如帰隧道

文字数 2,000文字


「憑かれているよ」
 胡散臭くてコロン臭くて成金臭いおばさんが、僕たちが座るなり断言した。「よくない場所をよくない時間に訪れたね。連れてきちまった」
「今もいるのですか」
 蛍光灯が白く照らす無機質な一室で、妻がテーブルの向こうへ尋ねる。
「かわいい娘がね。やけに気にいられている」
 豹柄ブラウスで髪を紫に染めたおばさんは、僕の背後を見ながら答える。
「除霊してください」僕は手を合わせて懇願する。
 二週間前に妻と心霊スポットを予期せず訪れてから、泣き声、ラップ音、金縛り、ドアを叩く音、停電、風呂場に長い髪の毛、トイレの水が赤い、よその赤ん坊が凝視する、犬に吠えられる、猫が背中の毛を立たせる、行きずりの修行僧に手を合わせられるなどが日常になってしまった。
 心の強い妻でさえ寝不足になり、知り合いの知り合いの伝手(つて)で、駅から十分の雑居ビルを尋ねることにした。そこの主である五十歳過ぎのおばさん霊能者が、僕たちの容貌を上から下まで舐めるように見る。
「二百万円先払いだ。トラブルはご免だから事前に言っておくが、成功しようがしまいが返さない」
 悪霊祓いの相場は知らないけど、口をあんぐり開けてしまう。
「ディスカウントしてください。人助けだと思いきり」
 妻が頭を下げる。
「人助けだからこの金額だ」
 おばさんがむっつりした声をだす。「いつ失敗して私が憑りつかれるか知らない。呪われて惨めに死ぬかもしれない。生きているうちに現世利益を楽しまさせてもらうのが筋だ。そのための二百万だ。危険手当としては安すぎる」
 霊能者は怒りだしてしまった。微妙に重複表現や意味の取り違えがあったけど、僕は指摘しない。
「そこをなんとか!」代わりに妻が人差し指を立てる。「十万円でなにとぞ」
「とっとと帰れ。頭から血を流した二十歳前後の娘を置いていくなよ」
 おばさんが奥へ引っ込む。二度と顔をだしてくれなかった。

「十万円はないと思う」
 駅ビルのカフェで僕が言う。人がいない場所と暗い場所に行きたくない。
「でも私たちの稼ぎだとそれも厳しいし。交渉して三十万ぐらいになったら、親に金借りて除霊の壺を買えたのにな」
「あの人は、そんなものを売っているの?」
「いかがわしい顔だよ、そうに決まっている。石のブレスレットとかも――」
「す、すみません」と店員の女の子が蒼い顔で来た。「信じてもらえないでしょうけど、わ、私はちょっと霊感があって、

のだとたまに見えるというか……帰ってください。お願いします」
 女の子は泣きだしてしまった。
「決めた。自力で除霊する」妻が立ち上がる。
「思いつきはやめよう」僕は背中に張り付いているらしき霊を気にしながら言う。
 でも妻は聞いていない。
「今からあの旧道に行く。そんでこいつを置いて帰る」
 僕の背後へと挑戦的に指をさす。急に冷房を強く感じてぞくっとしてしまう。


 憑りつかれたのは僕らしいのに、妻は一人でも行くと言う。彼女の運転こそ心配だし、僕はまったく気が乗らぬまま白い軽自動車を走らせる。血まみれの女性をお持ち帰りした場所とほぼ確定しているトンネルへ再び向かう。
「まさに今日解除されたって。ラッキーだね」
 助手席の妻がスマホの情報を教えてくれる。「もしかしたら霊も通行止めで帰れなかったかも」
 妻は自分のジョークに笑うけどそうであって欲しい。
 あの豪雨の夜は通れなかった反対側の道を登る。相変わらずすれ違い困難な山道。陽は翳っていく。霧が漂いだす。そして聞こえる。

ううう……

「動画サイトのお経じゃないよね」
「部屋で泣くのと同じ声だよ。……帰ってきて嬉しいの?」

そんなはずねーだろ!

 みたいに車が大きく揺れる。
「引き返そう」
「霊が大喜びした。もうすぐトンネルだからだ」
 今度はハンドルを取られるほどに揺れて、妻も黙りこむ。前回切り返した地点にたどり着く。はやくも真っ暗だ。Uターンしようとしたら首を絞められる。
「も、戻るのも駄目ですか?」
 見えない血まみれの女性に聞く。呼吸が楽になる。中南米のギャングほどに荒っぽい意思表示だ。
 白い軽自動車はトンネルに入る。同時に。

どん、どん、どん、どん

 フロントガラスが手形だらけになる。僕たちは悲鳴もあげられない。運転席の窓から誰かが覗いている気配がするけど、気づかない振りを続けよう――前方に灯りがふたつ現れた。速度を緩めずに突っこんでくる。逃げ場なし。妻が絶叫する。僕はブレーキをかけて目をつむる。正面衝突の衝撃が……?
「車が消えた」妻がつぶやく。


 下り道は平和だった。鹿が道に現れたぐらいで超常現象らしきはなかった。
「霊仲間が迎えにきたのかも。またみんなと一緒に人を驚かせて楽しく過ごすんだよ」
 妻が適当を言うけど、車はツッコミで揺れたりしなかった。……悩まされた肩こりが消えている。確信できる。霊はもういない。

お帰りなさい。遅かったね

 部屋に戻ると女性の声が迎えてくれた。
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