四十年を経て子孫が仇を討つ

文字数 2,000文字


 独り身の私の趣味は一人旅だ。これは重複表現でないと念じつつ、寒さ厳しい小さな平野を訪ねている。その公営温泉の朝湯で一緒になった人は、病院院長と思えぬほど気さくだ。博識で機知も有り、気づくと彼の話にのめりこんでいた。

「温泉で人の股間を踏みかけた者がいたそうです」

 湯煙のなか、彼はそんな話題を切りだした。
 この県の人口は約百八万人。一人一度ずつ鳴らしても除夜の鐘を一万回できる。

「湯船で斯様な粗相をしでかす人も百八万人に一人はいるでしょう。未遂なら笑って許すべきです」

 私は湯から半身を上げてそう答える。でも院長は肩まで浸かったまま声を潜める。

「正直に言いますと未遂でなく露骨に踏みました。……その犯人は私です。踏まれた老人が泡を吹き悶絶したので、前途ある医学生だった私は逃げました。時効なので、見ず知らずのあなたに告白しました」

 どうリアクションすべきだろうか。とりあえず気になることを尋ねる。

「『泡を吹く』の医学専門用語はなんですか?」
「『あわわわ』と、若い女性看護師は呼んでいます。当院だけの慣わしかもしれません」
「そうですか。……どんなシチュエーションで股間を踏まれたのですか?」
「その人は湯船に仰向けで浮かんでいました。この平野でたまに見かける風習です。……厳密にいうと、私は彼の一物(いちもつ)に足を引っかけました。おのれが湯に沈まぬように、私はあの老人の一物とお稲荷様を犠牲にしました」

 足をとられるとは、さど立派な一物だったのだろう。私の好奇心がさらに湧きあがる。

「その感触はいかがでしたか?」
「手触りでなく足裏触りですね。竿は樹氷のように冷たく鋭く溶けましたというのはジョークで、弾力がありコラーゲンのようでした。玉は巨大なサクランボのようであるはずなく、まさにグミの踏み心地でした。……私の土踏まずで、ぐにょりと動きました」

 院長の味ある語り口に長湯し過ぎた。そろそろ上がらないと、私も湯船に浮かぶことになる。なのに彼は話を続ける。

「この小さな平野の言い伝えで、温泉にふさわしくないものが三つあります。ひとつはチョコ、ひとつは猫です」

 なるほど。茶色い物体が溶けて湯船に付着していたら精神衛生上よろしくない。猫の毛玉が湯に浮かぶも然りだ。

「そして最後のひとつは官能小説です」

 それは納得できない。

「院長。いかなる書物も湿度高い温泉に向いていません。スマホやタブレットも同様です。つまり、あらゆる小説を浴場で読むのは推奨できません。官能小説だけを特別視すべきでない」

 語気を荒げてしまった。だが私はミスターフランス書院と呼ばれた日もある。あの麗しき書物たちを守るのは私だと自負している。

「私も男だから、あなたが怒るのを理解します。でも私は『R16.5推進協議会』のメンバーです」

 それは、R15以上18未満の絶妙な塩梅を世に広げるための秘密結社ではないか。センシティブすぎる団体だ。人の股間を踏んで逃げきれたのもそれ所以だろう。
 そうだとしても私も譲れない。

「Rが9だろうと30だろうと、エロ小説だけを度外視するのはいかがでしょう」
「……小話を披露すべきですね。まずはそれを聞いてください」

 彼は平然と語り始める。

 ***

『後輩と目覚まし時計』

「アラームが鳴るまで先輩に好きにされ放題。ひどすぎるルールっすよ」
「へへへ、ゲームに負けたのが悪いんだよ」
「本気なんて思わなかったから、僕は帰りま、うん」

 往生際の悪い宗隆の口を塞ぐ。あっという間に後輩の唇は俺の唾液にまみれ

「申し訳ないがBLは苦手です」
 話が佳境に入る前に中座させる。「そもそも今の話は、まさにあなたが言う、温泉にふさわしくない代物では?」

 院長はしたり顔でうなずく。

「私は医師の観察眼で、あなたの性的嗜好を即座に判断しました。あなたがこの話を拒絶して冷静さを取り戻すことを、セカンドオピニオンもジェネリックも必要なく分かっていました」
 薄く笑みを浮かべて続ける。
「もし私があなたの嗜好にマッチしたJKの百合を話し始めていたら、あなたの一物はどうなっていたでしょうか? 公衆浴場でですよ」

 語るなかれ聞くなかれ。
 私の股間はこの齢になっても、なおもひとつの人格を持っている。私の頼みなど聞かずに暴れだす。
 私は院長のさじ加減で恥をかくところだったのか。

「たしかに温泉で官能小説を読むべきではないですね。年月を重ねようと」
 私は頭を下げる。

「温泉を舞台にした熟女ものを寝床で読む。それでしたら問題ありませんよ」

 院長はそう言うと風呂から上がる。その足もとには、シャンプーの泡混じりの流し湯が広がっていた。

「あぶない」

 私の警告もむなしく彼は仰向けに転倒し、立派過ぎる一物がむき出しになった。
「あわわわ」と居合わせた地元の爺さんが慌てる。まさにそのとき、幼い兄弟がふりちんで駆けてきた。

「踏んだ踏んだー!」

 院長の悲鳴が浴場に反響した。
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