達人の教え

文字数 2,000文字



 梅雨の谷間。朝早くにバードウォッチングへ赴く。
 私は定年を迎えてからの素人だ。専門器具を揃えた先達の邪魔をせぬようにと心掛けている。というのも、私は静かな環境で集中すると放屁する癖があり、彼らの高感度の集音機に捉えられてしまうからだ。

『オオルリの囀りを録音できました』
『きれいに鳴いていますね。しかし、十七秒ごとに聞こえる放屁みたいな音は?』
『近くにいた男性の放屁です』

 そんな会話が聞こえてきそうなので、離れた穴場を探す。


 いくらでも放屁できる場所を見つけたが、鳥の声はカラスとドバトだけになってしまった。峠を越えて、どこぞの集落の山寺まで下りてしまったようだ。ツーリングのバイクが放屁よりうるさい。
 本堂の階段に腰かけて休もうとすると、中で男が一人座禅を組んでいた。

 白い道着と紺色の袴。初老の男からは達人の空気が漂う。

「あなたは達人でしょうか」
 失礼と思いながらも声をかけてしまう。
 男が目を開ける。

「そんな域にはまだまだ達していません」
 薄く笑みを浮かべて答える。
「明鏡止水という言葉がありますが、私はまだ暗鏡流水です」

 ……なるほど。心に邪念なき境地の対義語ならば疑心暗鬼を用いるべきだが、それをあえて斯様な造語を使うとは。
 すでに、この方は達人の域にいるのだろう。

「どうぞ、お入りください」
 男に誘われるままに、私は靴を脱ぐ。ひんやりとした心地よい空間。彼はポットからお茶を注いでくれた。

「お寺の方ですか?」
 紙コップを受けとりながら尋ねる。男は白髪を総髪にしており、僧侶には見えない。

「いいえ。勝手に使わせていただいています。それはそうと、武田節を知っていますか?」
「はい」上司の十八番だったので、月三回が二十五年。九百回は聞かされた。

「それを作詞した高名な僧が、こんな言葉を残しています。『心頭滅却すれば火もまた涼し』。私が目ざす境地は、『水もまた熱し』です」

 清らかな沢の水で火傷するのを求めるというのか。……もっと奥深い答えがあるはずだ。

「その心は?」
「まだそこまで達しておりません。それより三橋美智也さんは、こんな言葉を捧げました。疾きこと風のごとく。静かなること林のごとし――」

「すべて言わなくて結構です」
 部長の詩吟を思いだして胃もたれしてきた。
「風林火山ですね。志半ばで倒れた戦国武将の旗」

「ええ。軍は素早く隠密であり、そしてキラウエア火山のように激しく戦うべき。そう解釈されています。しかし私は、本当の趣旨を探り当てました」

 それは、山梨県民が愛してやまない四文字を否定することになる。達人であっても許される行為だろうか。……静寂だ。ご本尊であろう不動明王が二人を見おろしている。

「あなたは十七秒ごとに放屁する癖があるようですね。それはさておき風林火山本来の意味は、そのままです。すなわち、そよぐ風、緑の林、キャンプファイヤー、そして山盛りのカレーライス」

 静かな湖畔の森の影から、もう起きちゃ如何と郭公が鳴く……。
 マイムマイムマイムマイム、マイムベッサンソー……。
 青春を彩った名曲が脳裏に流れだした。

「まさしく林間学校ではないですか」

 この達人は中学校の国語教師だったのかもしれない。
 男は微笑みながら頷いたあとに。

「信玄公は、きつい行軍も楽しくやろうと、三橋さんの声を借りて足軽に伝えたかったのかもしれません」
 男はお茶をすする。



「興じ過ぎたようです。あなたを巻き込んでしまった」
 男がふいに厳しい顔で立ちあがる。

「何があるのですか?」
「本来なら隠すべきですが仕方ありません。私の正体は正義の味方です。今日ここで、悪の一味と果し合いの約束をしていました」

 唐突な話に十三秒しか経てないのに放屁してしまった。しかし、達人の立ち振る舞いを見れば嘘偽りでないことは分かる。この男は何十年に渡り、日本の平和を守ってきたのだろう。

「悪とは?」腰をあげながら聞く。

「六天魔王です。……やってきました」
 男が本堂から出る。

 第六天魔王……。仏の敵であり教えの敵であり、衆生を惑わす魔。そのような巨大なものと、ただ一人の男が戦うと言うのか。
 本尊の不動明王が括目した気がした。

 遠くでカッコウが鳴いている。近くでカラスとドバトが騒いでいる。
 石段を複数人が上る気配。

「待たせたな、熱血教師ライダーよ」
 悪の一味が中庭で横に並ぶ。

「悪の魔王。エビ天プラーだ」
「同じく、イカ天プラー推参」
「天ムスだぎゃー」
「カキ揚ゲンもいるわよ、ライダーさん」
「そして私が、旬の山菜盛り合わせだ」

 恐るべきことに、第六天魔王は現在においては天婦羅として具現されるのか?

「ちなみにアナゴ天プラーは公欠、ぐぎゃあああ!」

 六天のうち五天が瞬殺された。

「情けは味方、仇は敵。しかし戦いに情けは無用」

 達人が武田節の神髄を言い残し立ち去る。
 私は天婦羅づくしに胃もたれを感じながら、放屁を我慢して見送る。
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