#1 鈍感なカメラのユートピア
文字数 1,993文字
来るたびに緊張したのを、空港を出るなり思いだした。タクシーだ。
お願いだから飛ばさないで。急ブレーキをデフォにしないで。擦 るギリギリで先を争わないで。
出迎えてくれた二人は平気みたい。俺なんか手を握りしめているのに。目もつぶりたいのに。景色を写すどころでない。
「社長 の運転は怖いです。雨の夜に送ってもらい、悲鳴を上げてしまいました」
日本語ができる眼鏡女子である陳さんが、日本だったら『誰もが互いに高速あおり運転』と呼ばれる状況下で笑う。つまり来月の出張は、ビルのベンツで福建省視察巡り に参加するのか。この広州のタクシーがかわいく感じるかも。
助手席では典型的角刈り中国親父である工場長 (姓名ともに日本になさげな漢字。簡体字という意味でなくて)が運転手と話している。もちろん聞き取れない。運転手が片手ハンドルでカーナビであるスマホをいじりだす。前方の車と異常接近する。やめてくれ。
「いまはスマホでタクシーを呼びます。清算もアプリ内ですから安全ですよ」
陳さんが教えてくれるけど、外国人だけで乗るなら助手席で行先とぼったくりに目を光らせるしかない……市内に入ったぞ。轢く! 轢く! 歩行者は飛び出さないで! オート三輪は逆走しないで! 轢く……はやく降りたい。
降りて知る。車も急速にEV化が進んでいるではないか。心なし空気もきれい。でもエンジン音がしない。日本人 は歩道を走るバイクに何度も轢かれかける羽目になる。
そんな道風景に慣れたころ、ようやく明日は一旦帰国だ。現時点ではビザがないと渡航できないので、知り合いの工場に招聘状を書いてもらった。そのためか随分とお客様状態だったな。八時半から二十時半まで展示会と工場と市場巡りで拘束されたけど、悪くはない一週間だった。商材をたっぷり撮影できたし、もらい煙草ばかりだったし、来月はホテル代まで持ってくれるし。着用義務がなくなったのにマスクしている人だらけで、まんま東京みたいで笑えたし。俺は外国人だから地下鉄だろうと当然マスクなしだったし。
想定を外れたのは、旧交を温めるのに忙しかったこと。夜遅くなってからの久しぶりに会う方々との食事会。そしてまた記念撮影――まさにカメラ人間だったな。ともかく、日中は常に俺の横にいて通訳(兼、よその会社に浮気しないよう監視役)してくれた陳さんにも自称日本食をおごった夜もある。なのでKTVという『日本語できる女の子がいるお店』に行く機会がなかった。出発前から約束していたのに。
なので途中合流した日本人の友とともに、最後の夜である今夜向かうことにした。馴染みの女の子が働くお店は変わったけど、ホテルから近くなって猶更いい。お土産は、空港で買って半分飲んじゃった獺祭。
なのに喉が痛くなってきた。
「また来月会いましょう。またたくさん写真を撮ってください」
スマホを向ける俺へとピースサインして、陳さんは十六時の電車で帰郷した。俺は喉が火鍋でうがい状態。体もだるくてパブロンゴールドを飲み、キングサイズベッドで横になる。海外出張中はコンディション不良を精神力で跳ね返してきた。香港では酔って捻挫を、タイでは激甚な食あたりも経験している。これくらい余裕だと思う。でも夜のお店はキャンセルしよう。
『ひさしぶりから少しでも顔見せて』
そんなウイチャットの片言を読むと、『ちょっとだけ顔だすね。体温計貸して』などと返信してしまう。まだ中国に残る友人は辞退した。
開店の二十時に合わせてホテルを出る。道に迷って途中で迎えに来てもらう。舞ちゃんという源氏名の女の子は相変わらず元気。店自体は暇そう……。値上がりしているな。為替を暗算して、シャンパンでなくスパークリングワインを入れる。体温計は懐かしき水銀式の振る奴ですか。新旧入り混じった中国……38℃。
これくらいの熱ならば行動できるのが実証できたが、これ以上重くなったら明日帰国できないかも。入店してすぐに切り上げる。お代の値引き交渉は面倒だからしない。と思ったら、この店は法人でなく個人の登録だから、クレジットカード起源のアリペイが使えないではないか。もはやジャパニーズですら人民元など持ち歩かないので、交渉して一割増しなしでカード払いする。
「水いっぱい飲んでね。タクシーにします?」と聞かれるけど、歩いて十数分の距離だと運転手に喚 かれる恐れがある。舞ちゃんが途中まで送ってくれた。ツーショットを自撮りして別れるなり道を間違えてしまう。
静かな通りに公安派出所があった。暴動のあった地域ではないにしても、外国人が夜に一人でうろつくはよろしくない一角かも。撮影しながら歩いてなどいたら……。
火の粉を浴びなければ、この国は面白い。誰にとってもユートピアであるはずなくても。
寒!
深夜に悪寒で目覚める。鈍感な俺でも分かる。これはやばい風邪だ。ロキソニンを飲む。
お願いだから飛ばさないで。急ブレーキをデフォにしないで。
出迎えてくれた二人は平気みたい。俺なんか手を握りしめているのに。目もつぶりたいのに。景色を写すどころでない。
「
日本語ができる眼鏡女子である陳さんが、日本だったら『誰もが互いに高速あおり運転』と呼ばれる状況下で笑う。つまり来月の出張は、ビルのベンツで福建省
助手席では典型的角刈り中国親父である
「いまはスマホでタクシーを呼びます。清算もアプリ内ですから安全ですよ」
陳さんが教えてくれるけど、外国人だけで乗るなら助手席で行先とぼったくりに目を光らせるしかない……市内に入ったぞ。轢く! 轢く! 歩行者は飛び出さないで! オート三輪は逆走しないで! 轢く……はやく降りたい。
降りて知る。車も急速にEV化が進んでいるではないか。心なし空気もきれい。でもエンジン音がしない。
そんな道風景に慣れたころ、ようやく明日は一旦帰国だ。現時点ではビザがないと渡航できないので、知り合いの工場に招聘状を書いてもらった。そのためか随分とお客様状態だったな。八時半から二十時半まで展示会と工場と市場巡りで拘束されたけど、悪くはない一週間だった。商材をたっぷり撮影できたし、もらい煙草ばかりだったし、来月はホテル代まで持ってくれるし。着用義務がなくなったのにマスクしている人だらけで、まんま東京みたいで笑えたし。俺は外国人だから地下鉄だろうと当然マスクなしだったし。
想定を外れたのは、旧交を温めるのに忙しかったこと。夜遅くなってからの久しぶりに会う方々との食事会。そしてまた記念撮影――まさにカメラ人間だったな。ともかく、日中は常に俺の横にいて通訳(兼、よその会社に浮気しないよう監視役)してくれた陳さんにも自称日本食をおごった夜もある。なのでKTVという『日本語できる女の子がいるお店』に行く機会がなかった。出発前から約束していたのに。
なので途中合流した日本人の友とともに、最後の夜である今夜向かうことにした。馴染みの女の子が働くお店は変わったけど、ホテルから近くなって猶更いい。お土産は、空港で買って半分飲んじゃった獺祭。
なのに喉が痛くなってきた。
「また来月会いましょう。またたくさん写真を撮ってください」
スマホを向ける俺へとピースサインして、陳さんは十六時の電車で帰郷した。俺は喉が火鍋でうがい状態。体もだるくてパブロンゴールドを飲み、キングサイズベッドで横になる。海外出張中はコンディション不良を精神力で跳ね返してきた。香港では酔って捻挫を、タイでは激甚な食あたりも経験している。これくらい余裕だと思う。でも夜のお店はキャンセルしよう。
『ひさしぶりから少しでも顔見せて』
そんなウイチャットの片言を読むと、『ちょっとだけ顔だすね。体温計貸して』などと返信してしまう。まだ中国に残る友人は辞退した。
開店の二十時に合わせてホテルを出る。道に迷って途中で迎えに来てもらう。舞ちゃんという源氏名の女の子は相変わらず元気。店自体は暇そう……。値上がりしているな。為替を暗算して、シャンパンでなくスパークリングワインを入れる。体温計は懐かしき水銀式の振る奴ですか。新旧入り混じった中国……38℃。
これくらいの熱ならば行動できるのが実証できたが、これ以上重くなったら明日帰国できないかも。入店してすぐに切り上げる。お代の値引き交渉は面倒だからしない。と思ったら、この店は法人でなく個人の登録だから、クレジットカード起源のアリペイが使えないではないか。もはやジャパニーズですら人民元など持ち歩かないので、交渉して一割増しなしでカード払いする。
「水いっぱい飲んでね。タクシーにします?」と聞かれるけど、歩いて十数分の距離だと運転手に
静かな通りに公安派出所があった。暴動のあった地域ではないにしても、外国人が夜に一人でうろつくはよろしくない一角かも。撮影しながら歩いてなどいたら……。
火の粉を浴びなければ、この国は面白い。誰にとってもユートピアであるはずなくても。
寒!
深夜に悪寒で目覚める。鈍感な俺でも分かる。これはやばい風邪だ。ロキソニンを飲む。