四つめの柱
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夕暮れ時に釣り堀へ向かう。この都会のオアシスは夜まで営業しており、まだまだ賑わっていた。私は落ち着けそうなスペースを探す。
初老の男の両脇が空いていた。その帽子の上には見事な蚊柱が立っている。
マグロを頭上に立たせたほどの存在感。黒い噴煙にも見えるが、物静かでもある。
『存在を誇示したくないのに目立ってしまうのです』
微細な虫たちの声が聞こえてきそうだ。
私は周囲の人を眺める。ついで自分の上空も見る。男の頭上以外に黒い靄は漂わない。外堀のユスリカすべてが彼のもとに集まったかのような、虫たちが築いたオベリスク。
私の視線に気づき、男が振り向く。
「これは私のフェロモンの仕業です。子供の頃から、守備をしていると彼らはやってきました。打席でも塁上でも同様でした。あの頃と同じく気味悪がれ、夏場の私には誰も近寄りません」
彼は野球少年だったのか。というよりユスリカを寄せ集める物質を発するというのか。
私は好奇心のまま、彼の隣に座る。
「冬場はどうなのですか? 屋内では?」
失礼と思いながらも質問してしまう。
「夏のこの時間限定です。家にいても窓を開ければ私のもとに集結します。慣れ親しんでいるので殺虫剤は使いません。……私を知っている人には風物詩です」
たしかに都会の夏の夕べに揺らぐ柱は幻想的にも見える。まるで。
「真夏の黒いオーロラ」
私の呟きに、男がほほ笑む。年相応の疲れた笑み。
「その例えを聞くのは久しぶりです。結婚前の妻以来です」
私は想いを膨らます。二人はユスリカたちのおかげで結ばれたのかもしれない。この小さな虫たちは、夕陽に抱き合う若い男女の上でハートマークを揺らしたのかもしれない。
「ちょっとした人生訓を披露してよろしいですか?」
男が餌を付け替えながら言う。
「是非に」鯉よりも彼に興味が湧いてきた。
「人生には三つの柱があります。一つめは茶柱。ささやかな幸せです」
彼の声から、湯飲み茶碗の温もりを感じた。香ばしい白い湯気さえも。
「二つめはこの蚊柱です」
彼は頭上へ指をさす。
「夕闇に浮かぶ幻を追う。はかなき夢とでも言いましょうか」
彼が突きだした人差し指に小さな蚊柱が立つ。
「トワイライトカーニバルですね」
私の言葉に彼も小さく笑う。黄昏が都会の釣り堀を包んでいく。
「三つめは人柱です」
水面を見つめたままで言う。
「おのれを犠牲。お陰様で城が建ったと喜ばれ、三日で忘れられる」
男の半生がうっすらと見えた。
その声はおだやかなままだが、彼の妻子、上司の顔さえ脳裏に浮かぶのはなぜだろう。けれども。
「茶柱、蚊柱、人柱ですか……。ありがとうございます」
その三本柱は、私の人生そのものでもあった。
「あなたにとって釣りとは?」
そんな質問をしてしまう。
「それは、四つめの柱のためです」
それも奥深い言葉なのだろう。でも男は、もはや釣り糸の先を静かに見るだけだ。更に問いたいのを我慢して、私も釣りに専念する。
男のウキが激しく沈んだ。水中へと身体を持っていかれそうになり、必死に耐える。
「大物ですね。手伝いましょうか?」
鯉ではない。カンパチ……それ以上かも。しかしなぜに釣り堀に?
「危険ですから近寄らないでください」
男が釣り糸を手繰る。それはゴーヤの蔓ほど太さがあった。自前の竿もゴーヤほど極太なのに気付く。
この男は釣り堀の主を狙っていたのか? ほかの釣り客も大魚と戦う彼を見つめている。総武線さえも停車して、乗客が窓から眺める。見えぬ敵と激しく格闘する男に、ユスリカたちが従順に付き従う。
やがて獲物が抵抗をやめる。男はゆっくりと引き寄せる。水面に青色の鱗が輝くのが見えた……。違う。これはヘルメット?
「四つめの柱をお見せしましょう。戸柱です」
男が一気に引き上げる。キャッチャーマスクをつけた顔が現れた。ついでマリンブルーの縦縞のユニフォームが。
戸柱と呼ばれた体格の良い男は、手助けされて通路に上がる。
「俺は戻れたのか? ここはどこだ?」
ずぶ濡れの戸柱がマスクを外して見渡す。
「あなたは異世界から生還しました。ここは横浜ではありませんが、幸いにも今夜の試合はドームです。今からでも間に合います」
蚊柱の男がバットとミットを渡す。
「ユスリカたちよ、彼を導きなさい!」
蚊柱の半分が、戸柱の頭上へと移る。水道橋方面へと大きな矢印をかたどる。
「感謝する!」
戸柱がマスクをかぶり走りだす。
「彼こそが大黒柱。これであのチームも復活するでしょう」
男は感慨にふけることなく釣り堀を後にする。
「あなたは何者ですか?」
追いかけてしまう。若者に人気の異世界転移に立ち合えた興奮を抑えきれない。
男が改札前で振り返る。
「長年勤めた会社が昨年倒産しました。それを機に転生師を始めました。通り名は、『夏の幻』」
夏の幻が、蚊柱を引き連れて市ヶ谷駅の喧騒に消える。ドームからの歓声が聞こえた気がした。