朝来 6月21日(朝)

文字数 3,968文字

 冷たい朝の空気を感じて目が覚めた。アカガラの背を枕がわりに突っ伏して、いつの間にか眠っていた。起き上がってトレンチコートにくるまるように丸太に座り直す。まだ眠っているアカガラの微かないびきと、食べ物を探す小鳥の、落ち葉の中をカサカサとうごめく音だけが聞こえた。
「今日は二十一日、港から定期船が出るのは明日。私は騎兵団の基地にあなた達を送り届けられないから、ここでお別れなのよ」
 アカガラは目を覚まし、大きなあくびをした。犀座は人の言葉を理解しているわけではない。意思を伝えるには手振りによるサインか、手綱の動きが必要だった。突き放したくはない朝来だったが、基地へと戻るよう指示を出さなければならなかった。
「イブスキ?」
 イブスキがいない。どこかで草を食んでいるのかと朝来は周辺を探した。
「イブスキ!」
 声に驚いた小鳥が飛んでいった。どこにも見当たらない。経験上自分がいれば犀座は遠くには行かないと思っていた。
「アカガラ、イブスキがどこに行ったか知らない?」
 アカガラは枝の葉を噛みちぎっていた。朝来の声にわずかに反応したが、またすぐに空腹を満たすことに集中した。
 基地に戻ったのだろうか?自分がいれば遠くには行かない、それは甘い考えだ。好奇心の強いイブスキは単独でどこまでも行ってしまいそうだった。考えながら朝来は山道の方に出た。朝を迎えた都の輪郭は雲がかかってかすんで見えた。
 道の先、山道から離れた木々が立ち並ぶ方角に気配を感じた。

 左前足から血を流したイブスキが朝来の方へ来ようとしていた。怪我をした足を引きずりながら、やっとの思いでここまでたどり着いたようだった。
「イブスキ!」
 朝来は山道を駆け上がり、イブスキの傍らにひざまづいた。呼吸は浅く、血の気が引いたように冷たい肌。虚ろな目は恐怖にとらわれていた。木の根っこに足を引っ掛けて倒れたとか、たまたまあった鋭利なものが食い込んだというような偶発的な怪我ではない。何者かに攻撃されたのだと朝来は悟った。
 怪我の部分をよく見ると、矢をかすめたような切り傷が身受けられた。傷そのものは深くはないが出血がひどく、イブスキは立っているのがやっとで今にもくずおれそうだった。
 朝来は大木の根がはったところの窪みにゆっくりとイブスキを誘導した。怪我をした左前足を上にして寝かせ、すぐに止血するための道具を取りに旅行鞄を置いた原っぱへと戻った。
 ただ事ではないと感じたアカガラが不安げにこちらを見ている。しかしその不安は朝来の様子から感じ取っただけでなく、他の何かに敏感に反応しているようだった。朝来がそばに行くとアカガラの桃色の肌は小刻みにふるえていた。不穏な空気が辺りを包んでいることに気づいているのだ。
 朝来は旅行鞄を抱えた。アカガラをおいていくのは心配だった。自分についてくるよう示すと、もたもたとした足取りでアカガラは歩き出した。一緒にイブスキのもとへ戻ると、姉の鮮血を見たアカガラはパニックに陥りかけた。
「大丈夫だから」
 朝来はアカガラをなだめようと、首のひだの部分を優しくなでた。落ち着きを取り戻したアカガラはイブスキのそばに寄り添い、朝来の行う処置を見守った。
 犀座用の薬は持っていないため、人が怪我をした時に使う消毒液を吹きかけ、傷薬を塗って常緑樹の葉を貼りつける。包帯の代わりに着替えの服を破いて丈を伸ばし、傷口を覆うように左前足に巻きつけた。
「かわいそうに。犀座用の薬がいるわ。都に行って買ってこなきゃ」
 明日の定期船には乗れないかもしれない。そんな思いがすでによぎっていた。多分、二頭の犀座をおいていこうと思えばできる。ある程度の応急処置をすれば死に至ることはない。二頭がいないことに気づいた騎兵団の訓練士達が探しにもやってくるだろう。けれども朝来にはわかっていた。自分はそうはしないことを。結局見捨てることなどできない。イブスキが回復するまで、そばについていてやりたいという思いが勝るのだ。それに、イブスキをこんな目にあわせた何者かを許せなかった。

「久しぶりだな朝来。まあ来ないってことは仕事が順調なんだろうと思っていたが」
 四角い大きな眼鏡が重みでいつもずり落ちている薬屋の店主とは、朝来が訓練士になりたての頃から顔馴染みだった。以前は仕事で使う犀座用の薬をよく買いに来ていたが、騎兵団に入ってからは後輩訓練士達がその役目を担っていたため、最近はめっきり来ることがなくなっていた。
「本当久しぶりね。私は指示出しだけで薬の買い出しは他の子が行ってくれていたから。おじさん痩せたんじゃない?」
「年々食が細くなってきてるからな。しかしそれを言うならお前さんもだ。騎兵団での仕事はどうだ?」
「まあまあよ。やることは変わらないもの」
 嘘をついた。犀座運送で働いていた頃と騎兵団入団後では、仕事内容だけでなく犀座に対する向き合い方がまるで変わったというのに。
「そうは言っても頑張りすぎて疲れが出てるんじゃないか?久々会って犀座訓練の最前線で働くお前さんに言うことじゃないが、戦闘犀座なんぞこの国に必要かね?」
 店主の言葉は自分を心配してのことだと朝来にはわかっていた。そう、まさに朝来本人が同じことを思うからこそ騎兵団を抜け出した。しかし今がそのただ中だと言うわけにはいかなかった。
「確かに前の方が気楽ではあったかも。自分一人で進められたしね。今は何人も訓練士がいるでしょう?戦闘犀座の育成も皆初めてだし、何事も相談しながらって感じで・・・でももうだいぶ慣れたわ。雇い主は基本的に犀座の育成は私達に任せっきりで余計な口出ししてこないから、そこは今の方がましかな」
 これは本当だった。犀座運送時代は口うるさい雇い主が犀座の育成法にやたらと介入してきていた。それに比べてファイアノイドは報告はこと細かく求めるものの、それ以外何も言ってはこなかった。
「ところで今日は傷薬を買いにきたの。あと包帯も」
 戦闘犀座の話をあからさまに避けようとしている。朝来はそう思った。
「いつものヨモギの軟膏でいいかね?お仲間が買いに来る時はこれに決まっているようだが」
「ええ。それでお願い」
 ヨモギの軟膏は犀座が怪我をした時に使う定番の塗り薬だった。
「ちと重いが・・・」
 見慣れたバケツが出てきた。
「あ、ごめんなさい。特大サイズにしてほしいの。いつもはこっちだと思うけど」
「特大サイズ?もちろんいいが、持てるかい?」
「ええ、大丈夫よ」
 店主はカウンターの後ろの戸棚から先程のものより倍ほど大きいバケツを出した。よっこらしょと言いながらカウンターの上に置くと、ずり落ちていた眼鏡をかけ直した。
「ありがとう」
 包帯と一緒に支払いを済ませ、朝来は店をあとにした。店主と久々に会えたのは嬉しかったが、これ以上話を引き伸ばすのはつらかった。何も告げずにもう会うことがなくなるなんてことは、今まで良くしてもらった相手にすることではない。後ろめたさを感じながらも朝来は振り返ることなく重いバケツを抱えながら歩いていった。
 しかし数分と歩かないうち、朝来は後悔した。軟膏のバケツがあまりに重くなってきたのだ。普通サイズの方は二週間ほどで使いきってしまうことを知っていたため、毎日使うとなると特大が無難だった。そう深くないとはいえ、あの傷は二週間では完治しそうにない気がした。
 途中荷台を引く一頭の犀座とすれ違った。犀座引きの男はつばの広い帽子を被っていたため、朝来からは彼の目元が見えなかった。しかしすれ違い様に、重そうにバケツを持つ朝来に男が視線を向けたことに気づいた。犀座は老齢のようだった。足取りはゆっくりだし、犀座引きもそれをわかっているため自分は犀座に乗らず歩いている。あの犀座は引退が近い、と朝来は思った。

 やっとのことで山道に戻ってきた。ここからまた三十分ほど山を登らなくてはならないと思うとぞっとしたが、腰を曲げてバケツを地面に置き顔を上げた時、その必要はなくなったことに安堵した。アカガラが山を下りてきてくれたのだ。
「ありがとう!これで早くイブスキのもとへ戻れるわ」
 朝来はバケツをアカガラの背中に乗せてひもで固定させた。
 三十分も経たないうちに、イブスキの待つ山道から離れた人目につかない場所へ着いた。一際大きなブナの根元の窪みに、イブスキは横たわっていた。この木が母なら、その周りに立つ細い木々は子供達。あるいは大木が女王なら、木々達は彼女を守る騎士であるかのように立ち並んでいた。
 イブスキが呼吸するたび、身体が上下に動いた。目は閉じているかと思うと、微かな瞬きをしている。痛みでよく眠れなかったのだろう。疲れ切った様子でだらりと開いた口は乾いていた。朝来は急いで処置にかかった。巻いた布を外して、貼りつけた常緑樹の葉をはがした。血のにじんだ布を見たアカガラが一瞬ひるんで後ずさった。
「良かった!血は止まってる」
 ナースリーフと呼ばれる葉は止血効果が高い。朝来は犀座訓練の経験からそのことを知っていたため、常緑樹ナースリーフの木をすぐに見つけ出し、迷わず使うことができた。
 透明の塗り薬を付属のへらを使って塗布すると、冷んやりとした感触にイブスキは驚いて目を見開いた。朝来は再び新しいナースリーフを集め、素早く傷口に貼りつけた。
「思ったより早く治りそう。イブスキ、あなたの丈夫な肌は本当に宝物ね」
 もし狙われたのがアカガラなら、もっと重症だったかもしれないと朝来は思った。一部の研究者は鉛色の肌を鎧に例える。イブスキのような鉛色種は犀座の中で最も希少価値が高いのだ。しかしだからこそ、捕まえて利用しようとする輩も存在した。今回イブスキを狙ったのはその手の人物ではないかと、朝来は考えていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み