5 草薙鎖天は斯く口づけを交わす

文字数 2,541文字

「か……は……っ」

 埃臭い空気に混じって、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
 口が、喉が、酸素を求めて蠕動する。喘ぐように口を動かそうとすると、間髪入れずにそれを塞がれる。息苦しくてもがこうと、決して逃がしてはくれない。

 俺は、追い詰められていた。
 物理的に。
 壁際に。
 直立した姿勢で腕を壁に押しつけられ、両手両足を完全に封じられていた。

 そして、口を薄桃色の唇で塞がれる。
 抵抗しようと、足掻くだけ無駄だった。彼女は小柄な身体とは裏腹な力で、俺の動きを殺していた。振りほどけず、俺はただ為されるがままになっていた。
 微かに夕陽の差し込む薄暗闇の中、俺は舞沙と、獣のように唇を重ねていた。

「かはっ……ま、舞沙、ちょっと待――」
「暴れないで、鎖天。やりにくいわ」

 俺の胸元に浮かぶ舞沙は、淡々とした調子で言った。
 言葉が終わるやいなや、すぐさま口と口を重ねてくる。唇が一気に熱くなり、背筋にぞくぞくとした感覚が走り抜ける。
 毎日恒例の、【蟲】の補給。
 俺は、この日課が苦手だった。

「んんっ⁉」

 塞がれた口から、思わず声が漏れる。
 ちろちろと、舞沙の細い舌が口内を蠢き回るのだ。舌の付け根を、歯と歯茎の境目を、頬の裏側を、口内上部の柔らかい場所を。敏感な箇所を悉くなぞるように舌先でつついてくる。その度に、腰が跳ねる。感覚が口だけに留まらず、全身を舐め回されているように感じてしまう。
 柔らかな唇が、逆に俺を貪るように強く重ねられる。
 目を、開けていられない。涙さえこぼれそうな目を、俺は思わず瞑っていた。

 舞沙の舌先から、唾液のように【蟲】が滴り落ちてくる。
 次々に流し込まれるそれを、俺は必死になって飲み込んでいった。喉にへばりつく感覚を堪え、飲み下していく。どこか甘く、仄かに苦い。懸命に喉を動かす俺を弄ぶように、舞沙は舌を動かしてきた。

 どのくらい、唇を重ねていただろう。
 頭が沸騰したようにくらくらする。うっすらと開けた瞼の向こうは、チカチカ光ってよく見えない。
 ぷはぁ、と満足気な声を上げて。
 舞沙が、ようやく唇を離してくれた。
 終わった途端、脚から力が抜け、俺はその場にへたり込んだ。口の中に、甘い感覚の残滓が居座り、全身をぴくぴく震わせる。

「っふふ。今日も可愛かったわよ。鎖天」
「……っ、るっせぇ……」

 くすくすと小悪魔のように笑う舞沙に、俺はぶっきらぼうに応えた。

「っふふ。面白いわね。どうして【蟲】を補給するだけの行為なのに、こうも鎖天は可愛らしいのかしら。ついついいじめたくなっちゃうわ」
「てめぇ……口ん中で舌が動き回るのは、やっぱわざとか……」
「あんまり可愛いものだから、意地悪したくなっちゃうのよ。けど、嫌ではないでしょう?」
「そういう問題じゃねぇだろ……」

 ようやく、火照った身体が通常のリズムを取り戻す。ぴくぴく跳ねていたのも落ち着き、俺は大きく深呼吸した。

「キスは苦手なんだよ。口の中舐められると、背中が痺れる感覚がする。それがなんだか苦手でな。なんか……知らない感覚が、怖い感じなんだ」
「ふぅん、そうなの。へぇ……」
「嫌な笑顔浮かべてんじゃねぇ。ったく、嫌だって言ってんのに嬉々としてやってくるとか、妹そっくりだ」
「いもうと? あなた、いもうとともキスしたことがあるの?」
「あぁ。朝の日課でな。あいつ、口の中を舐めるなって言ってんのに、何回言っても聞きゃしなかった。寧ろ、俺の反応を楽しんでた節があるからな……」
「……普通、血の繋がったきょうだいと、キスはしないんじゃないかしら……」
「そうか? 俺たちは仲が良かったし、普通にしてたぞ?」
「……あなた、やっぱりしすこんじゃ」
「だから、それは違う」

 それだけは、声を大にして主張させてもらう。
 俺は、断じて、シスコンではない。

「シスコンっていうのはな、姉や妹に欲情するような下劣極まりない感性だ。姉妹なしではいられない、愛情とは似て非なる自己中心的な気持ちを向ける奴のことだ。俺は妹を愛してる。けれど、それはあくまで妹として、だ。異性としてじゃない。妹の幸せを一番に考える、兄としての愛情だ。シスコンなんて卑俗な輩と一緒にしないでくれ」
「……訂正するわ。あなたはしすこんじゃない」
「あぁそうだ。ようやく分かってくれたか。まったく、妹を思う兄心がなかなか理解されなくて、大変なんだよ」
「あなたは筋金入りのしすこんよ。普通のしすこんとは一線を画すわ」
「誤解が解けてない、だと……⁉」

 あんなに、あんなに熱弁を振るったというのに。
 舞沙の奴、まるで聞いてやがらねぇ。
 っていうかパワーアップしてやがる。なんだよ、筋金入りのシスコンって。普通のシスコンでさえ下衆の極みだというのに、その上を行くというのか、俺は。

「そういう訳で筋金入りのしすこんさん。私はいつも通り、【蟲】を探しに行ってくるわ」

 がっくりと肩を落とす俺を尻目に、舞沙は髪を掻き上げながら言った。
 純白の髪が、キラキラと流れ星のように輝く。薄暗闇には、その小さな光がよく映えた。

「夜までには戻ってくるから、それまでにあの女との面会は済ませておいてよ? 私、なるべくならあの女のことを視界にも入れたくないの。あなたと話しているってだけで不愉快だわ」
「はいはい、分かってるよ。ったく、どうにかなんねぇかな、笑夢に対するその態度」
「無理なものは無理よ。少しズレた例えだけど、蝶にカマキリを愛せと言っても無理でしょう?」
「……なるほど、そりゃ無理だ」

 人間の生命力を喰らう【蟲】にとって。
 喰えない人間は、そりゃ苦手ではあるだろう。
 俺が納得している隙に、舞沙はぽろぽろと身体を崩していき、やがてその場からいなくなった。小さな【蟲】となって、方々に散っていったのだろう。帰ってきて身体を再構成するまで、俺でも見つけることは難しい。
 壁を背もたれに、胡座を掻いて待つ。笑夢は今日、日直だと言っていた。ならきっと、日が暮れるまでここには現れないだろう。欠伸をしながら、のんびり待つことにした。
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