溺愛鰯
文字数 2,993文字
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「鰯が溺れるほどに愛しあおう」
熱帯夜が遠ざかった金曜の宵、食器を洗う僕へと妻が提案した。
「え? いいけど」
僕はちょっとドキドキしてしまう。
「君は勘違いしている。肉体でなく精神的に愛しあいたいの」
「そうなんだ。……なんで鰯?」
「溺れるも鰯も右サイドが弱いから。――酒に溺れたり推しに溺れるは、格好いいけどやっぱし直情的。雑魚ぽい」
「うん、なんにしろ適量は必要」僕は基本彼女の肯定派だ。
「だけど愛に溺れるはロマンスさえ感じる」
「溺愛だ。なんであれ度を超すことも必要」
「そう。寵愛よりさらに激しく盲目に愛する」
たしかに格好いいかも。僕はエプロンを脱いで振り返る。
「それは僕が君に? 君が僕に?」
「そりゃもちろん君が私への愛に溺れるに決まっている。それと脱ぐついでにエプロンで手を拭いたね。今後はやめよう」
初めて会ってから八年経とうが、いまだ僕は彼女が大好きだ。疲れさせる性格だけど、それを凌駕するほどにはかわいい。……控え目な僕の自己主張こそ鰯の右サイドだと思う。それでも妻を人並み以上に愛してきた――
表にはださなくとも、結婚前と変わらず好き好き好きの嵐だ。
「なんだかしみじみにやにやした顔だよ」
妻に観察されていた。「で、愛しあうの? あわないの?」
『従うか死か』みたいな口振り……。これはまたしても妻の思いつきの試練だったのか。二人の仲に刺激を与えるって奴だ。僕には不要だけど、妻には必要な奴だ。
「僕からだけだと一方通行だよ。愛しあうにならない」
「受け身だって愛でしょ!」
言われると確かに。
なんであれ次の段階へ悪化させてはいけない。そのためには試練をクリアしろ。
「じゃあ週末は君を溺愛すればいいんだね?」
「明日からね。今夜は鬱陶しいからやめて」
そう言って、妻はスマホを弄りだす。
僕は鰯が溺れるほどの愛について考える。……僕が魚類だったら鰯かななんて卑下しないけど、鮪や鮫では間違ってもない。妻は……きれいでかわいい熱帯魚かな? 水槽を優雅に泳ぐ妻……。
こんな発想できる僕は彼女への溺愛に自信ある。鰯どころか鯖や鯛が溺れるほどに愛してやろう。
土曜日の朝。妻より早く起きるはいつものことだ。
「朝食はベッドで食べる?」
微笑みかける。フルーツとミルクとブレッドのシンプルモーニング。
「それよりも、おはようのキスは?」
寝起きの悪い妻が不機嫌な顔を向ける。たしかに溺愛の初歩の初歩だった。
チュッ
「で、朝食はベッドで――」
「発想が貧弱。それだとメダカも溺れない」
妻が布団をかぶり、二度寝する。
「おやすみ」溺愛夫は受容する。どうせ予定もないし。
「ベタ」
九十分後にトイレと歯磨きを済ました妻が言う。
「僕の愛し方が? でも王道こそが愛だよ」
「違う。
妻はいまだ不機嫌だが、たしかに妻はきれいで激しいベタかも。などとのろける僕。
「僕を魚に例えると何かな?」
「海亀。ご飯より先に散歩しよ。腕組んで」
こ、これは……知らぬ間に彼女は次なる段階の『言いがかりモード』に突入していた。鬱憤が溜まり一年に一度は発生する奴だ。結婚前から存在を確認していたから、今さら恐れない。でも悪化させてはいけない。この後の妻は3パターンある。機嫌戻していつもの陽キャになるか、泣くほどに僕へ当たり散らすか、『故郷に帰る』と鬱になるかのどれかだ。後者の二個が複合したこともあった。
もちろんいつもの元気に軟着陸させたいけど……溺愛、鰯……。
「散歩しよ。腕組んで」低いトーンで言いなおす妻。
「うん。でも最初は手をつなごう」
「お、いいねえ」
午前十時過ぎの十月に上着は不要だ。妻の手は今日も温かいし。僕たちは並んでアパートの狭い階段を降りる。
「私を魚に例えると?」
「ベ」タと言いかけてしまう。「それより海亀は魚でないよ」
「だって君に当てはまる魚なんていないよ。生臭くないし……強いて言えば鰯かな」
「ひどくね?」
「でも鰯は鬼より強い」
「節分ネタだ」
「で、私は何?」
「エンゼルフィッシュ」
「気にいった。じゃあ腕を組もう」
狭い道に車が来たので、二人は並んで端に寄る。もちろん妻が内側。白線の内側の内側。
仕事の愚痴、上司と同僚の悪口。妻のいつものを聞きながら近くの公園を一周する。恋人同士だろうと腕を組むのは恥ずかしかった。妻は平気だった。いつしか僕も慣れたけど、この公園の名物になっていないよな。
ベンチで休憩。僕はすぐそこのコンビニへコーヒーを買いにいく。……溺愛とは溺れるほどに愛するだけど、溺れさせるほどに愛するのもありかも。ラテン系でない僕には無理だけど。
戻ると妻はいなかった。
『溺れ足りないからムカついて帰った』
ドアホン越しに妻が告げる。鍵は彼女しか持って出なかった。
「コーヒーが冷めるから入れてよ」
『私たちのが先に冷めそう』
ベンチで一人ぼっちがいけなかったらしい。どこに罠が潜んでいるか分かったものじゃない……思いついた。
「これじゃあ岩戸どころか天の鰯だよ」
『うまい』
天照らす妻の機嫌は戻ってドアが開く。「コーヒー温めなおそう」
服を脱がずにベッドで寄り添いあう。僕は文庫本を読み、妻はスマホを弄っている。……今回の言いがかりモードは平和裏に終わるかも。なんて思ったのに。
「やっぱり会社辞める。そんで家に帰りたい」
妻が言いだした。
「帰る家はここだよ」
「ベタなセリフ」
「……帰る水槽はここだよ。鰯とベタが」
「ベタ?」
「エンゼルフィッシュだった」
「だったら溺れろ」
「君に?」
「やっぱ帰る」
「分かった。溺れよう」妻に抱きつく。
「やめろ。一人にして」
縄抜けの達人みたいに抱擁をかわし、布団をかぶってしまった。
僕はベッドから降りる。
「水族館に行こうか?」
乗ってきたら儲けぐらいに提案してみる。「それかペットショップ。魚を飼ったりして」
「鰯?」布団の中から声が返ってきた。「鰯を飼うの? 買うの?」
いい兆候かも。一週間続くはずのどんよりを兆しだけで終わらせられるかも。
「飼いたいか食べたいで決まる」
君は鰯を飼いたい? 食べたい?
君は布団から顔を覗かせる。
「飼えないよ。海水プールが必要。しかも野良猫や野良ペンギン、野良サワラに端から食べられる」
そう言って君はまたもぐる。
「じゃあ熱帯魚は?」
「一人で食べて」
「二人で食べる」
「熱帯魚を?」
「……鰯にしようか?」
土曜日の静かな正午前。
「飼わないし買わない」
妻の声がくぐもって、でもはっきりと聞こえた。「釣りにいこう」
布団が吹っ飛んだ!
「買わないし飼わない。あいつもあのハゲも端から釣って食ってやる」
妻が跳ねるように起きあがる。
げげっ、僕も彼女も釣りは素人だ。竿も糸も針もない。でも拒絶してはいけない。機嫌を戻してもらうため思いつきに従え。おそらく鰯は海にいる。
「房総方面で貸し竿の看板を何度か見た覚えがある」
「じゃあ車だね」
やったぜ、今日の二人は即座に起動しなおした。
どうせ妻はメイクもしないから、僕らは十分後には駐車場に向かうだろう。そして半分弱いわがままエンゼルフィッシュへ溺れるために、半分鰯の海亀が白い軽自動車を走らせる。
ドアの鍵を閉めた妻が振り向き僕を見上げる。
「溺れているのはベタだったりして」
笑いながら腕を組んでくる。秋深まる前の正午。