杏那

文字数 2,401文字

 犀座に宿る小さな闘争心を見た気がした。彼らを取り巻く人間達の心の機微が僅かな空気の揺れを起こし、これから大きな戦いが始まることを短い毛で覆われた繊細な肌で感じ取っている。薄暗い犀座小屋で、杏那はじっと動かない若葉色の一頭を見つめた。潤いに満ちた漆黒の無垢な目とは不釣り合いに、その輝きは不気味だった。恐怖ではなく、覚悟を決めた表情(かお)である。
 0境国の歴史において犀座が戦場に駆り出された例はこれまでないとされてきた。戦闘犀座が実戦に出ることもこの戦が初となる。犀座騎兵団結成から二十年、戦を知らないまま引退した犀座はたくさんいた。杏那は心のどこかで、今騎兵団にいる犀座達もそうなることを望んでいた。争いには無縁の優しい犀座。杏那もまた、そのような少女だった。『庭』がなくなってからというもの、自ら志願して騎兵団に入り、九九と一緒にファイアノイドに育てられた彼女は、剣の腕を磨くためだけに毎日を生きた。杏那はずっと、意志決定力の弱さが自分の弱点だと思っていた。与えられた場所で、周りに影響されながら何となく毎日を過ごす。将来どうしたいとか、生き方をがむしゃらに模索することはなかった。流されるままと言えばそうなのかもしれない。疑問を持たずにファイアノイドについてきた。その点では自分で何でも決められる九九がうらやましくもあった。もっと言えば憧れの存在。彼は常に疑いを持ち、その都度考え柔軟に方向を変えられる人間だ。『庭』にいた頃は兄代わりで、九九についていれば安全を保障されているのと同じだった。だからファイアノイドが騎兵団に九九を連れてきた時、杏那はとてもうれしくて心強かった。一度は別れたが、また一緒にいられることになった。しかし彼がファイアノイドと仲違いした時、その思いは幻想だとわかってしまった。元々考えの異なる二人だったから、そうなるのは時間の問題だったのだろうが。九九がいるという当たり前の日々はあっけなく過ぎ去り、杏那は迷いなくファイアノイドについた。ファイアノイドは彼女にとって父親、兄の九九より格上の存在だったからだ。何より九九とは違うカリスマ性をファイアノイドから感じ取り、それは杏那にとって魅力であり、自分に自信を与えてくれるものでもあった。
 そして脱走した朝来。大胆過ぎる彼女の行動は杏那にとって信じ難いもので、裏切り以外の何でもなく軽蔑さえしたほどだ。しかし一方で、犀座騎兵団に染まらない朝来をかっこいいと思っていた。必要以上のことはしゃべらず黙々と仕事をこなす彼女のことがたぶん好きだったのだと思う。
 九九と朝来。自分にはない行動力と意志の強さを持っている。九九には国境警備隊、朝来には犀座訓練、彼らにとって自己の確立。じゃあ私の持っているものは?
 杏那はファイアノイドの元を離れて剣を捨て、普通の女性としての人生を送りたいと思ったことがあった。結婚して家庭を持ち、子供を育て、やがて成長した子供を送り出し、年に一度夫と二人で小さな旅に出る。初めて訪れる外国に驚きと発見、大いに刺激を受けて、来年もまた行きたいと言うものの、心の中ではやはり故郷が一番だと思う。穏やかで温もりのある幸福な人生。そんな将来を、わずかに望んだことがある。では現実は?幸せではない?それは違う。極端な人生の違いを比べてどちらが幸せかを決めるのはそれ自体がつまらない。今にして思えば剣の稽古に励むことで、犀座騎兵団にいる理由を求めていたのかもしれない。いつしかその努力と強さが自分を証明するものとなり、結果としてファイアノイドの右腕になれた。杏那はファイアノイドに恩を感じているし、これからも彼を守るという使命感を抱きながら働くだろう。自分の選んだ道はここなのだ。


「ねえファイアノイド、なぜこの国は0境国というの?」
 少女が突然質問を投げかけた。犀座騎兵団へ来て数日、自ら志願して入団したというのに、こちらから話しかけても上の空だった。ほとんど九九のそばから離れなかった彼女が初めて起こした変化だと、ファイアノイドは思った。
「0境国は南に五十鈴国、北に千日国と、大きな国に挟まれているだろう?昔々、城もなく国王もいなかった時代、0境国は国として認められていなかった。そこで南北二つの大国はただの境目の土地だった0境国を巡って争いを起こした。どっちが勝ったか知ってるかい?」
 ファイアノイドは少女の興味を引けるように話したかったが、どうにもぎこちなく子供に慣れていないのが丸わかりだった。
「・・・五十鈴国?」
 自信のない小さな声。
「質問の仕方がずるかったかな。答えは引き分けだ。後に0境国の初代国王となる人が仲裁に入ったのさ。『争いが始まってから “ヨザクラ” が飛ばなくなった。あの美しい鳥は何にもない境目の土地にやってきてくれた神様なのに』と。ヨザクラの美しさは両国とも知っていた。その神秘的な存在に影響を及ぼすことがあってはならない。まもなく争いは終結し、0境国は正式に “国” となった。それによってヨザクラの保護義務が0境国にあることを三国で確立させた。もちろん争いが終わったらヨザクラは再び0境国の空に現れるようになったよ」
「何にもない境目の土地?」
「ああ。 “0境国” なんて誇れる意味は持たないが、初代国王はそのまま国名にした。 “何にもない境目の土地” だからこそ、ヨザクラはここに住みついたのだと信じていたからな」


 忘れられない記憶の一つ。何にもない境目の土地にも、神様は来てくれた。
「私達の争いを、ヨザクラはどう思うかしらね?」
 まだ眠らぬ犀座の背中をなでながらつぶやいた時、上空がかすかに明るくなった。遠くに見える淡いピンク色の光は徐々に鮮やかになり、いくつかの点が連なってこちらに向かってやってくる。その姿がはっきりと見えるまでにそう時間はかからなかった。ヨザクラが飛んでいる。
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