1 草薙鎖天は斯く異常を見落とす

文字数 1,333文字

「――――っあぁっ⁉」

 頓狂な声を上げて起き上がる。
 自分の声が壁に反響し、くゎんくゎんとうるさい。
 荒い呼吸に、肩を上下させる。心臓は鼓動が聞こえないほどに落ち着いているが、それが嘘のように肺は全力稼働していた。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……え? え?」

 狼狽して辺りを見回すが、そこは見慣れた自分の部屋だ。机と、マンガで埋め尽くされた本棚くらいしかない、簡素な部屋。そんな部屋の隅に置かれたベッドの上で、俺はぜえぜえ息を切らしていた。

 なにがなんだか、整理がつかない。
 第一、俺は自分の部屋で眠った記憶がない。目を覚ますまでの直近の記憶は、あの、嘘みたいな落下劇だけだ。

 見えないなにかに胸を押され。
 階段から足を踏み外し、落下する最中。
 胸が弾け、心臓が喰われたように欠けた記憶――――

「っ、胸、は」

 思い出すと同時に、俺は自分の胸元を確認していた。
 何故か学ランを着たままだったが、今はそんなことどうでもいい。胸は、弾け飛んで中身が丸見えになっていた胸は、どうなった?

「……なんとも、ない……」

 ワイシャツのボタンを外し、露出させた胸は、綺麗なままだった。
 傷跡ひとつない。
 まさかこの皮膚と肉が弾け飛んだなんて、思えないほどに。

「…………夢、だったのか?」

 そう考えれば、全てに説明がつく。
 俺は階段から落ちてなんかいないし、胸に傷も負っていない。心臓が傷ついてたりもしない。
 何故ならあれは、悪い夢だったから。
 ……うん、悪くない解釈だ。というか、それ以外に考えられない。

 学ランのまま寝てしまったのも、きっと昨日の疲れの所為だろう。日直の仕事は結構な重労働だ。神経も使っていたし、疲れて眠ってしまったのだろう。
 ということは、昨日は環の手料理を食べ損ねたことになる。
 非常に残念ではあるが、まぁあのそつない妹のことだ。俺の分は小分けにして、ちゃんと冷蔵庫に保管していてくれているだろう。

 だから、なにも心配することはない。
 昨日のあれは、脳裏にこびりついて離れないこれは、ただの夢なのだから。
 ただの、性質の悪い夢――――

「って、もうこんな時間かよ⁉」

 ぶんぶんと、嫌な記憶を振り払うべく頭を振っていたら、枕元にある時計が目に入った。
 針が指し示す時刻は、午前八時。
 八時二〇分にはHRが始まってしまう。今から出たんじゃギリギリだ。間に合うかどうかの瀬戸際である。

「っべぇ!」

 慌ててベッド脇に落ちていた鞄を持ち、玄関へと向かう。
 残念だが、朝食を食べている時間はない。
 愛しの妹と戯れる暇も、今は惜しい。

「母さん、父さん、環! 悪いけどもう行くわ! 姉ちゃんも、帰ったら手ぇ合わせるから堪忍な!」

 返事はない。
 けれど、それを不思議がる時間もなかった。これでも無遅刻無欠席の、書類上では優等生なのだ。つまらない夢なんかでそのイメージをふいにする訳にはいかない。
 靴に足を突っ込み、開け放った扉に鍵をかけることさえ忘れて駆け出す。

 家の中の誰かが、鍵くらい閉めてくれるだろう――――と。


 この時の俺は、呑気にそう思っていた。
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