯一俺を覚えててくれた無二の親友だ。嫌うのは仕方なくても、侮辱はしないでやってくれ」
「ともだち、ねぇ……」
「なんだよ。まさか舞沙、男女間の友情に懐疑的な奴か? 性別なんて関係ねぇよ。現に俺と笑夢は、ちゃんと友達だ」
「……私と鎖天も、ともだち、かしら?」

 と。
 舞沙が呟いたのは、意外な問いだった。
 俺と舞沙が、友達か?
 それは……難しい質問だった。

「……………………」
「……無言ってことは、否定、と捉えていいのかしら?」
「いや、そういうんじゃなくて……なんて言うかなぁ」

 剣呑な目つきをした舞沙に、俺は慌てて手を振ってみせる。
 だが、俺と舞沙の関係性を一言で表せるような、そんな便利な語彙は俺のボキャブラリーの中にはなかった。
 命を救ってもらった恩人でもあるし。
 復讐を共に果たさんとする同志でもある。
 出会ったばかりだが、付き合いの深さは笑夢や枝垂にも負けないだろう。けど、友達という牧歌的な言葉は似合わないような気もする。
 どうしても死の絡む、血なまぐさい関係ではあるから。
 だから、俺と舞沙を言い表す適当な言葉は。

「……仲間、かな」
「なかま?」

 きょとんとした顔で首を傾げる舞沙。
 まぁ、曖昧な物言いだよな。けれども他に適切な言葉が見当たらない。

「……それは、ともだちとどう違うのかしら? なかまとともだちは、どっちが大切なの?」
「違いは……俺にもよく分かんねぇよ。単にしっくりくるから言っただけだ。どっちが大切とか、関係ねぇよ。どっちも大切だ。笑夢との友情も大事だし、舞沙、あんたと出会えた奇跡も、かけがえのないものだ」
「…………」
「さっきも言ったろ? あんたには感謝してるんだ。一緒に戦ってくれるっていうあんたのことが、大切じゃない訳がないだろ。頼りにしてる」
「……なら、いいわ」

 帰りましょうか。
 静かにそう呟くと、舞沙は踵を返し、背後にあった拠点の廃ビルへ向かっていった。俺も、それに続く。
 影を生み出さない、舞沙の不可思議な光を追って、廃墟の中へ入っていく。

 がっつり時間をかけて掃除した甲斐あって、空気に埃っぽさは皆無だった。清々しさすら感じる。一階のど真ん中に置いておいたリュックサックから、寝袋を引っ張り出す。
 時間はそれほどでもない筈だが、掃除で体力を使った所為かえらく眠い。
 或いは、両親の死体を見た所為か。
 身体もそうだが、胸の奥から倦怠感が顔を覗かせてくる。早く眠ってしまいたいと、忘れてしまいたいと、心が叫んでいるようだった。

「さっき」

 と。
 舞沙が体育座りのようなポーズを取りながら、声をかけてきた。
 重力から解放されたようにふわふわと浮かぶ舞沙の身体は、丸まったまま漂っている。

「さっき、私が怒っていた時、あなたは随分手馴れた風に宥めていたわね。どうして?」
「どうしてって、なにがだ?」
「【蟲】のロープを砕かれた時、私、殴られるくらいは覚悟していたのだけど。どう考えても、私が勝手に怒っているだけだったし……思い返すと恥ずかしいわ」
「女の子にそんなことはしねぇよ。……別に、そういう時の対処に慣れてるだけだ」
「慣れてる?」
「あぁ。俺の妹、草薙環っていうんだが、いつもはおとなしくて可愛らしいくせに、ふとしたことで癇癪を起こすこともあってな。ヒステリックに騒ぐこともあったんだ。そういう時、ああやって宥めると落ち着いてたからな。さっきの舞沙も似たような雰囲気だったから、同じようなことをしてみたんだ」
「随分大変ないもうとね」
「そうでもなかったさ。普通にしてれば、気も利いて優しくて、甘えん坊で可愛い妹だったよ。いっつも俺にべったりで、ああやって無条件に懐いてくれるのは、正直嬉しかったな。それに――」

 語り尽くせないくらい、環のことが頭をいっぱいにした。
 幼い頃の記憶も。
 最近の思い出まで、全てごちゃ混ぜで。
 環の顔を思い出す。いつも無邪気に笑っていて、見ているだけで癒された。
 環の髪を思い出す。カラスの濡れ羽色をした、絹のような髪の感触が指に蘇る。
 環の腕を思い出す。学校から帰ると、決まって力強く抱き締めてきた、細い腕が懐かしい。
 環の胸を思い出す。控えめなそれを気にしていた環に、可愛いと笑いかけると、必ず笑みを返してくれた。
 環の腹を思い出す。猫のように、撫でてあげると喜んでいた。けらけら笑う声が聞こえてくるようだ。
 環の脚を思い出す。細くたおやかなそれは、精一杯背伸びをして俺に追いつこうとしていたっけ。
 環を、思い出す。思い出す。思い出す。
 思い出はとめどなく溢れ出てくる。いくら思い出しても足りないくらいに。俺の人生は、妹によっていつでも彩られていた。

 そんな妹が、もういない。
 環が、もう、この世にいない。
 その現実が、じくじくと胸を痛ませていく。

「……鎖天?」
「……悪い、舞沙」

 やっとのことで吐き出した声は。
 半ば嗚咽に呑まれており、みっともなく引きつっていた。

「鎖天」

 ふわぁ、と。
 柔らかくもこもことした舞沙の身体が、俺の上半身を優しく包み込んだ。
 春の陽射しのように温かな肢体に、顔を埋める。緩慢に抱きつくような格好になって、ぼろぼろと涙を流した。

 もう、会えないんだ。
 父さんにも、母さんにも。
 環にも。

「よしよし、いい子いい子」

 ぽん、と。
 舞沙が俺の頭に、手を置いた。
 フェルトのような感触が、じわりと広がっていく。

「さっきの、あなたの真似なんだけど……私じゃ、上手くはいかないわね」
「……いや……ありがとな……」

 力なく笑う舞沙に、俺も生気に欠けた笑みで返す。
 なんだか、舞沙と一緒だと落ち着く。
 ずっと昔から、一緒にいたみたいだ。
 錯覚でも人恋しさでもいい。今はただ、その温もりだけが苦しみを和らげてくれた。

「……舞沙」
「なにかしら、鎖天」
「俺は……絶対に、家族の仇を討ってみせる。必ず、必ずだ」
「えぇ」

 舞沙はゆっくりと頷き、微笑んでくれた。

「私も、協力するわ。あなたの望みが叶うまで、あなたのために動いてあげる。あなたを生き返らせた責任、絶対に果たしてみせるわ」
「……ありがとう」

 ぎゅう、とどちらともなく抱き締める力を強くする。
 みっともない代償行為。だけど、それでも構わない。
 夜は、静かに更けていく。
 月が真上から照らすようになるまでずっと、俺は舞沙と強く抱き合っていた。
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