3 草薙鎖天は斯く地獄に立つ
文字数 6,374文字
どのくらい走っただろうか。
そもそもどこを走ったのだろうか。
息をしない死んだ身体は、弛むことなく全速力を出力し続けた。朝とも昼とも言い難い中途半端な時間帯。すれ違う人も少なく、大きく腕を振るう俺の姿を奇異の目で見るものはほとんどいなかった。
視界に何度か、警察官らしき人影が映りはしたけれど。
そんなのに、構っていられなかった。
クラスメートに、危険が迫ってる。
俺たち家族を、笑夢を殺した犯人が、今度はクラスメートまで狙っている。
その可能性だけで背筋が震えた。たとえ記憶を全て喰われていても、あいつらは俺の友達だ。かけがえのない、大事な友人たちなのだ。
失う訳にはいかない。
殺されるなんて真っ平だ。
どこまで、どこまで俺から奪えば気が済むんだ。
やらせない、今度こそ止めてやる。
これ以上の悲劇は、もういらないんだよ!
「っ、そこ! 一階の右端の教室!」
目端にようやく、我らが籠網高校の姿を捉えた。
周囲の人影など、確認する時間が勿体ない。そんな余裕めいたことをしている暇など、ありはしなかった。
ぐるりと学校を囲むフェンスを、ボルダリングのように乗り越える。
砂利だらけの校庭は、高高度から落ちてきた俺の皮膚を容赦なくズタズタに掻き切っていく。だが、この身はもはや痛みを感じない。怯むことはない。ごろごろと転がり、砂だらけになりながらなおも走り続ける。
あと、もう少し。
三メートル、二メートル、一メートル――
「っ、枝垂! みんなっ!」
窓枠にしがみつき、教室内へと身を乗り出す。
その瞬間、見えた光景は。
「あ、おにいちゃんだ」
「え…………?」
身も心も、思考さえ凍りついた。
いる筈のない人がいたから。
ある筈のない惨状が広がっていたから。
想像を超えた事象に、人は無力だ。為す術なくフリーズする。
だって。だって。
さっき中学校で見てきたのと同じ、見渡す限り死体しかない空間。
屍山血河の四字熟語が相応しい、地獄のような光景。
床を、壁を、天井さえ染め抜いた血の色。
その中に、ぽつんと。
本当に不似合いに、ぽつんと。
草薙環が、立っていた。
「た、まき……? なんで……⁉」
なんで、おまえがここにいる?
殺された筈じゃ――――消えてしまった筈じゃ。
なんで、こんな地獄絵図の中に、いるんだよ。
手を、口元を、全身を血で濡らして。
カラスの濡れ羽のように美しかった髪は白く色褪せ、さらにそれを血で染めて。
俺の友達を、菊畑枝垂の首元を掴み上げて。
死体だらけの空間でただひとり、笑っている。
俺を見つけて、笑っている。
いつもと同じ、朗らかで柔和な笑みを。
「えへへ~。おにいちゃん、久し振りだね」
ぽい、とまるでゴミみたいに枝垂の身体を放ると、環はとてとてと俺の方へ向かってきた。
道を遮る死体たちを、踏みつけにして。
体重がかかる度に、深々と抉られた首元から血が噴き出す。
靴がべちゃべちゃと音を立てるほどに血にまみれても、環は、まるで頓着していない。
「ほーらー。そんなとこいないの。危ないよ? 降りてきてー」
窓枠という細い足場に立つ俺のことを、環は自然な振る舞いで教室内に引っ張り込んだ。
びちゃ、と靴裏が血の海の感触を足に伝える。
まだ、生暖かい。ついさっきまで、こいつらが生きていた証拠だ。
どの顔も覚えている。けど、表情はいつもとまるで違っていた。苦痛に、恐怖に、戦く顔がみんなの死に顔になっていて、ずきり、と刺されたように胸が痛んだ。
「四日も会えなくて、寂しかったんだよ? だから、四日分のおにいちゃんを補給するのです。まずはぎゅ~」
環が、抱きついてくる。
両腕を俺の背中に回し、力いっぱい抱き締めてくる。
いつもなら、俺もそれに応えていただろう。環の頭に手を回し、さらさらのその感触を楽しんでいただろう。
だが、今の俺に、そんなことはできない。
呆然とするしかなかった。
状況証拠が揃い過ぎてる。今までの推論が急に牙を剥く。
「? どうしたの、おにいちゃん? ほらほら、いつもみたいにぎゅ~ってしてよ。頭なでなでしてよ~。わたし、おにいちゃんに会えなくってとっても寂しくて、とっても苦しかったんだよ?」
耳朶を叩くその言葉も、ほとんど頭に入ってこなかった。
ふら、と身体が動いた。
ゾンビのように覚束ない足取り。死体を避け、血を踏み荒らし、俺の身体は前へ前へと進んでいった。
環の腕は、途中で解けてしまった。
けど、それに気づかないくらい、頭の中が真っ赤に染め上げられている。
「? おにいちゃん?」
教壇。黒板の前。打ち捨てられた菊畑枝垂の身体が目に入った。
服が血で汚れるのも厭わず、しゃがみ込む。横たわる枝垂を、ゆさゆさと大きく揺さぶった。
だが、反応はない。
首元こそ喰い千切られていないものの、枝垂が息をしていないのは明らかだった。目から、口から、夥しい量の血がこぼれ出ている。身体を揺らした拍子に、ちゃぷちゃぷと、人体からあり得ない水っぽい音が聞こえてきた。
恐らく、内臓をずたずたにやられたのだろう。
体内が血でいっぱいになるくらいに。
「むー。おにいちゃん、どうしたの? いつもなら、無視したりなんかしないのに」
「……おまえが、やったのか。環」
「? なにが?」
「っ、とぼけるんじゃねぇ!」
怒鳴った。
焦燥が、困惑が、慟哭が、声を荒らげた。
足元に血を撒き散らしながら、俺は立ち上がる。
「おまえが、おまえが殺したのか⁉ 父さんも、母さんも、笑夢も、おまえのクラスメートも、俺の友達たちも! 全部! おまえがやったって言うのかよっ⁉ 環ぃ‼」
「……お、怒んないでよ。怖いなぁ。わたし、怒ったおにいちゃんはあんまり好きじゃないよぉ……。けど、嫌いでもないよ? おにいちゃん、怒ると目元がワイルドになって、カッコいいんだもん。好き」
「ふざけんな! そんなことを言ってる場合じゃないだろ! おまえが……おまえが、本当に、やったって言うのかよ……? 全部、全部! おまえの仕業なのかよっ⁉」
「当然じゃない。見て分かるでしょう? 犯人は草薙環――――あなたの、いもうとよ」
凛とした声が、教室に響いた。
反射的に目がそちらを向く。教室の後方、用途の分からない黒板の前に立っていたのは、少女の姿をした狂々理舞沙だった。
ついて、きていたのか。
舞沙は死体の上に浮かび、淡々と続ける。
「草薙環が犯人なら、全ての事件に説明がつくわ。殺されている可能性が高い、っていうのは、だから私の間違いね。ごめんなさい、鎖天。動機は分からないけど、草薙環はあなたのりょうしん、氏村笑夢、中学校と高校の同級生たち、そして、あなた自身を殺した張本人よ」
道理で、歯型が小さいと思ったのよね。
舞沙は唾棄するように付け加える。
環が、犯人。
父さんを、母さんを、笑夢を、自分の同窓を、俺のクラスメートを殺した、犯人。
「環……おまえ、なんてことを……!」
「う~。おにいちゃん、目が怖いよ~。あふぅ、けどそんな目で見つめられちゃうと、ぞくぞくしちゃうかも。えへへぇ、癖になっちゃいそう」
「……このあににして、このいもうとありね。ぶらこん、という奴かしら」
舞沙が、真紅の瞳で環を睨みながら言う。
「鎖天。あなた確か、しすこんを精神病質だと言っていたわね。あなたのいもうとこそ、正にそれなんじゃないかしら? 案外、殺人の動機もその辺りにありそうね。歪んでいるきょうだい愛。人は愛のためなら、容易く狂気に落ちるわ。まぁその辺は、本人に聞けばはっきりするかしら――」
「さっきからぺらぺらうるさい」
酷薄な言葉が聞こえた。
背筋が冷えるようなゾッとする声音。それが環の口から発せられたものだと、俺は気づけなかった。
一〇年以上もずっと一緒にいて、初めて聞く声。
環は、舞沙のことを睨みつけていた。強く、強く、眉間に皺を寄せて。視線だけで射殺さんばかりに。
「あなた、おにいちゃんのなに? なんで、おにいちゃんのことを呼び捨てにしているの? 馴れ馴れしい……もしかしてあなたが、あの女の言っていた――」
「私は狂々理舞沙。あなたが殺した鎖天を生き返らせたものよ」
「…………!」
ぴく、と環のこめかみが動く。
そうだ。環が両親を、笑夢を、みんなを殺したというなら。
俺を殺したのも、環ということになる。
けど、なんで――
「大好きなおにいちゃんを、あなたが殺してしまったおにいちゃんを、私が蘇らせたのよ? 感謝の言葉のひとつもあっていいんじゃないかしら? ねぇ、草薙環」
「……黙れ」
びちゃあっ、と。
血を蹴り散らし、環は臨戦態勢を整えた。
獣のように、舞沙めがけて跳びかかっていく。
「おにいちゃんを返せ! この、泥棒猫ぉ!」
死体を足蹴に、環は駆ける。
足を踏み出す度に、びちゃびちゃと血の音が響く。
その吶喊を、俺はただ見ていることしかできなかった。環の唐突な行動に、疑問を差し挟む余裕すらなかった。
環を止める言葉さえ、出てこない。
「無駄よ」
受ける側の舞沙は、反面、余裕綽々だった。
薄く微笑みながら、向かってくる環を待っている。自分には攻撃が効かない、そう確信している表情だった。
「少し【蟲】が見えるくらいじゃ、私には触れることさえ叶わな――」
「っ、しゃあっ!」
しかし、その確信は、裏切られることになる。
環が取った行動は、単なる吶喊ではなかった。
大きく口を開き、舞沙の肩口に噛みついたのだ。
ぶちぃっ、と嫌な音がして。
舞沙の左肩は、抉れたように喰い千切られていた。
「痛ぅ……っ⁉」
「まっずいなぁ。ちょっとは味に期待したのに」
苦虫を噛み潰したように顔を顰める環。
今、なにが起こった?
環が、舞沙を喰ったのか?
人間が、【蟲】である舞沙を?
「もう、ひと口!」
「っ……!」
がちぃっ、と環の歯が空を噛む音が響いた。
舞沙は身体を細かい【蟲】に変え、その場から移動していた。俺のすぐ横で、小さな白い粒たちが寄り集まり、瞬く間に舞沙の形が作られた。
それでも、噛み千切られた左肩は、痛々しい傷跡を残したままだ。
「嘘、でしょ……⁉ あの女、【蟲】を喰うことができるの? そんな人間、今まで聞いたことがない……!」
「うん、随分珍しい才能みたいだね、これ。あの女が言ってたよ」
まぁそんなこと、どうでもいいんだけどね。
吐き捨てると、環は再び、舞沙に向けて突進してきた。
血だらけの口が凶暴に光る。鋭い八重歯が口内から覗く。
今度こそ、舞沙を喰い殺すつもりだ。
舞沙もそれを察したのか、今度は環が辿り着く前に身体を【蟲】へと分解した。赤一色の教室において舞沙の白は目立つが、目に見えないほどの細かい粒子になってしまえば、さすがに攻撃を食らう道理もない。
【蟲】を喰うという、前代未聞の異能を相手にしても。
見えないものまでは喰いようがない。
環の吶喊は、だから空振りに終わった。びちゃあっ、と音を立てて前のめりに転がる。ただでさえ真っ赤だった服が、さらに血で濡れていき、元の模様がなんだったのかさえ分からなくなる。
「たま、き……」
「もうちょっと、もうちょっとだけ待っててね。おにいちゃん。さっさとあいつ、喰い殺しちゃうから」
「やめろ……やめろよ、環……なに、やってんだよ……!」
「もう少しの辛抱だからね。あいつさえいなくなれば、おにいちゃんはずっとわたしのものだよね」
ふらぁ、と幽鬼を思わせる頼りない足取りで、環は立ち上がる。
ぎろ、と環が周囲を睨んだ。
その瞬間、異変は起きた。
「っ――――が、はっ⁉」
「っ、環っ⁉」
腰を曲げ、環がぼたぼたと血を吐いたのだ。
赤黒い血が、足元の血と混ざっていく。
喀血は止まらない。慌てて俺は立ち上がり、環の元へと駆け寄っていった。
小さな背中を、懸命にさすってやる。
「だ、大丈夫か⁉ なんで、なにがあったんだよ⁉」
「当然の結果よ、鎖天」
姿は、なおも見えない。
だが、それは舞沙の声だった。凛と張り詰めたような声が、静かに耳朶を叩いた。
「【蟲】を喰うなんて能力、驚いたけど……生命力を喰う【蟲】を自ら体内に入れるなんて、自殺行為もいいところだわ。喰った【蟲】によって内臓がやられてる。自業自得ね」
「……うる、さい……!」
血が、口からこぼれ続ける。
舞沙の言う通りだ。こんなに血を吐くなんて、内臓がボロボロになっている証拠だ。【蟲】を喰うという規格外の異能。食物連鎖の関係図をまるごと壊すようなその蛮行に、しかし、なんのリスクもないなんてあり得ない。
こんなことを続けていたら、環は壊れてしまう。
そんなのは、嫌だ。
完全に死んだと思っていたんだ。諦めていたんだ。もう会えないと、覚悟していたんだ。
その全てが、小さなその身体を目にした瞬間、まとめて吹っ飛んだ。
どんな形でもいい。
生きていてほしい。
この娘だけは、どうしても――
「おにいちゃんを……呼び捨てにするなぁっ‼」
「っ、待て! 環!」
舞沙めがけて突っ込もうとする環を、俺は慌てて羽交い締めにした。
これ以上、舞沙に挑んじゃダメだ。
舞沙の側も、ダメージはゼロではない。現に喰い千切られた左肩は再生していない。
しかし、それ以上に重篤なのは環の方だ。
これ以上【蟲】を喰ったら、死んでしまう。
それだけは、止めないと。
兄として、義務として。
「放しておにいちゃん! あいつ殺せない!」
「っ、環……なんで、そんな……」
じたばたと暴れる環を、押さえつけるのがやっとだ。尋常じゃないくらいに力が強い。少しでも気を緩めれば、手を離してしまいそうだった。
なんで、そんなことを言うんだよ。
なんで、こんなことをしちまったんだよ。
なんで、なんで――
「はぁ疲れた。環ちゃん、こっちは終わったよ。賑やかだね、なにを騒いでいるんだい?」
極々自然な調子で、扉が開いた。
まるでここが、なにも起きていないいつも通りの学校みたいに。
現れたのは、ひとりの女性だった。
喪服を思わせる真っ黒なスーツ。ワイシャツやネクタイまで黒一色で固められ、傷んだ藍色の髪をより痛々しく見せている。
それは。
その人は。
「……霧雨、さん……?」
「おや、鎖天くんじゃないか。これはめでたいね、兄妹感動の再会だ。尤も、絵面はそれに似合わない酷いものだけど」
その人は――――探偵・霧雨愛菜だった。
なんで、なんでこの人が、こんなところにいる?
こんな、血みどろの地獄絵図に。
しかも、まるで環と知り合いみたいに。
この人は、俺たちに起こった事件について調べている、探偵じゃなかったのか――――?
「……なんで」
「おやぁ?」
なんで。
なんで。
なんで、ここにいる?
なんで、あんたが。
両手を血で真っ赤にして、この場所にいるんだ――――
「なんでここにいるのよ⁉霧々須 心愛 ぁっ‼」
叫んだ舞沙が。
右手を巨大な【蟲】の塊に変えて、霧雨愛菜めがけて突進していった。
そもそもどこを走ったのだろうか。
息をしない死んだ身体は、弛むことなく全速力を出力し続けた。朝とも昼とも言い難い中途半端な時間帯。すれ違う人も少なく、大きく腕を振るう俺の姿を奇異の目で見るものはほとんどいなかった。
視界に何度か、警察官らしき人影が映りはしたけれど。
そんなのに、構っていられなかった。
クラスメートに、危険が迫ってる。
俺たち家族を、笑夢を殺した犯人が、今度はクラスメートまで狙っている。
その可能性だけで背筋が震えた。たとえ記憶を全て喰われていても、あいつらは俺の友達だ。かけがえのない、大事な友人たちなのだ。
失う訳にはいかない。
殺されるなんて真っ平だ。
どこまで、どこまで俺から奪えば気が済むんだ。
やらせない、今度こそ止めてやる。
これ以上の悲劇は、もういらないんだよ!
「っ、そこ! 一階の右端の教室!」
目端にようやく、我らが籠網高校の姿を捉えた。
周囲の人影など、確認する時間が勿体ない。そんな余裕めいたことをしている暇など、ありはしなかった。
ぐるりと学校を囲むフェンスを、ボルダリングのように乗り越える。
砂利だらけの校庭は、高高度から落ちてきた俺の皮膚を容赦なくズタズタに掻き切っていく。だが、この身はもはや痛みを感じない。怯むことはない。ごろごろと転がり、砂だらけになりながらなおも走り続ける。
あと、もう少し。
三メートル、二メートル、一メートル――
「っ、枝垂! みんなっ!」
窓枠にしがみつき、教室内へと身を乗り出す。
その瞬間、見えた光景は。
「あ、おにいちゃんだ」
「え…………?」
身も心も、思考さえ凍りついた。
いる筈のない人がいたから。
ある筈のない惨状が広がっていたから。
想像を超えた事象に、人は無力だ。為す術なくフリーズする。
だって。だって。
さっき中学校で見てきたのと同じ、見渡す限り死体しかない空間。
屍山血河の四字熟語が相応しい、地獄のような光景。
床を、壁を、天井さえ染め抜いた血の色。
その中に、ぽつんと。
本当に不似合いに、ぽつんと。
草薙環が、立っていた。
「た、まき……? なんで……⁉」
なんで、おまえがここにいる?
殺された筈じゃ――――消えてしまった筈じゃ。
なんで、こんな地獄絵図の中に、いるんだよ。
手を、口元を、全身を血で濡らして。
カラスの濡れ羽のように美しかった髪は白く色褪せ、さらにそれを血で染めて。
俺の友達を、菊畑枝垂の首元を掴み上げて。
死体だらけの空間でただひとり、笑っている。
俺を見つけて、笑っている。
いつもと同じ、朗らかで柔和な笑みを。
「えへへ~。おにいちゃん、久し振りだね」
ぽい、とまるでゴミみたいに枝垂の身体を放ると、環はとてとてと俺の方へ向かってきた。
道を遮る死体たちを、踏みつけにして。
体重がかかる度に、深々と抉られた首元から血が噴き出す。
靴がべちゃべちゃと音を立てるほどに血にまみれても、環は、まるで頓着していない。
「ほーらー。そんなとこいないの。危ないよ? 降りてきてー」
窓枠という細い足場に立つ俺のことを、環は自然な振る舞いで教室内に引っ張り込んだ。
びちゃ、と靴裏が血の海の感触を足に伝える。
まだ、生暖かい。ついさっきまで、こいつらが生きていた証拠だ。
どの顔も覚えている。けど、表情はいつもとまるで違っていた。苦痛に、恐怖に、戦く顔がみんなの死に顔になっていて、ずきり、と刺されたように胸が痛んだ。
「四日も会えなくて、寂しかったんだよ? だから、四日分のおにいちゃんを補給するのです。まずはぎゅ~」
環が、抱きついてくる。
両腕を俺の背中に回し、力いっぱい抱き締めてくる。
いつもなら、俺もそれに応えていただろう。環の頭に手を回し、さらさらのその感触を楽しんでいただろう。
だが、今の俺に、そんなことはできない。
呆然とするしかなかった。
状況証拠が揃い過ぎてる。今までの推論が急に牙を剥く。
「? どうしたの、おにいちゃん? ほらほら、いつもみたいにぎゅ~ってしてよ。頭なでなでしてよ~。わたし、おにいちゃんに会えなくってとっても寂しくて、とっても苦しかったんだよ?」
耳朶を叩くその言葉も、ほとんど頭に入ってこなかった。
ふら、と身体が動いた。
ゾンビのように覚束ない足取り。死体を避け、血を踏み荒らし、俺の身体は前へ前へと進んでいった。
環の腕は、途中で解けてしまった。
けど、それに気づかないくらい、頭の中が真っ赤に染め上げられている。
「? おにいちゃん?」
教壇。黒板の前。打ち捨てられた菊畑枝垂の身体が目に入った。
服が血で汚れるのも厭わず、しゃがみ込む。横たわる枝垂を、ゆさゆさと大きく揺さぶった。
だが、反応はない。
首元こそ喰い千切られていないものの、枝垂が息をしていないのは明らかだった。目から、口から、夥しい量の血がこぼれ出ている。身体を揺らした拍子に、ちゃぷちゃぷと、人体からあり得ない水っぽい音が聞こえてきた。
恐らく、内臓をずたずたにやられたのだろう。
体内が血でいっぱいになるくらいに。
「むー。おにいちゃん、どうしたの? いつもなら、無視したりなんかしないのに」
「……おまえが、やったのか。環」
「? なにが?」
「っ、とぼけるんじゃねぇ!」
怒鳴った。
焦燥が、困惑が、慟哭が、声を荒らげた。
足元に血を撒き散らしながら、俺は立ち上がる。
「おまえが、おまえが殺したのか⁉ 父さんも、母さんも、笑夢も、おまえのクラスメートも、俺の友達たちも! 全部! おまえがやったって言うのかよっ⁉ 環ぃ‼」
「……お、怒んないでよ。怖いなぁ。わたし、怒ったおにいちゃんはあんまり好きじゃないよぉ……。けど、嫌いでもないよ? おにいちゃん、怒ると目元がワイルドになって、カッコいいんだもん。好き」
「ふざけんな! そんなことを言ってる場合じゃないだろ! おまえが……おまえが、本当に、やったって言うのかよ……? 全部、全部! おまえの仕業なのかよっ⁉」
「当然じゃない。見て分かるでしょう? 犯人は草薙環――――あなたの、いもうとよ」
凛とした声が、教室に響いた。
反射的に目がそちらを向く。教室の後方、用途の分からない黒板の前に立っていたのは、少女の姿をした狂々理舞沙だった。
ついて、きていたのか。
舞沙は死体の上に浮かび、淡々と続ける。
「草薙環が犯人なら、全ての事件に説明がつくわ。殺されている可能性が高い、っていうのは、だから私の間違いね。ごめんなさい、鎖天。動機は分からないけど、草薙環はあなたのりょうしん、氏村笑夢、中学校と高校の同級生たち、そして、あなた自身を殺した張本人よ」
道理で、歯型が小さいと思ったのよね。
舞沙は唾棄するように付け加える。
環が、犯人。
父さんを、母さんを、笑夢を、自分の同窓を、俺のクラスメートを殺した、犯人。
「環……おまえ、なんてことを……!」
「う~。おにいちゃん、目が怖いよ~。あふぅ、けどそんな目で見つめられちゃうと、ぞくぞくしちゃうかも。えへへぇ、癖になっちゃいそう」
「……このあににして、このいもうとありね。ぶらこん、という奴かしら」
舞沙が、真紅の瞳で環を睨みながら言う。
「鎖天。あなた確か、しすこんを精神病質だと言っていたわね。あなたのいもうとこそ、正にそれなんじゃないかしら? 案外、殺人の動機もその辺りにありそうね。歪んでいるきょうだい愛。人は愛のためなら、容易く狂気に落ちるわ。まぁその辺は、本人に聞けばはっきりするかしら――」
「さっきからぺらぺらうるさい」
酷薄な言葉が聞こえた。
背筋が冷えるようなゾッとする声音。それが環の口から発せられたものだと、俺は気づけなかった。
一〇年以上もずっと一緒にいて、初めて聞く声。
環は、舞沙のことを睨みつけていた。強く、強く、眉間に皺を寄せて。視線だけで射殺さんばかりに。
「あなた、おにいちゃんのなに? なんで、おにいちゃんのことを呼び捨てにしているの? 馴れ馴れしい……もしかしてあなたが、あの女の言っていた――」
「私は狂々理舞沙。あなたが殺した鎖天を生き返らせたものよ」
「…………!」
ぴく、と環のこめかみが動く。
そうだ。環が両親を、笑夢を、みんなを殺したというなら。
俺を殺したのも、環ということになる。
けど、なんで――
「大好きなおにいちゃんを、あなたが殺してしまったおにいちゃんを、私が蘇らせたのよ? 感謝の言葉のひとつもあっていいんじゃないかしら? ねぇ、草薙環」
「……黙れ」
びちゃあっ、と。
血を蹴り散らし、環は臨戦態勢を整えた。
獣のように、舞沙めがけて跳びかかっていく。
「おにいちゃんを返せ! この、泥棒猫ぉ!」
死体を足蹴に、環は駆ける。
足を踏み出す度に、びちゃびちゃと血の音が響く。
その吶喊を、俺はただ見ていることしかできなかった。環の唐突な行動に、疑問を差し挟む余裕すらなかった。
環を止める言葉さえ、出てこない。
「無駄よ」
受ける側の舞沙は、反面、余裕綽々だった。
薄く微笑みながら、向かってくる環を待っている。自分には攻撃が効かない、そう確信している表情だった。
「少し【蟲】が見えるくらいじゃ、私には触れることさえ叶わな――」
「っ、しゃあっ!」
しかし、その確信は、裏切られることになる。
環が取った行動は、単なる吶喊ではなかった。
大きく口を開き、舞沙の肩口に噛みついたのだ。
ぶちぃっ、と嫌な音がして。
舞沙の左肩は、抉れたように喰い千切られていた。
「痛ぅ……っ⁉」
「まっずいなぁ。ちょっとは味に期待したのに」
苦虫を噛み潰したように顔を顰める環。
今、なにが起こった?
環が、舞沙を喰ったのか?
人間が、【蟲】である舞沙を?
「もう、ひと口!」
「っ……!」
がちぃっ、と環の歯が空を噛む音が響いた。
舞沙は身体を細かい【蟲】に変え、その場から移動していた。俺のすぐ横で、小さな白い粒たちが寄り集まり、瞬く間に舞沙の形が作られた。
それでも、噛み千切られた左肩は、痛々しい傷跡を残したままだ。
「嘘、でしょ……⁉ あの女、【蟲】を喰うことができるの? そんな人間、今まで聞いたことがない……!」
「うん、随分珍しい才能みたいだね、これ。あの女が言ってたよ」
まぁそんなこと、どうでもいいんだけどね。
吐き捨てると、環は再び、舞沙に向けて突進してきた。
血だらけの口が凶暴に光る。鋭い八重歯が口内から覗く。
今度こそ、舞沙を喰い殺すつもりだ。
舞沙もそれを察したのか、今度は環が辿り着く前に身体を【蟲】へと分解した。赤一色の教室において舞沙の白は目立つが、目に見えないほどの細かい粒子になってしまえば、さすがに攻撃を食らう道理もない。
【蟲】を喰うという、前代未聞の異能を相手にしても。
見えないものまでは喰いようがない。
環の吶喊は、だから空振りに終わった。びちゃあっ、と音を立てて前のめりに転がる。ただでさえ真っ赤だった服が、さらに血で濡れていき、元の模様がなんだったのかさえ分からなくなる。
「たま、き……」
「もうちょっと、もうちょっとだけ待っててね。おにいちゃん。さっさとあいつ、喰い殺しちゃうから」
「やめろ……やめろよ、環……なに、やってんだよ……!」
「もう少しの辛抱だからね。あいつさえいなくなれば、おにいちゃんはずっとわたしのものだよね」
ふらぁ、と幽鬼を思わせる頼りない足取りで、環は立ち上がる。
ぎろ、と環が周囲を睨んだ。
その瞬間、異変は起きた。
「っ――――が、はっ⁉」
「っ、環っ⁉」
腰を曲げ、環がぼたぼたと血を吐いたのだ。
赤黒い血が、足元の血と混ざっていく。
喀血は止まらない。慌てて俺は立ち上がり、環の元へと駆け寄っていった。
小さな背中を、懸命にさすってやる。
「だ、大丈夫か⁉ なんで、なにがあったんだよ⁉」
「当然の結果よ、鎖天」
姿は、なおも見えない。
だが、それは舞沙の声だった。凛と張り詰めたような声が、静かに耳朶を叩いた。
「【蟲】を喰うなんて能力、驚いたけど……生命力を喰う【蟲】を自ら体内に入れるなんて、自殺行為もいいところだわ。喰った【蟲】によって内臓がやられてる。自業自得ね」
「……うる、さい……!」
血が、口からこぼれ続ける。
舞沙の言う通りだ。こんなに血を吐くなんて、内臓がボロボロになっている証拠だ。【蟲】を喰うという規格外の異能。食物連鎖の関係図をまるごと壊すようなその蛮行に、しかし、なんのリスクもないなんてあり得ない。
こんなことを続けていたら、環は壊れてしまう。
そんなのは、嫌だ。
完全に死んだと思っていたんだ。諦めていたんだ。もう会えないと、覚悟していたんだ。
その全てが、小さなその身体を目にした瞬間、まとめて吹っ飛んだ。
どんな形でもいい。
生きていてほしい。
この娘だけは、どうしても――
「おにいちゃんを……呼び捨てにするなぁっ‼」
「っ、待て! 環!」
舞沙めがけて突っ込もうとする環を、俺は慌てて羽交い締めにした。
これ以上、舞沙に挑んじゃダメだ。
舞沙の側も、ダメージはゼロではない。現に喰い千切られた左肩は再生していない。
しかし、それ以上に重篤なのは環の方だ。
これ以上【蟲】を喰ったら、死んでしまう。
それだけは、止めないと。
兄として、義務として。
「放しておにいちゃん! あいつ殺せない!」
「っ、環……なんで、そんな……」
じたばたと暴れる環を、押さえつけるのがやっとだ。尋常じゃないくらいに力が強い。少しでも気を緩めれば、手を離してしまいそうだった。
なんで、そんなことを言うんだよ。
なんで、こんなことをしちまったんだよ。
なんで、なんで――
「はぁ疲れた。環ちゃん、こっちは終わったよ。賑やかだね、なにを騒いでいるんだい?」
極々自然な調子で、扉が開いた。
まるでここが、なにも起きていないいつも通りの学校みたいに。
現れたのは、ひとりの女性だった。
喪服を思わせる真っ黒なスーツ。ワイシャツやネクタイまで黒一色で固められ、傷んだ藍色の髪をより痛々しく見せている。
それは。
その人は。
「……霧雨、さん……?」
「おや、鎖天くんじゃないか。これはめでたいね、兄妹感動の再会だ。尤も、絵面はそれに似合わない酷いものだけど」
その人は――――探偵・霧雨愛菜だった。
なんで、なんでこの人が、こんなところにいる?
こんな、血みどろの地獄絵図に。
しかも、まるで環と知り合いみたいに。
この人は、俺たちに起こった事件について調べている、探偵じゃなかったのか――――?
「……なんで」
「おやぁ?」
なんで。
なんで。
なんで、ここにいる?
なんで、あんたが。
両手を血で真っ赤にして、この場所にいるんだ――――
「なんでここにいるのよ⁉
叫んだ舞沙が。
右手を巨大な【蟲】の塊に変えて、霧雨愛菜めがけて突進していった。