風の草原地帯 ⑧

文字数 1,730文字

 部下達の反対を押し切って、九九は一人風車小屋の建ち並ぶ一帯から離れていった。まるでまだ誰にも踏みつけられていない手つかずの草原。ここは0境国未開拓の地に思えた。
 爽やかな秋風はもうすぐ乾いた冷たい空気に変わる。大地は雪に覆われ、生命の立ち入りを禁ずるかのような静寂の時が訪れる。時間の経過を教えてくれるのは空の移ろい。深い鉄紺色に変わり星々が煌めく頃、ヨザクラの飛翔が華やかに彩る・・・・・
「ヨザクラは自由でいいな」
 九九の頭の中は0境国が織り成す冬の美しさから現実に引き戻された。緩やかな丘へさしかかると、部分的に掘り返したかのような土山が視界を塞いだ。しかしどうやら掘り返されたのではなくどこか遠くから運ばれた土のようで、九九の背丈よりずっと高く盛られている。人の手が入ったものであることを強く感じさせる景観には興ざめだった。
 丘を越えた向こうからは都が一望できるはず。ただそこへ行くには・・・
「こんなところで寝転んでどうしたんです?」
 土の塊にはさびついたのこぎりの刃や、工業用に使われる金属の部品が突き刺さっていた。おそらく新しい風車小屋を建てるにあたり出た廃棄物だと九九は思った。そんな土とガラクタの山の上に、ファイアノイドが仰向けに横たわっていた。
 長い沈黙。ファイアノイドは呼吸をしているが動こうとしない。
「我々が勝ちますよ」
 返事はない。
 九九は煩わしそうに土山を登り始めた。小さな山の天辺目指して、時々足が土の中に埋もれそうになりながら。横になるファイアノイドまで到達すると、彼の腹の上に馬乗りになって腰を降ろした。ファイアノイドは苦しそうに息をしている。白く、深い皺の刻まれた老戦士の顔。
 夕刻が近づいている。時間を勘違いしたヨザクラが一羽、ふらふらと舞うように飛んできた。
「珍しい飛び方だな。餌を探してるのか?あんたにはもう見えないだろうが」
「九九よ、見えていないのはお前の方ではないか」
「なんだって?」



 国境警備隊が勝ったと思った。夢にも思わなかった勝利が目の前にあると。しかし九九は今この瞬間に、自分には晴れやかな未来も仲間と分かち合う勝利の喜びも訪れはしないとわかった。
 脇腹を貫かれた。ファイアノイドの下、土山に隠れた杏那の、剣を握りしめた左手。そして涙と土に汚れた苦しそうに歯をくいしばる顔が見えた。九九はファイアノイドの上に崩れ、土山から転げ落ちた。

 杏那はファイアノイドの下から這い出た。彼の頭を膝の上に乗せ、乱れた白髪と顔をなでる。虚ろな目は杏那ではなく、ずっと上の高い空を見ている。子供のように顔をくしゃくしゃにして杏那は泣いた。もう、彼はファイアノイドではなく、死を覚悟した老骨の兵だった。
「杏那・・・泣くなよ・・・お前は強くなった・・・自慢の娘だ」
 ファイアノイドはかすれた声を絞り出した。
「ファイアノイド・・・ファイアノイド・・・!」

 杏那はとても長い時間、土山の上で泣いていた。腕の中の父は遠くへと旅立っていった。杏那にとって大事なことは、勝つことでも、犀座騎兵団を守ることでもなかった。ファイアノイドという大きな柱がいてくれれば犀座がいなくてもいい。彼がもし0境国を出ると言ったなら、共にそうしただろう。ファイアノイドが誰よりもどんなことよりも大事だからついてきたのだ。自分を頼りにしてくれた、唯一の人。
 ファイアノイドと過ごした日々がよみがえる。杏那だからこそ歩めた道のりが、そこにはあった。



 風の草原地帯、その一角の小高い丘からは0境国の都が見晴らせた。大の字になって仰向けに横たわる九九の目に、曇り空と水彩画で描いたような街が映った。伸ばした左手を広げると、かわいらしい街が自分の掌の上にのっているようだ。九九はその手をグッと握りしめた。痛みと悔しさで顔が歪む。戦闘犀座のいない0境国・・・届かなかった思いと共に、街ごと握り潰した。これから0境国はどうなるだろう?ファイアノイドはここで死ぬのか?紫々の思惑通りになったのか?
 街は遠く、だんだん虚ろに。吐いた血の色さえはっきりしなくなった。微風の顔を思い浮かべたあと、九九は目を閉じた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み